ブルース・フレデリック・ジョセフ・スプリングスティーン (Bruce Frederick Joseph Springsteen , 1949年 9月23日 - )は、アメリカ合衆国 ニュージャージー州出身のシンガーソングライター である。
人物
ニックネームは「The Boss 」。米国のロック界を代表する重鎮として世界的な知名度を誇り、アメリカで6400万枚、全世界で1億3500万枚以上のレコードセールスを記録している[2] 。初期の作品においては、青春群像の描写に才能を示したが、やがて社会的なテーマを作品に織り込む事によって、アメリカの労働者や若者の声を代弁する存在となった。彼のロックはボブ・シーガー やトム・ペティ らとともに「ハートランド・ロック」とも呼ばれる。ハートランドはアメリカ中西部から南部の一部も含む広大な地域で、労働者や農民も多い地域である。支持政党はアメリカ民主党 。
父はオランダ系 とアイルランド系 のアメリカ人のダグラス(1924〜98)、母はイタリア系アメリカ人 のアデル(1925〜)。妻はシンガーソングライターのパティ・スキャルファ (英語版 ) (1953〜)。
自らが目指す音楽について、「ボブ・ディラン のような歌詞を、フィル・スペクター のようなサウンドに乗せて、ロイ・オービソン のように歌いたかった」と述べている。
1999年 、『ロックの殿堂 』入り。ローリング・ストーン誌選出「歴史上最も偉大な100組のアーティスト」第23位。同「歴史上最も偉大な100人のシンガー」第36位[3] 。同「歴史上最も偉大な100人のギタリスト」第96位。「Q誌 選出「歴史上最も偉大な100人のシンガー」第62位[4] 。
娘のジェシカ・スプリングスティーン は馬術選手 で、2020年東京オリンピック 馬術障害飛越団体にアメリカ合衆国チームのメンバーとして出場し、銀メダル を獲得した[5] 。
略歴
デビュー以前
エルヴィス・プレスリー に憧れてギターを始めた。10代半ばから、地元ニュージャージーで数々のアマチュア・バンドに参加。1969年 に結成した、スティール・ミルというハードロック ・バンドは、西海岸に演奏旅行に出かけた際に、ビル・グレアム からデモ・レコーディングの機会を与えられ、更にレコード契約を提示されるほどの評価を得た(結果的にレコード・デビューはしていない)。1971年 の同バンド解散後は、リズム・アンド・ブルース の要素を取り入れたブルース・スプリングスティーン・バンドというグループを結成するも、仕事の不足からあえなく短期間で解散している。
1970年代
ブルース・スプリングスティーン&ザ・Eストリート・バンド(1977年)
前述のバンド解散後はソロで活動をしていたが、1972年 に若手音楽ビジネス家のマイク・アペルと出会い、才能を見込まれてマネージメント、レコード・プロデュース及び音楽出版契約を結ぶ。その後、大手レコード会社CBS の伝説的A&R マン、ジョン・ハモンド のオーディションを受ける。ハモンドはその才能を絶賛、結果1973年 1月5日 に『アズベリー・パークからの挨拶 (英語版 ) (Greetings From Asbury Park, N.J. )』でレコード・デビューする運びとなった。
デビュー当初は、「第二のディラン 」というキャッチ・フレーズで、シンガーソングライター 的な扱いでのプロモーションを受けたが、あくまでロックン・ローラーとしての活動にこだわっていた本人は、そのギャップに苦しむことになった。デビュー・シングルの「光で目もくらみ (Blinded by the Light )」はチャートインを逃し、セールス的には振るわず、クラブ・サーキット中心のライヴ活動に活路を求めた。
1973年 9月に、セカンド・アルバム『青春の叫び (The Wild, The Innocent & The E Street Shuffle )』を発表、評論家からは高い評価を得た。一方で、地道なライヴ活動が実を結び、そのパフォーマンスが評判を呼んだ。
1974年 に、ライヴを観たロック評論家ジョン・ランドー は、リアルペーパー誌に「私は『ロックン・ロールの未来を観た』。その名はブルース・スプリングスティーン」と絶賛のコラムを掲載する。そのランドーをプロデューサーに招いて製作された、翌1975年 8月25日 発売のサード・アルバム『明日なき暴走 (Born to Run )』は、Billboard 200 の10位に入り、10月18日付けチャートでは3位に浮上する。シングルカットされたタイトルチューン の「明日なき暴走 」はビルボード・Hot 100 の23位を記録した。また、タイム 誌とニューズウィーク 誌の表紙を同時に飾った。
