サー ・マイケル・フィリップ・ジャガー (Sir Michael Philip Jagger、1943年 7月26日 - )は、イギリス のロック・ミュージシャン 、俳優 、作曲家である。「ミック (Mick)」の愛称で親しまれ、イギリスのロックバンド 、ローリング・ストーンズ のボーカルとして知られる。ストーンズのギタリストであるキース・リチャーズ と「ジャガー/リチャーズ 」の名義で数々のヒット曲を生み出した。1974年 からキースと「グリマー・ツインズ 」[ 1] というプロデュース・ユニットを組みセルフ・プロデュースを行っている。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー 」で第16位である。
人物
体育教師ジョー・ジャガー(1913 - 2006)とエヴァ・ジャガー(1913 - 2000)の息子として、ケント州 ダートフォード で生まれる。母のエヴァは、イギリス保守党の活動的な党員だった[ 2] 。家庭は上層中流[ 注釈 1] で、育ちが良く美しい英語を用いるジャガーはストーンズのブライアン・ジョーンズと同じ中流階級の出身である。美術学校やロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学んだジャガーは後にローリング・ストーンズ のギタリスト となるキース・リチャーズ とは幼少期より顔見知りだったが、互いに顔と名前を知る程度で友人ではなかった。10代でロックンロール に傾倒し、「リトル・ボーイ・ブルー・アンド・ザ・ブルー・ボーイズ」というバンドで活動した。18歳の頃にダートフォード駅 でキース・リチャーズ と再会する。リチャーズによれば、この時ジャガーはマディ・ウォーターズ とチャック・ベリー のレコードを持っていた。憧れたマディ・ウォーターズと81年に共演している[ 3] 。再会によりお互いがロックンロール とR&B に興味があることを知った2人は、共に活動を始めのちにローリング・ストーンズ を結成した。2人はその後ロンドンに移住し、1962年 4月に出会ったブライアン・ジョーンズ のスライド・ギター 奏法に衝撃を受けた。彼らはバンドを結成して6月頃に初めてローリング・ストーンズ と名乗り、1963年 6月7日に発売されたデビュー・シングル「カム・オン」でプロ・デビューを果たした。1968年からいくつかの映画に俳優として出演し、監督として映画を製作している。
ストーンズとしてデビュー以来、数十年間ロックの第一線で活動を続けた。元来、ブルースなどの黒人音楽から強い影響を受け、60年代から現在まで一貫して最新の機材や技術に加えて流行の音楽などにも敏感に反応し、ストーンズとソロ・ワークの両方で活用した。ブルース、ソウル、R&B、ファンク、レゲエ、ディスコなど、黒人音楽の流行に目配りしてストーンズのサウンドに取り入れた。ストーンズの曲は専らキース・リチャーズの作曲と見られているが、ミックが作曲した曲も存在する。ベースを強調した「悪魔を憐れむ歌 」(1968)やディスコ・ビートを導入したがブルース・ロックの影響も強い「ミス・ユー 」(1978)などはジャガー/リチャーズ 名義で登録されているが、これはジャガーの発案とされる[ 4] 。
奨学金を受けてロンドン・スクール・オブ・エコノミクス に通っていたジャガーは、ストーンズとしてデビューした後もしばらくは、プロ・ミュージシャンになるか国税局に就職するか随分迷った。2010年 現在、アメリカ合衆国 の反捕鯨団体シーシェパード の後援者として名を連ねる[ 5] 。実弟の
クリス・ジャガー はローリング・ストーンズのアルバム「スティール・ホイールズ 」の録音に参加し、ソロアルバムを2枚発売している。
来歴、デビューから1979年まで
ローリング・ストーンズ時代(1969年)
