自由民主党の派閥(じゆうみんしゅとうのはばつ)では、日本の自由民主党(自民党)の国会議員における派閥について記述・説明する。自由民主党は1955年(昭和30年)の保守合同で誕生して以来、政権与党であった時期が多く、内閣総理大臣(首相)に指名されることが多い自由民主党総裁選びなどの国政に、派閥は大きな影響力を与えてきた[1][2]。報道においては、正式名称よりは、中心となる政治家の苗字を冠した「〇〇派」と表記されることが多い(後述)。首相を輩出している派閥は「主流派」、それ以外は「反主流派」「非主流派」と呼ばれる[3][4]。
中心となる政治家の台頭や影響力低下、引退、死去などにより、新規結成、代替わり、分裂、解消・解散を繰り返してきた。2021年(令和3年)12月、石破茂率いる水月会(石破派)が、退会者が相次いだことから派閥を解消して、他派閥との掛け持ちを認める「グループ」に移行した[5][6]。
政治資金パーティー収入の裏金事件を受けて2023年(令和5年)に自民党の派閥政治に対する世論の批判が高まり、2024年(令和6年)1月23日、当時の岸田文雄首相をトップとする宏池政策研究会(岸田派)が解散を決めた[7]。同月25日に森山裕率いる近未来政治研究会(森山派)が解散し[8]、2月1日に清和政策研究会が解散した[9]。そのほかに二階俊博を中心とする志帥会が同年6月21日に事務所を閉鎖した[10][11]。
同年9月時点で正式に存続している派閥は麻生太郎の志公会(麻生派)が唯一であり、石破が勝利した2024年自由民主党総裁選挙は「脱派閥」を掲げて行なわれたが、麻生派だけでなく、解散した派閥の元トップの影響力も残っていると報じられている[12]。
概要
かつては派閥内の結束があり、夏は「氷代」、冬は「餅代」などと称して所属議員に資金を援助する派閥も存在し、新人議員は陣笠議員として各派閥に入り、当選回数・職歴を重ね、派閥の意向を酌みつつ政治活動に励んでいた。当時の中選挙区制における自由民主党は、各選挙区で複数の候補者を擁立していたものの、同一選挙区で同じ派閥に所属する候補者が複数立つことはほぼなかった。しかし、同一選挙区における自由民主党の候補者が、互いの票を奪い合うことがあった。55年体制における自由民主党の派閥は5大派閥に収束していた。当時の中選挙区制により5人まで当選できたため、デュヴェルジェの法則により候補者が収斂されたためである。
役職
自由民主党内における派閥の役職は、概ね次のようになっている。
- 名誉会長
- 会長だった人物が就く文字通りの名誉職。一方で、ベテラン政治家あるいは会長の相談役として派閥内外に影響力を発揮する場合もある。
- 会長
- 派閥のトップ。一般に会長には影響力があるものの、前任者から地位を引き継いだ会長は力を持たない場合もある。政治資金やポストの斡旋などで支援を行うものの、地位を追われる場合もある。領袖(りょうしゅう)やオヤジとも言われる。
- 代表
- 派閥のトップ。会長人事への異論が無視できない場合は旧大平派、旧亀井派、丹羽・古賀派などの暫定的な性格を強調する意味で会長の代わりに用意される。
- 会長代行
- 派閥のナンバー2で運営の中枢を担うポスト。
- 座長
- 会合の世話役となるポスト。普段は名誉職であるものの、非常時に力を持つ場合もある。
- 副会長
- 名誉職の意味合いがあるベテラン政治家によるポスト。複数名置かれることが多い。
- 事務総長
- 派閥の資金管理や渉外などの実務を担当する枢要なポスト。その下に事務総長代理や事務局長が置かれる。「事務総長」という肩書を使い出したのは1983年1月の田中派が最初とされ、1987年12月までに全ての派閥に事務総長が置かれた。
派閥の通称
報道機関における派閥の呼称は、各派の会長職にある議員の苗字から、通称で「○○派」と呼ばれる。この通称については各社の判断で決定されており、場合によっては各社において違った呼び方をすることがある[注釈 1]。通常、会長職にある議員が何らかの理由で欠けて、派内に次期会長職を引き継ぐ者がいない場合は、前会長の苗字から通称で「旧○○派」と呼ばれる[注釈 2]が、例外として、2022年7月8日に清和政策研究会会長であった安倍晋三元首相が死去した際には、同年7月21日に開かれた総会で「安倍派」の通称を継続して使用することが正式に決定された[15]。