だが1976年 、ジョン・ランドーのプロデュース参加や曲の著作権を巡って、マネージャーのマイク・アペルとトラブルになり、裁判となる。最終的には、翌1977年 に法廷外での和解となり、アペルとの関係を解消したが、レコーディング活動は2年間休止した。なお、ランドーは後にスプリングスティーンのマネージャーとなっている。ブルースにとって不遇の時代に、マンフレッド・マンズ・アース・バンドが「光に目もくらみ」(1977)をカバーしてヒットさせている。
前作より3年が経った1978年 に、アルバム『闇に吠える街 (Darkness on the Edge of Town )』を発表する。前作のセールスには及ばなかったものの、その後のライヴでの主要レパートリーが多く収録されたアルバムとなった。当作を引っ提げた全米ツアーを実施した。また同78年、パティ・スミスに「ビコーズ・ザ・ナイト」を提供し、同曲はヒットを記録した[6] 。
1980年代
東ドイツ『DDRラジオ放送局 』ライブにて(1988年)
1980年 10月17日 、5枚目のアルバム『ザ・リバー (The River )』を発表。初めてアルバム・チャート1位を獲得し、リカット・シングル「ハングリー・ハート (Hungry Heart )」も初のBillboard Hot 100 のトップ10入り。その後、約1年に渡るワールド・ツアーを敢行した。またアルバム収録曲「ザ・リバー」も話題となった。1981年にはゲイリーUSボンズにヒット曲「ディス・リトル・ガール」を提供し、ボンズのカムバックに協力した。
1982年 9月30日 、6枚目のアルバム『ネブラスカ (Nebraska )』を発表。アコースティック・ギターとハーモニカだけで自宅にてレコーディングされた作品で、内容も含めて反響を呼んだ。
1984年 4月に始めた連続コンサートは1億1700万ドル(当時のレートで約277億3000万円)の興行収入をあげたとして、かつてギネス世界記録 で「最も成功したコンサート」として認定されていた[7] 。6月4日 、7枚目のアルバム『ボーン・イン・ザ・U.S.A. (Born in the U.S.A. )』を発表。アルバム・チャート(ビルボード)1984年 6月23日 付初登場9位、その後、1984年7月3日 から4週連続で1位となり、間をあけて1985年 1月19日 に再度1位に返り咲くという大ヒット作となる。また、UKアルバム・チャートでも1984年6月16日 付で初登場2位、1984年12月22日 付では79位にまでダウンしたが、翌12月29日 付以降再び順位を上げ、チャートイン36週目の1985年 2月16日 付で初の1位を記録。さらに6月1日付では14位までダウンするものの、7月6日 付で再度1位に返り咲くという記録を達成している。アルバム中の1曲「ダンシン・イン・ザ・ダーク (Dancing In The Dark )」は、全米シングル・チャート(ビルボード )で4週連続第2位を記録した(1984年6月30日〜7月21日)。
また、この曲のミュージック・ビデオでは、有名な映画監督のブライアン・デ・パルマ が、まだ女優としては無名だったコートニー・コックス をファン役に起用。彼女がライブの途中でスプリングスティーンにステージに呼び寄せられ、一緒にダンスを踊るという内容である。
だが、「ボーン・イン・ザUSA」の曲は誤解され、保守派のジョージ・ウィルがブルースのコンサートに出かけ、彼の労働倫理を賞賛する文章を書いた。共和党の右派政治家ロナルド・レーガン も演説でブルースを賞賛した[8] 。曲はレーガンの大統領選挙 のキャンペーンに使用され、ブルースは激怒した。また同曲は民主党のウォルター・モンデール 候補にも使用された。
アルバムは、全米で1200万枚、全世界で2000万枚の売上を記録し、発表と同時に行われたワールド・ツアーも大成功を収めた。
USAフォー・アフリカ にてウィ・アー・ザ・ワールド を歌う
1985年 4月、初来日公演を行った。同年5月、モデルのジュリアン・フィリップス (英語版 ) と結婚した(1988年に離婚)。同年、USA for AFRICA の「ウィ・アー・ザ・ワールド 」に参加した。ソロパートを2度も担当している。メイキング映像によると、「飢えている人たちのために一晩くれと言われたら、断るわけにはいかない」と語っている。また、当時Eストリート・バンドを離れていたスティーヴ・ヴァン・ザント (後に復帰)を中心とした「アパルトヘイトに反対するアーティストたち」の楽曲「サン・シティ 」にも参加した。
1986年 には、1975年から1985年までのライヴ録音からベストテイクを集めたライヴ・アルバム『THE LIVE (Live/1975-85 )』を発表する。LP5枚組、またはCD3枚組というボリュームにもかかわらず、アルバム・チャート初登場1位という、前代未聞の記録を残した。
1987年 10月9日 、8枚目のスタジオ・アルバム『トンネル・オブ・ラヴ (Tunnel Of Love )』を発表。アルバム発表後ワールド・ツアーを行うが、ツアー終了後の1988年 、デビュー以来バックを勤めてきたEストリート・バンドは解散した。