ストーンズのメイン作曲家であるリチャーズとともに、「ジャガー/リチャーズ 」として数多くの楽曲を生み出している。ジャガーらはブルースやR&Bのカバーを中心に録音していたが、ビートルズ の大きな成功を目の当たりにして、成功するには自作曲の必要性をレコード会社から迫られていた。このため、当時のマネージャーであったアンドリュー・オールダム によって、リチャーズとともに台所に閉じ込められた逸話もある。この時期にいくつか制作されたオリジナル楽曲に、「テル・ミー 」[ 6] や当時ジャガーの恋人であったマリアンヌ・フェイスフル へ提供してヒットし、自分たちで再度録音してヒットとした「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」などが含まれていた。その後、「サティスファクション 」(1965) や「一人ぼっちの世界 」、「黒くぬれ! 」(1966) などの世界的なヒット曲を生み出していき、ジャガー/リチャーズ はレノン=マッカートニー に並ぶ新しいソングライティング・チームとして成長していった。その後も「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」「ホンキー・トンク・ウィメン」「ブラウン・シュガー」「ダイスをころがせ」「ハッピー」「悲しみのアンジー」「イッツ・オンリー・ロックンロール」「フール・トゥ・クライ」「ミス・ユー」などの優れた楽曲を発表した。78年にピーター・トッシュと共演した「ドント・ルック・バック」[ 注釈 2] が発表した。78年までは好調を維持したストーンズだったが、80年に発表した「エモーショナル・レスキュー」は彼らの行き詰まりを感じさせ、不評を買うようになる。
俳優活動にも取り組み1968年 5月映画出演が発表された。この映画『青春の罠』(Performance )は同年7月にクランク・インし、1970年 に公開された。この作品は裁判のためにバンド活動ができなくなったジャガーがその機会に、かねてより興味のあった映画業界にも挑戦したいという意向の表れだった。以降ジャガーは映画業界で俳優、監督業にも手を伸ばすようになった。こうした経緯から同作のサウンドトラックに提供された楽曲「メモ・フロム・ターナー」は、ジャガー初のソロ・シングルとしても発売された。続けて1969年 の5月には映画『太陽の果てに青春を』(Ned Kelly )への出演を発表。7月にオーストラリア のメルボルン で撮影を行った。同作で彼は西部の殺し屋役を演じたが、映画の出来に関しては酷評している。また、撮影のため同月のジョーンズの死去に際して葬儀に参列できなかった。彼はこのほかにも数々の映画に出演しているが、1997年 の 『ベント/堕ちた饗宴』(Bent )では女装 の歌手を演じた。
1980年以降の活動
ローリング・ストーンズは、1981年にアルバム「刺青の男 」を発表した。アルバム70年代末の不調を払拭するかのような傑作に仕上がり、「スタート・ミー・アップ」ほかのヒット曲を生んだ。ジャガーは1983年頃までストーンズを中心に活動したが、1984年から本格的なソロ活動を開始し、第一弾としてマイケル・ジャクソン とともにリード・ボーカルを担当したジャクソンズ の楽曲「ステイト・オブ・ショック 」を発売した。
1985年、ビル・ラズウェル とナイル・ロジャース のプロデュースにより制作された初のソロ・アルバム『シーズ・ザ・ボス 』を発表した。このアルバムからは「ジャスト・アナザー・ナイト」がシングル・カットされた。同年、デヴィッド・ボウイ とのデュエットによるチャリティ・シングル「ダンシング・イン・ザ・ストリート 」(1985) も発表。翌年にはローリング・ストーンズ名義で、ボブ&アールをカバーした曲「ハーレム・シャッフル」を発表し、好評を博した。こうした一連の活動状況にリチャーズは強く反発し、ストーンズとして主だった活動は1986年の『ダーティ・ワーク 』を除いて1989年まで行われなくなった。ジョーンズは2枚目のソロ・アルバム『プリミティヴ・クール 』を1987年に発売し、大々的なツアーを実施した。ジャガーはこのツアーで初めて来日している。このときバンドに参加したリサ・フィッシャー やバーナード・ファウラー の2人は、以降ストーンズの活動にも関わる。