ほかに、自由民主党則で定められているわけではないものの、内閣総理大臣や自由民主党執行部に就いた者はその在任期間は派閥を離脱することが慣例となっており、その間は派閥の最高幹部に会長格ポストを預けることが多い。この場合は復帰を視野に入れ、派閥の呼称における変更は行われない。会長職から離れる例が短期間に留まる場合も同様である。以下に例を挙げる。
ただし、高村正彦の副総裁就任および大島理森の衆議院議長就任により高村派から大島派、大島派から山東派へ変更された例、伊吹文明の衆議院議長就任により伊吹派から二階派へ変更された例では、会長への復帰はなされないものと考えられており、派閥の呼称は変更されている。なお、大勇会会長の河野洋平が衆議院議長に就任した例では、引退していた相澤英之が座長に留まり派閥を取り仕切り、会長には河野洋平が留まったほか、同じく為公会会長の麻生太郎が総裁に就任した例では、中馬弘毅が座長に留まり派閥を取り仕切り、会長は麻生太郎が留まった。また、岸田文雄は総裁就任後も慣例に反して宏池政策研究会会長に留まっていたが[16]、2023年12月、派閥による政治資金パーティー収入の裏金問題を受け、派閥を離脱した[注釈 3][17][18]。
在任期間を終えてもそのまま派閥に復帰しなかった例としては、小泉純一郎総裁、石破茂政務調査会長、谷垣禎一総裁などが挙げられる。
特殊な例としては七日会→木曜クラブが挙げられる。田中角栄は1976年(昭和51年)にロッキード事件で逮捕されて自由民主党を離党し、七日会も脱会した。田中自身は七日会の会長に就任したことはなく(発足時から西村英一が会長)、逮捕後も西村英一・二階堂進が会長を務めたものの、報道機関における派閥の呼称は「田中派」であった。実際は議員への政治資金や運営の全権を田中が担っており、会長格に相当する人物であることが明らかであったためである。一方で、1987年(昭和62年)に木曜クラブから創政会が分裂すると、報道機関では分裂を境に木曜クラブを「二階堂派」と呼ぶようになった。
連立政権と派閥
ここで言及されている連立政権とは、政治において政策や主張に共通点のある政党が集まって統一された政策の形成を図り、政策の実現に向けて政権の担当を目標とする活動において、議会の交流におけるコミュニケーションの場として働いている組織である。
自由民主党則には派閥の規定はない。
評価と弊害
派閥政治は連立政権と同等であり、自由民主党に多様性をもたらす。これにより幾多の政治変動にも対応できる広大な支持基盤を持った政党が誕生した。価値観の多様化が進む現代社会では、政党制も支持基盤の多様化に合わせて多党化しないと問題が生じ、小党乱立に至らざるを得ない。派閥同士の関係は険悪だったものの、日本社会党が野党であり続けることを選択した状況の中で、政治の緊張感を維持し、公明党も含めて与党であり続けた側面がある。派閥解消が要求された時期には勉強会や新人議員における教育機関としての役割も無視できず、グループという建前で実質的に派閥の維持が図られた。
派閥政治は政党政治の観点から批判されることがある。派閥領袖は政治資金やポストの斡旋などで支援を期待され、資金の不足しがちな若手議員や入閣適齢期の中堅議員は派閥領袖の意向に大きく左右される。これにより総裁の判断を無視した派閥領袖の意向が影響力を持つことが多々あり、長老支配、密室政治、金権政治の原因となってきた。角福戦争に代表される派閥抗争が各派閥の行きがかり(「怨念」)を主題に争われ、政策課題が二の次となることもあった。
初めて当選した新人議員は派閥から勧誘を受けるが、派閥の思想や支持団体の意向と合わない者には声がかからないという[19]。赤松健は表現の自由を強固に訴え、献金も受けないことを明言していたため、当選後にまったく勧誘されなかったという[19]。
歴史
結党
戦後、保守陣営は離合集散を繰り返しながら激しく争ったものの、最終的に自由党と日本民主党の2勢力にまとまり、両党による保守合同(1955年11月)を経て自由民主党が結成された。革新陣営による社会党再統一も経たものの、三木武吉による想定のように、解党・分裂が十分にありえた。旧自由党・旧日本民主党やそれ以前の人脈に加えて、経歴・信条・政策などにおいて比較的近い議員が集まることにより形成されたのが自由民主党の派閥におけるルーツである。