1990年代
妻パティ・スキャルファ(2008年)
1991年 、同郷でバンド仲間であるシンガーソングライター、パティ・スキャルファと再婚。後には3人の子供を儲ける[9] 。
1992年 、長い沈黙を破り、『ヒューマン・タッチ (Human Touch )』と『ラッキー・タウン (Lucky Town )』という2枚のアルバムを同時発表した。2枚組にしなかった理由は、『ヒューマン・タッチ』完成直前に新たなコンセプトが浮かびアルバム1枚分の曲を録音したが、同じアルバムに収録するには無理があると判断したためである。
1993年 には、ジョナサン・デミ 監督の映画『フィラデルフィア (Philadelphia )』の主題歌として「ストリーツ・オブ・フィラデルフィア (Streets Of Philadelphia )」を書き下ろしで提供。同曲で1994年 にアカデミー歌曲賞 を受賞している。日本で深夜に放送されていた音楽番組『BEAT UK 』(フジテレビ )では、UKシングル・チャート No.1を獲得した。
1995年 に、初のベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ (Greatest Hits )』を発表。再結集したEストリート・バンドと録音した3曲を含む新曲4曲も収録された。同年には、ジョン・スタインベック の小説『怒りの葡萄 』にヒントを得たアルバム『ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード (英語版 ) (The Ghost of Tom Joad )』を発表。1997年 まで、アコースティック・ソロでワールド・ツアーを行った。
1998年 には、デビュー以来の未発表曲や既発曲の別テイクを集大成したCD4枚組ボックス・セット『トラックス(Tracks )』を発表。直後にEストリート・バンドの再結成ツアーを行い、全米とヨーロッパの各地で歓迎された。
1999年 、『ロックの殿堂 』入りを果たす[10] 。
2000年代
地元ニュージャージー州にて(2005年4月)
2001年 9月11日 に発生したアメリカ同時多発テロ事件 は、スプリングスティーンの活動にも大きな影響を及ぼした。事件直後は、いくつかの追悼イベントに参加。翌2002年 7月には新作アルバム『ザ・ライジング (The Rising )』を発表。テロの犠牲者や遺族、自爆テロリストにまで題材をとり、事件の傷跡を癒そうとする内容の作品であった。同時に全国、ヨーロッパを巡るツアーを開始。
当初、アメリカのアフガニスタン侵攻 については賛同していたものの、イラク戦争 については反対を表明した[11] 。
2004年アメリカ合衆国大統領選挙 に際しては、反ブッシュ 的立場を鮮明にした。『Vote For Change』と銘打って、R.E.M. 、パール・ジャム 、ジャクソン・ブラウン 、ジョン・フォガティ (元クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル )ら多数のアーティストとツアーを行い、共和党支持の強い地域で民主党支持を訴えた。選挙直前の2004年 10月28日 には、オハイオ州 でジョン・ケリー 上院議員の応援演説も行った。結果的にブッシュ は再選されたが、それについてのスプリングスティーンのコメントは発表されず、彼自身のアコースティック・ギター弾き語りによるアメリカ国歌 がオフィシャルサイトにアップロードされた。
2005年 4月に、通算20作目となるアルバム『デビルズ・アンド・ダスト (Devils & Dust )』が発表された。主に、個人の信条と政治や社会の間で苦悩する人々の姿が描かれている作品である。アルバム発表後、ソロ・ツアーをアメリカ、ヨーロッパで敢行。このツアーは、1995年 - 1997年 にかけて行われた「ゴースト・オブ・トム・ジョード・ツアー」とは若干異なり、ギターとピアノ、オルガンを曲によって弾き分ける形式であった。
同年11月には、サード・アルバム『明日なき暴走 (Born to Run )』の発表30周年を記念したボックス・セットが発売された[12] 。2007年 には2年ぶりの新作『マジック (Magic )』を発表した。
2009年 、「ザ・レスラー」が、第66回ゴールデングローブ賞 の“主題歌賞”を受賞。この曲は、ミッキー・ローク 主演映画、『レスラー 』においてエンディングテーマとして使用されたが、友人でファンでもあるミッキー・ロークのために、書き下ろした曲である[13] 。
2009年2月開催のNFL の第43回スーパーボウル のハーフタイムショーに出演。「凍てついた10番街」(『明日なき暴走 』収録曲)と新作の『ワーキング・オン・ア・ドリーム (Working On A Dream )』の同名タイトル曲を熱唱した[14] 。