1989年に、ジャガーは数年間停滞していたストーンズの活動を再開した。アルバムとその中からのシングルカット、大規模な世界ツアーを行い、これまで実現していなかったストーンズの初日本公演も実現させた。ジャガーは、このツアーからストーンズの活動を中心にソロ活動を展開し、1993年に『ワンダーリング・スピリット 』を発売した。95年には「ライク・ア・ローリング・ストーン」を発表[ 注釈 3] 。2001年にレニー・クラヴィッツ をプロデューサー に迎えて制作された『ゴッデス・イン・ザ・ドアウェイ 』といったアルバムを発売した。またジョージ・W・ブッシュ が大統領だった時代に「スウィート・ネオコン」を発表してネオコンを皮肉った。
イタリアのサン・シーロ にて(2003年)
ジャガーは2002年 の誕生日の叙勲 (英語版 ) で「ポピュラー音楽 に対する貢献」によってナイト に叙勲され[ 7] 、2003年 12月12日に叙任式が行われた。この数年前より当時のトニー・ブレア 首相 からナイト 授与の要請があったことが明かされている。ジャガーはストーンズやソロ活動を理由にこれを断っていたが、このとき(2003年当時)首相より「ローリング・ストーンズ が40年という前人未到の活動を続ける今、あなた以上にこれ(ナイトの称号)を得るに相応しい人物はいない」といわれたという。しかし、ジャガーの受章に対しキース・リチャーズ は「俺は勲章の授与なんて馬鹿げたことだと思ったよ。そんなことはストーンズらしくないぜ。だろ?俺はくそ忌々しい冠を付けてきざなアーミンの白い毛皮を羽織った誰かさんとステージに上がるなんてゴメンだね。俺はミックに言ってやったよ。『そいつは糞食らえの無価値な名誉だ』ってね」[1] と批判し、ジャガーは「キースはアイスクリームが欲しくて泣き叫ぶ子供。彼も本当は欲しいんだ」と反論している。2005年にストーンズのアルバム『ア・ビガー・バン 』の録音やそれに続くツアーの準備を行う傍ら、ジャガーはその後も関係が続く元ユーリズミックス のデイヴ・スチュワートとともに映画「アルフィー」の音楽を手がける。
2007年 には「ア・ビガー・バン・ツアー 」の終了に前後して、自身初となるソロ・ベスト・アルバム『ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー 』を発表する。本作にはそれまでソロ・アルバムには未収録だった他のアーティストとのデュエット したものなどが収められている。
2011年 にはキャリア50年目にして初の別バンド「スーパーヘヴィ 」を結成。ジャガーの他に、先の映画「アルフィー」の制作の際に関わったデイヴ・ステュアート と、ジョス・ストーン 、ダミアン・マーリー (ボブ・マーリー の息子)、A・R・ラフマーン という5人組。9月21日 にアルバム『スーパーヘヴィ』を発売。さらにこの年、マルーン5 がジャガーを題材にした楽曲「ムーブス・ライク・ジャガー (Moves like Jagger)」を発売し、ビルボード1位を獲得している。これに制作されたPVでは、60年代から00年代までジャガーが公演で着ていた衣装を再現したものを、数多くのモデルや俳優が纏い、ジャガーの真似をするというユニークなものとなっている。シアkし制作された当初のPVを閲覧した際、ジャガーが「自分の映像がフィーチャーされすぎているので、もっと減らしたほうが良い」とマルーン5 側に助言した。またジャガーは映像で「ワイルド・ホーセズ」を、女性歌手フローレンス・ウェルチとデュエットした。
2014年 、ストーンズの世界ツアーに参加。しかし3月、日本公演後行われるはずだったオーストラリア に到着後、自身の恋人で良きビジネス・パートナーでもあったローレン・スコット が自殺したという報告を聞き、茫然自失となった。メンバーは各自が「今はミックを支える時だ」と声明を出し、これに伴って予定されていたオーストラリア 、ニュージーランド 公演は延期されることが発表された。2001年頃にスコットと出会ったジャガーはその後交際するようになったといい、その後はメンバーの衣装も考案させるようになっていた。スコットは約9百万ドルと言われる全資産をジャガーに遺した。