そして、1956年(昭和31年)12月の総裁選挙をきっかけに[20]、「八個師団」と呼ばれる8派閥が形成された。自由民主党内における派閥は保守合同の過程で生じた思想的・政策的・党派的・人的な利害関係により結ばれたこの8派閥が原型である。
8派閥から5大派閥への収斂
5大派閥に至る時代には国務大臣を経験した自由民主党内実力者が派閥会長に就いており、総裁の座を争った。かつては各派閥が領袖(派閥会長)を自民党総裁に担ぎ上げ、総理大臣にするために派閥間権力闘争を繰り広げた。
旧自由党系は、池田勇人(池田派。宏池会)、佐藤栄作(佐藤派。後に福田派と田中派に分離)、大野伴睦(大野派。後に船田派と村上派に分離)、石井光次郎(石井派。高齢議員が多く、自然消滅)がそれぞれの派閥を率いていた。
旧民主党系は、岸信介(岸派。1962年10月30日解散。事実上の福田派へ)、河野一郎(河野派。中曽根派と福田派へ分離)、石橋湛山(石橋派。後に三木派合流)、三木武夫&松村謙三(松村・三木派が三木派と松村派に分離)がそれぞれの派閥を率いていた。
特に、新安保発効と国民皆保険制度成立を下支えした岸信介内閣が総辞職し、池田勇人総裁が誕生した際には対立が鮮明になり、派閥の再編が急速に進んだ。総裁の座を巡る権力闘争により離合集散は繰り返された。
中選挙区制に対応できない小派閥は淘汰されてゆき、これらは、1970年代の三角大福中期[21]には5大派閥(十日会系の福田派・木曜研究会系の田中派、宏池会系の大平派、春秋会系の中曽根派、政策研究会系の三木派)に収束した。
派閥から政策集団への転換
結党以来、派閥の弊害が指摘されており、1963年(昭和38年)10月の「三木答申」により穏やかな派閥解消が成立するか注目されたものの、当時の池田勇人総裁は自由民主党史上初めてとなる試みを受け流した格好となり、結局派閥解消には至らなかった。その後、1977年(昭和52年)3月の福田赳夫総裁下と、1994年(平成6年)の河野洋平総裁下での野党時代に派閥解消は行われ、マスコミでも「旧○○派」の通称に統一された。しかし、実質的には派閥は連綿と存続しており、派閥活動が公然と行われて総裁選挙に影響を与えた[22][23]。
1963年(昭和38年)秋の自民党組織調査会の党改革と派閥解消に関する答申(いわゆる三木答申)で三木武夫を長とする組織調査会は「一切の派閥の無条件解消」を提言し、「政策派閥、親睦派閥の発生は自由民主党のような大世帯ではやむを得ないという見方もある」が「あたかも独立政党のごとき状態は明らかに行きすぎである」とした[24][25]。
三木武夫内閣下で発覚したロッキード事件では、田中角栄との阿波戦争における影響もあり、派閥の争いは熾烈を極めた。
ロッキード事件後の1976年(昭和51年)末に実施された第34回衆議院議員総選挙で大敗した自民党は1977年(昭和52年)1月の党大会、その後4月の臨時党大会で、総裁候補決定選挙(予備選挙)を全党員と党所属国会議員で行うことにより従来の派閥の影響力を抑える、派閥解消の方針を打ち出した[26]。この改革を提言した三木武夫が自身の派閥を解消するなどして、金と人事中心の派閥から政策中心の政策集団への転換が図られた[27]。しかし看板を掛け替えたに過ぎないとも言われ、その後1年半を経過して行われた総裁選挙で「派閥は完全に復活した」[27]。
1979年(昭和54年)の第35回衆院選での敗北後の四十日抗争で党内の派閥間対立が深まった後、1980年6月26日に党基本問題運営等に関する調査会が長年の派閥の弊害を指摘し、派閥解消の答申をした[28][29]。しかしこの直前の22日投票の第36回衆院選で自民党は大勝しており、派閥解消の機運はなくなった[30]。後の1992年の香山健一の意見によれば、自民党の派閥解消の目的は事実上複数の政党の連合のようであった党を一枚岩の政党に改組することだったはずだが、実際には派閥を政策集団という形で公式化することにより政党連合的状態が強化された[24]。