2010年代
『大統領自由勲章 』授章式にて(2016年11月)
2010年 11月、4thアルバム『闇に吠える街 (Darkness on the Edge of Town )』のボックス・セットが発売された。また、このボックスにも収められている未発表曲を2枚組アルバム『ザ・プロミス』として同時発売した。
2012年 3月、3年ぶりとなる久々の新作『レッキング・ボール (Wrecking Ball )』を発表、世界14か国で初登場1位となった[15] 。
2012年 7月26日、自身が過去にうつ病に悩まされていたことを、米紙ニューヨーカーのインタビューで告白。それによると、1982年に心理療法士のカウンセリングを受け始めていたという[16] 。
2014年 1月、通算18枚目のオリジナルアルバム『ハイ・ホープス 』を発表。世界20か国で1位となったほか、日本でも約20年ぶりにオリコン週間洋楽アルバムランキング第1位を獲得した[17] 。
2016年 、母国・米国の栄誉『大統領自由勲章 』を受章[18] 。
2018年 、ブロードウェイ・シアター の最高栄誉『トニー賞 』を受賞[19] 。
2019年、通算19作目のオリジナルアルバム『ウエスタン・スターズ (Western Stars )』を発表。1960年代終わりから1970年代初めにかけてのサザン・カリフォルニア・ポップ・レコードにインスパイアされた、彼の音楽を新たな境地へと誘う作品となった。彼自身は「このアルバムは、キャラクター主導型の曲と、大胆でシネマチックなオーケストラのアレンジを特徴としていた僕のソロ作品への回帰――“宝石箱"のようなアルバムなんだ」と語った。
2020年代
2020年 10月23日 、通算20作目のオリジナルアルバム『レター・トゥ・ユー (Letter to You )』を発表した[20] 。
2021年 、全楽曲の権利をソニー・ミュージックエンタテインメント に売却。売却額は公表されていないが5億ドルを超えると推測され、1人のアーティストとしては過去最高額と見られた[21] 。
Eストリート・バンド
スペイン・バリャドリッド公演(2009年8月)
クラレンス・クレモンズ(2002年)
Eストリート・バンド (The E Street Band)はスプリングスティーンのレコーディング、コンサートにおいてバック演奏を務めるグループ。アマチュア時代に結成したバンドが母体になっているが、メンバーの交代は数回行われている。1988年 に発展的に解散した。その後、1995年 にベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ (Greatest Hits )』の新曲録音のための一時的な再結成を経て、1999年 に正式に再結成した。
2011年 6月18日に、バンドの中心メンバーだったサックスのクラレンス・クレモンズ が死去[22] 。バンド存続が危ぶまれたが、クラレンスの甥 であるジェイク・クレモンズがサポート・メンバーとして加わり、活動を継続している[23] 。
現ラインナップ
※2020年11月時点
サポート
ブルース・スプリングスティーン(2012年)
パティ・スキャルファ(2008年)
ロイ・ビタン(2002年)
ニルス・ロフグレン(2012年)
スティーヴ・ヴァン・ザント(2018年)
ギャリー・タレント(2012年)
マックス・ワインバーグ(2012年)
ジェイク・クレモンズ(2017年)
スージー・ティレル(2009年)
チャールズ・ギオルダーノ(2012年)
旧メンバー
ディスコグラフィ
スタジオ・アルバム
1973年 『アズベリー・パークからの挨拶 』 - Greetings From Asbury Park (全米60位、2xプラチナム 、全英41位、シルバー )
1973年 『青春の叫び 』- The Wild, The Innocent & The E Street Shuffle (全米59位、2xプラチナム・全英33位、シルバー)
1975年 『明日なき暴走 』 - Born to Run (全米3位、6xプラチナム・全英17位、プラチナム・加31位、2xプラチナム)
1978年 『闇に吠える街 』 - Darkness on the Edge of Town (全米5位、3xプラチナム・全英16位、ゴールド ・加7位、プラチナム)
1980年 『ザ・リバー 』 - The River (全米1位、5xプラチナム・全英2位、プラチナム・加1位、2xプラチナム)
1982年 『ネブラスカ 』 - Nebraska (全米3位、プラチナム・全英3位、シルバー・加3位、ゴールド)
1984年 『ボーン・イン・ザ・U.S.A. 』 - Born in the U.S.A. (全米1位、15xプラチナム・全英1位、3xプラチナム・加1位、10xプラチナム)