スコットの死後、ジャガーはアメリカン・バレエ・シアター のバレリーナであるメラニー・ハムリックと恋人関係になり、2016年 には73歳にしてメラニーとの間に8人目の子供を授かった。
2019年に、心臓弁 の手術を受けるため、北米ツアーの延期を発表した[ 8] 。2019年3月にジャガーは重度の大動脈弁狭窄症 を指摘され、ニューヨークで経皮的大動脈弁置換術(Transcatheter Aortic Valve Implantation/Replacement:TAVR/TAVI)を受け順調に回復した[ 9] 。大動脈弁狭窄症は開胸手術が選択されることが多かったが適応拡大に伴い、開胸手術低リスク患者であるジャガーにも経皮的大動脈弁置換術が施行された。
日本公演
1972年 に、ストーンズ初の日本 公演が翌年1月に日本武道館 で行われることが発表され、入場券販売も行われたが、ジャガーが1969年の大麻 不法所持による有罪判決が原因で入国拒否され、中止となった。日本のファンはストーンズの来日公演を17年後の1990年 まで、日本武道館 での公演は30年後の2003年 まで待たなければならなかった。
ジャガー自身はストーンズとして来日する前に、ソロ・アルバム『プリミティヴ・クール 』(Primitive Cool )の楽曲と共に1988年 3月に単独で来日し、東京 、大阪 、名古屋 で公演を開いた。そのうちの東京公演は竣工直後の東京ドーム のこけら落とし公演であり、ジャガーは東京ドームで初めて公演を開催したミュージシャンとなった。『プリミティヴ・クール』にも参加したジェフ・ベック が帯同するという噂も流れたが、ベックがこの話を断ったため、ジョー・サトリアーニ がリード・ギターを担当。日本人パーカショニストのツトム・ヤマシタ が全公演、また東京公演の2日目ではティナ・ターナー がゲスト出演した。
Live "Mick Jagger in Japan."」(※全公演SS席6500円、S席5000円)
3月15日・16日・18日・28日 大阪城ホール (28日は、19日に予定だった公演の本人の急病(風邪)による延期公演)
3月22日・23日 東京ドーム
3月25日・26日 名古屋市国際展示場 (追加公演)
メンバー
ミック・ジャガー - ボーカル 、ハーモニカ 、ギター
ジョー・サトリアーニ- ギター
ジミー・リップ - ギター
ダグ・ウィンビッシュ - ベース
サイモン・フィリップス - ドラムス
フィル・アシュリー - キーボード
リチャード・コットル - キーボード、サックス
リサ・フィッシャー - バッキング・ボーカル ほか、
ツトム・ヤマシタ - ゲスト・パーカッション
ティナ・ターナー - ゲスト・ボーカル(東京公演2日目のみ)
資産
2007年 4月、米経済誌フォーブス誌 が「過去25年間でもっとも高くついたセレブリティの離婚」のランキングを発表し、ミック・ジャガーとジェリー・ホールの離婚にともなう財産分与 金が1500 - 2500万ドルで10位にランクインした[ 10] 。2009年 4月、英サンデー・タイムズ紙が「英音楽界での長者番付」を発表し、推定資産が1億9000万ポンドだったことがわかった。ミック・ジャガーは経済危機の影響で16%の資産を失った[ 11] 。
2009年 11月、カートゥーン・ネットワーク が「未来のイギリスのトップセレブ」のランキングを発表し、ミック・ジャガーの娘のリジー・ジャガーの20年後の推定総資産額が3億1000万ポンド(日本円で約462億円)で5位にランクインした。このランキングはセレブの子どもたちの20年後の総資産額を推定して作られたものでスター性、推定相続額、才能、カメラ好き度、ショービジネス性などのいくつかのカテゴリーの総合で順位が決まる[ 12] 。