1980年(昭和55年)の大平正芳総裁死去を受けた後継総裁に派閥会長でない鈴木善幸が話し合いで選出され、結党以来初となる異例事態に至り、総主流派体制が敷かれ5大派閥による争いの沈静化が進んだ。また、竹下登内閣下で発覚したリクルート事件では、総裁を始め派閥領袖を含む自由民主党内実力者たちが軒並み事件に関わっていたことから、1989年(平成元年)に再び派閥会長でない中曽根派の宇野宗佑総裁が誕生し、宇野内閣崩壊後には河本派の海部俊樹総裁が続いた。この間に参議院議員を重視した竹下登がほぼ全派閥から支持を集めるようになり、長期に亘る「経世会支配」とその後に続く「清和会支配」の実現に至った。
「派閥と領袖」の意義の変容
自由民主党が下野した1993年(平成5年)に宮澤派の河野洋平総裁、1995年(平成7年)に小渕派の橋本龍太郎総裁が誕生するに至り、総裁の座は派閥会長が競うものから選挙における顔としての価値に重きが置かれるものへと変貌した。
そして、中選挙区制から小選挙区比例代表並立制へと変わり、候補者選定過程で自由民主党本部の存在価値が高まった。このことにより総裁の座を争うための集団からポスト獲得互助組織へと派閥における存在目的の変質が見て取れるように、会長総裁分離が進行した[31][32]。
2009年(平成21年)の第45回衆議院選挙では自由民主党が大幅に議席を減らしたため、各派閥で退会者が相次いだ。同年には高村派を退会して「のぞみ」を立ち上げた山本有二は派閥が昼食を食べるサロンになったと批判した。2010年(平成22年)には新党結成や公認争いを巡り離党者に歯止めがかからず、派閥の退会にもつながった。鳩山邦夫、藤井孝男、小池正勝の離党によりどの派閥にも属さない無派閥議員の人数が33人となり、額賀派を抜いて自由民主党内の第二勢力となった。2011年(平成23年)には無派閥議員が48人となり、自由民主党内の第一勢力となった。
第46回衆議院議員総選挙で自由民主党が大勝したことにより議員数が飛躍的に増加し、派閥の内実に大きな変容が生じた[33][34][35][36][37]。
2022年時点では、領袖の大半が総裁候補ですらなく、親睦会の性格が強まっている。森山派(近未来政治研究会。旧山崎派)、二階派(志帥会。旧村上・亀井派)、麻生派(志公会。旧麻生派と旧松村・三木派)、岸田派(宏池政策研究会。旧池田派)、茂木派(平成研究会。旧竹下派)、安倍派(清和政策研究会。旧福田派)の6派閥があった[21]。
裏金問題以降の動向
2024年(令和6年)1月19日、政治資金パーティーをめぐる裏金問題を理由として[38]、宏池政策研究会(岸田派)[39]、志帥会(二階派)[40]、清和政策研究会(安倍派)[41]が解散する方針を決めた。従来の「派閥」は「政策集団[42]」へと改められて事実上存続する形となった[43]。これに対し、無派閥議員の議員連盟が自民党全派閥を一旦は解消する方針を提唱した[44]。
同年1月23日、宏池会は臨時総会を開き、派閥を正式に解散した[7]。岸田は、残る麻生、茂木、森山3派について「党の新たなルールに従ってもらう。派閥ではなくなる」と述べた[45]。同日23時、森山派は近未来政治研究会を解散する意向を固めた[46]。1月25日、森山派は臨時総会を開き、派閥を正式に解散した[8]。
「全派閥解散が大前提」という主張が自民党議員の中から初めて現れた[47]。
1月26日、派閥の形式をとっていない谷垣グループ(有隣会)が解散を決定[48]。
同年2月1日、清和政策研究会が最後の議員総会を開き、清算委員会を設置することを確認した[9]。
同年4月17日、茂木派の茂木敏充が政治団体としての届け出を取り下げる方針を決め、「今後は内外の課題解決に向け、仲間が問題意識や政策の方向性を共有できる楽しいグループを目指していきたい」と今後の方針について述べた[49]。
派閥一覧
現存
- 太字は総裁経験者。2024年(令和6年)7月30日までの勢力関係である。
上記の派閥のほかに、「日本の尊厳と国益を護る会」「保守団結の会」「伝統と創造の会(稲田朋美会長)」「さいこう日本(甘利明代表)」「きさらぎ会(菅義偉顧問)」「ガネーシャの会」「無派閥有志の会」「水月会」「平成研究会」など、無派閥議員間での連携を模索するグループが様々な形態で見られる。
第2次安倍内閣では議員連盟として『創生「日本」(安倍晋三会長)』に参加する議員が多く登用されていた。さらに、自由民主党青年局が主催する勉強会が開かれるようになり、派閥が果たした役割は分担されている。このため、「有隣会」は派閥にこだわらない若手や情報交換を目的とするベテランの受け皿となっている。