1987年 『トンネル・オブ・ラヴ 』 - Tunnel of Love (全米1位、3xプラチナム・全英1位、プラチナム・加1位、3xプラチナム)
1992年 『ヒューマン・タッチ 』 - Human Touch (全米2位、プラチナム・全英1位、ゴールド・加2位、2xプラチナム)
1992年 『ラッキー・タウン 』 - Lucky Town (全米3位、プラチナム・全英2位、ゴールド・加3位、2xプラチナム)
1995年 『ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード 』 - The Ghost of Tom Joad (全米11位、ゴールド・全英16位、ゴールド・加15位、ゴールド)
2002年 『ザ・ライジング 』 - The Rising (全米1位、2xプラチナム・全英1位、ゴールド・加1位)
2005年 『デビルズ・アンド・ダスト 』 - Devils & Dust (全米1位、ゴールド・全英1位、ゴールド・加2位、ゴールド)
2006年 『ウィ・シャル・オーヴァーカム: ザ・シーガー・セッションズ 』 - We Shall Overcome:The Seeger Sessions (全米3位、ゴールド・加3位、ゴールド)
2007年 『マジック 』 - Magic (全米1位、プラチナム・全英1位・加1位)
2009年 『ワーキング・オン・ア・ドリーム 』 - Working on a Dream (全米1位、ゴールド・全英1位・加1位、プラチナム)
2012年 『レッキング・ボール 』 - Wrecking Ball (全米1位・全英1位)
2014年 『ハイ・ホープス 』 - High Hopes (全米1位・全英1位)
2019年 『ウエスタン・スターズ 』 - Western Stars
2020年 『レター・トゥ・ユー』 - Letter to You
2022年 『オンリー・ザ・ストロング・サヴァイヴ』 - Only the Strong Survive
ライヴ・アルバム、コンピレーション・アルバム
1986年 『The "Live" 1975-1985 』 Live/1975-85 (全米1位・全英4位)
1993年 『MTV PLUGGED〜プラグド 』 In Concert/MTV Plugged (全米189位・全英4位)
2001年 『ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ 』 Live In New York City (全米5位・全英12位)
2006年 『ライヴ・アット・ハマースミス・オデオン,1975 』 Hammersmith Odeon, London '75
2007年 『ライヴ・イン・ダブリン 』 Bruce Springsteen with The Sessions Band: Live in Dublin (全米23位・全英21位)
2018年 『スプリングスティーン・オン・ブロードウェイ』 - Springsteen on Broadway
2021年 『ノー・ニュークス・コンサート1979』 - The Legendary 1979 No Nukes Concerts
コンピレーション・アルバム
楽曲提供
著書
映画
『インディアン・ランナー 』
1991年のショーン・ペン 監督作品。アルバム『ネブラスカ』収録の「ハイウェイ・パトロールマン」を基にしている。
『レスラー 』
2008年のダーレン・アロノフスキー 監督作品。本作の主題歌である「The Wrestler 」は、スプリングスティーンが主演のミッキー・ローク から送られた手紙と映画スクリプトを読んで書き下ろした新曲。 第66回ゴールデングローブ賞 ・オリジナル歌曲賞 受賞。
『Deliver Me From Nowhere 』
TBAのスコット・クーパー 監督作品。アルバム『ネブラスカ』制作舞台裏を描く作品。ジェレミー・アレン・ホワイト がブルース役を演じる。
受賞歴
日本公演
1985年 Born in the U.S.A Tour
4月10日, 11日, 13日, 15日, 16日 国立代々木競技場 第一体育館、19日 京都府立体育館、22日, 23日 大阪城ホール
1988年 A Concert Human Right Now
9月27日 東京ドーム
1997年 The Ghost of Tom Joad Tour
1月27日, 29日〜31日 東京国際フォーラム ホールA
関連項目
脚注
^ a b c d Ruhlmann, William. Bruce Springsteen Biography, Songs & Albums - オールミュージック . 2021年12月22日 閲覧。