各派閥の特徴
各派閥の系列における特徴としてはタカ派色のある十日会系(清和政策研究会)、ハト派色のある木曜研究会系が二大勢力となっていた。ただし、十日会系も財政出動による景気拡大を推進してきた過去があるなど、多彩な特徴を持つ。なお、いずれも鳩山一郎(旧日本民主党)・吉田茂(旧自由党)という源流をそれぞれ軸に発足しているものの、二系列それぞれを完成させたといえる岸信介・佐藤栄作は実の兄弟である。
宏池会系は「公家集団」による名門であるものの、要所要所では潤滑油的な働きをした影の薄い役回りとなっている。春秋会系は挙党態勢を志向してきた歴史があり、政策研究会系は独自路線を志向してきた歴史がある。派閥の離合集散が必要以上に繰り返された理由は、春秋会系の河野一郎・中曽根康弘・渡辺美智雄などといった面々の支持・非支持を巡り巧みな自由民主党内遊泳が求められたためである。
森政権以降、保守傍流の路線が本流と化し、保守本流は衰退したといわれる[50][51]。
派閥の変容
×は断絶、()は離脱、「」は正式名称、【 】は現存する通称である。
また、芦田派、大麻派、北村派、広川派などの小派閥も存在した。さらに、砂田重政・賀屋興宣、一万田尚登なども派閥形成を試みている。
1970年代には田中派と福田派による角福戦争が繰り広げられ、田中派が勢力を持つこととなり、調整や根回しなどの人心掌握術により何度も自派閥議員の総裁就任を画策した田中派の政治手法に批判が集まってゆき、打破しようという目的で若手議員により「青嵐会」が結成された。また、河野洋平による「政治工学研究所」、小坂徳三郎による「新風政治研究会」、中川一郎による「自由革新同友会」、石原慎太郎による「黎明の会」、武村正義による「ユートピア政治研究会」、83会に所属する小泉チルドレンを支援した武部勤による「新しい風」などのグループは、そのまま代表者を領袖とする派閥に発展する可能性を持っており、石破茂による「さわらび会」と山本有二による「のぞみ」と石破茂を要とした山本有二による「無派閥連絡会」が母体となって石破派が結成された(石破派は後に石破グループへ組織形態変更)。
系譜図
参議院自民党の派閥
1972年まで、自民党参議院議員のみで構成される派閥が存在した。現在でも衆参両院にまたがっている派閥で参議院にのみ独自の会を結成し、独自の構成員を擁していることがある[53]。
参議院自民党の主な派閥
- 清新クラブ:1957年2月、岸信介を支持する参議院議員で結成。1970年5月、清風クラブへ発展的に解消。
- 清風クラブ:1970年5月、重宗雄三を支持する参院議員で結成。1972年崩壊。上記「清新クラブ」から替わった集団。
- みずほクラブ:1960年、大野派・河野派・藤山派によって構成。1968年末までに解散。
- 水曜会:石井派・池田派の参議院議員によって構成。1960年、懇話会へ発展的に解消。
- 懇話会:1960年、上記「水曜会」と三木派の参議院議員によって結成。1968年末までに解散。
- 桜会:清風クラブの、重宗雄三と対立したグループが1969年5月結成。
- 弥生会:1970年、田中角栄を支持する参院議員で結成。重宗雄三の圧力で解散。
- 五日会:1972年、参議院田中派で結成。
- 参議院同志会:1972年、福田赳夫を支持する参議院議員で結成。
- 参院平成研究会:平成研究会メンバーと独自メンバーで構成[53]。
脚注
注釈
出典
参考文献
関連項目
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前身: 自由党・日本民主党 |
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保守本流 |
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宏池会(池田派 → 前尾派 → 大平派 → 鈴木派 → 宮澤派) → 木曜研究会(加藤派 → 小里派 → 谷垣派 → 古賀派に合流×) 、※新財政研究会(堀内派 → 丹羽・古賀派) → 宏池政策研究会(古賀派 → 岸田派 → ×)、※大勇会(河野派) → 為公会(麻生派) → 志公会(麻生派)、※有隣会(谷垣グループ → ×)