^ https://www.riaa.com/goldandplatinum.php?content_selector=top-selling-artists
^ Rolling Stone. “100 Greatest Singers: Bruce Springsteen ”. 2013年5月26日 閲覧。
^ “Rocklist.net...Q Magazine Lists.. ”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). 2013年5月21日 閲覧。
^ "米ロック歌手ブルース・スプリングスティーンの娘、馬術で銀メダル" . デジタル毎日 . 毎日新聞社. 8 August 2021. 2021年8月8日閲覧 。
^ “Patti Smith on 'Because The Night' at 40: How Her Bruce Springsteen Collaboration Is 'A Whole Life in A Song' ”. Billboard . 2021年12月6日 閲覧。
^ アラン・ラッセル, ed (1986). ギネスブック'87 世界記録事典 . 大出健. 講談社 . p. 344. ISBN 4-06-202948-0
^ How Ronald Reagan Changed Bruce Springsteen's Politics - ウェイバックマシン (2015年12月20日アーカイブ分)
^ “自伝でうつ病を告白したスプリングスティーンの真意 ”. NEWSWEEK JAPAN (2016年10月3日). 2018年6月12日 閲覧。
^ “ロックの殿堂入り1999 ”. TAP the POP (2016年9月28日). 2018年6月12日 閲覧。
^ “ブルース・スプリングスティーン、イラクとの戦争回避を望む ”. BARKSニュース (2003年3月6日). 2012年3月29日 閲覧。
^ “B・スプリングスティーン『明日なき暴走』のBOXセット発売 ”. CDジャーナル (2005年9月28日). 2012年3月29日 閲覧。
^ “ミッキー・ローク、ブルース・スプリングスティーンとの泣けるドラマを語る ”. シネマトゥデイ (2009年6月16日). 2012年3月29日 閲覧。
^ “ブルース・スプリングスティーン、ハーフタイムショーで熱唱 ”. NFL JAPAN (2009年2月2日). 2012年3月29日 閲覧。
^ “ブルース・スプリングスティーン、『レッキング・ボール』世界14カ国で初登場No.1 ”. BARKSニュース (2012年3月16日). 2012年3月29日 閲覧。
^ “B・スプリングスティーン、うつ病の過去を告白 ”. AFPBB News (2012年7月26日). 2012年7月26日 閲覧。
^ “ブルース・スプリングスティーン、日本で約20年ぶり洋楽1位&世界20カ国で1位の快挙 ”. Musicman-NET (2014年2月5日). 2014年2月5日 閲覧。
^ “米大統領自由勲章にデニーロさん” . 共同通信 47NEWS . (2016年11月17日). http://this.kiji.is/171754995940409350?c=39546741839462401 2016年11月17日 閲覧。
^ “ブルース・スプリングスティーン、トニー賞受賞。B・ジョエル&R・デ・ニーロがプレゼンターに ”. BARKS (2018年6月11日). 2018年6月12日 閲覧。
^ Hiatt, Brian (2020年9月10日). “Bruce Springsteen Announces 'Letter to You,' New Rock Album With E Street Band ” (英語). Rolling Stone . 2020年10月31日 閲覧。
^ “全楽曲を売却、500億円超か 米歌手スプリングスティーンさん ”. 中日新聞 (2021年12月16日). 2021年12月16日 閲覧。
^ “米サックス奏者C・クレモンズ死去、Eストリート・バンドで活躍 ”. ロイター (2011年6月20日). 2012年3月29日 閲覧。
^ “Eストリート・バンドのサックスにクラレンス・クレモンズの甥っ子ジェイクが参加 ”. ro69.jp (2012年2月10日). 2012年3月29日 閲覧。
^ Greg Russo, Mannerisms – The five phases of Manfred Mann (Revised Edition), Crossfire Publications, 2011, ISBN 978-0-9791845-2-9 , p.121
外部リンク
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