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木曜研究会(佐藤派) → 周山会(佐藤派) → 周山クラブ(保利グループ → 福田派に合流×)、※七日会(田中派) → 政治同友会(田中派) → 木曜クラブ(田中派 → 二階堂派 → ×)、※経世会(竹下(登)派 → 小渕派) → 平成政治研究会(小渕派) → 平成研究会(小渕派 → 橋本派 → 津島派 → 額賀派 → 竹下(亘)派 → 茂木派)、※改革フォーラム21(羽田・小沢派 → 新生党に合流×)
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白政会(大野派) → 睦政会(大野派) → 一新会(船田派 → ×)、※一陽会(村上派) → 巽会(水田派 → ×)
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保守傍流 |
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十日会(岸派 → ×)、※党風刷新懇話会 → 党風刷新連盟 → 紀尾井会(福田派) → 八日会(福田派) → 清和会(福田派 → 安倍(晋太郎)派 → 三塚派) → 21世紀を考える会・新政策研究会(三塚派 → 森派) → 清和政策研究会(森派 → 町村派 → 細田派 → 安倍(晋三)派 → ×)、※政眞会(加藤派 → 新生党に合流×)、※愛正会(藤山派 → 水田派に合流×)、※(南条・平井派 → 福田派に合流×)、※交友クラブ(川島派 → 椎名派 → ×)、※(亀井グループ → 村上・亀井派に合流×)
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春秋会(河野派 → 森派 → 園田派 → 福田派に合流×)、※新政同志会(中曽根派) → 政策科学研究所(中曽根派 → 渡辺派 → 旧渡辺派 → 村上派 → 村上・亀井派に合流×) → 志帥会(村上・亀井派 → 江藤・亀井派 → 亀井派 → 伊吹派 → 二階派 → ×)、※近未来政治研究会(山崎派 → 石原派 → 森山派 → ×)、※さいこう日本(甘利グループ)、※国益と国民の生活を守る会(平沼グループ → 日本のこころに合流×)
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政策研究会(松村・三木派) → 政策同志会(松村・三木派) → 政策懇談会(松村・三木派 → ) → 政策懇談会(三木派) → 新政策研究会(河本派) → 番町政策研究所(河本派 → 高村派 → 大島派 → 山東派 → 麻生派に合流×)、※(松村派 → ×)、※(早川派 → 福田派に合流×)
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火曜会(石橋派)、二日会(石田派 → 三木派に合流×)
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青嵐会 |
青嵐会、自由革新同友会(中川グループ → 石原グループ → 福田派に合流×)
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保守新党 |
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83会 |
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水月会 |
さわらび会(石破グループ) → 水月会(石破派 → 石破グループ)
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無派閥 |
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※は派閥離脱、太字は現在への系譜、括弧内矢印は派閥継承。 |
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