2011年 5月、英サンデー・タイムズ紙が「英音楽界での長者番付」を発表し、推定資産が1億9000万ポンドで8位にランクインした[ 13] 。経済に詳しいミックは、ストーンズ自身の独自レーベル「ローリング・ストーンズ・レーベル 」を立ち上げた以降、バンドの運営に大きく関与している。バンドのギャランティはもちろんのこと、印税配分の管理も自身でおこなっている。
私生活
健康オタク としても知られるジャガーは長年入念な体力トレーニングを行ってきたが、1960年代の頃までは喫煙者であった。健康を害することを知りながら喫煙して来たが、パフォーマンスに影響することに気付いて以来自発的に禁煙家に転向して薬物も一切断つなど、現在まで数十年間健康を志向している。それらはソロ・アルバム『ゴッデス・イン・ザ・ドアウェイ 』の宣伝の一環で自宅の映像が流れた際、いくつかの健康器具などが見られた。初来日の際は、ランニングを行っている姿がテレビで取り上げられるなど、いくつかのメディアや映像などから健康志向が窺える。ジャガーの健康志向は、父ジョー・ジャガーが体育教師を務めていた影響だともいわれる。
ニューヨークでの公演にて(1972年7月)
5人の女性と計8人の子どもをもうけて[ 14] 孫が5人いる[ 15] 。2014年5月19日に第1子ジェイドの娘のアッシシに娘が生まれ、曾祖父 となった[ 16] 。
1971年 5月12日、ジャガーはニカラグア 人のビアンカ・ペレス・モラ・マシアス と結婚した。マシアスは10月21日に娘のジェイドを出産した(第1子)。1973年 に歌手のマーシャ・ハント は、彼女が1970年に出産した娘の父親がジャガーであることを、ロンドン の裁判所に申し立てた。子供はジャガーの娘であると1979年 に判明したため、養育費として毎週1,500ドルの支払いをロサンゼルス地裁がジャガーに命じた。その後マシアスと1979年11月に離婚 すると、ジャガーは1977年 頃からアメリカ人モデルのジェリー・ホールと交際を始め、1984年 3月2日に娘のエリザベス・スカーレット・ジャガー 、1985年 8月28日に息子のジェームス・リロイ・オーガスティン、1992年 1月12日に娘のジョージア・メイ・ジャガー 、1997年 12月9日にガブリエル・ルーク・ジャガーの計4子を授かった。またブラジル人女性との間にも、子供を授かった。
その他
ハリー・スタイルズ
ジャガーとハリー・スタイルズ が似ているとしばしば話題になるが、ジャガー本人は「顔など表面的な部分が似ているだけで、彼は俺のような声を持ってないし、ステージパフォーマンスの動きなども異なる」と考えている[ 17] 、だがハリーのことは「好きで、仲も良い」とインタビューで語っている[ 18] 。
ジャガーはサッカー のファンだが、FIFAワールドカップ において、ジャガーが応援したチームは負けるというオカルト 的なジンクスもある(当然ながら科学的根拠はない)。ジャガーがブラジル人の息子と観戦に訪れた2014年FIFAワールドカップ準決勝 のブラジル -ドイツ 戦ではブラジルが1-7で大敗し、メディアにジンクスを報道された[ 19] 。ジャガーは、ザ・サン の取材に「ドイツの1点目は僕のせいでもいい、あとは知らないよ」と答えた[ 20] 。2018年FIFAワールドカップ準決勝 のイングランド 対クロアチア 戦でも、ミックは母国イングランドを応援するためにモスクワ を訪れたが、イングランドは敗れ、イギリスのメディアに報道された
[ 21] 。なおこのジンクスは本人公認であると考えられ、ワッツと出演したモンティ・パイソン のスケッチ映像はジャガーが贔屓にしているサッカーチームが負けて悔しがるような描写から始まる[ 22] 。
ジャガーはまたクリケット の熱烈なファンとしても知られ、クリケットの聖地と呼ばれるロンドンにあるローズ・クリケット・グラウンド に頻繁に足を運び、イングランド代表 のテストマッチなどを熱心に観戦している[ 23] 。関係者は「ミックは大のクリケットファンで、ずっとジ・オーバル でのボックス席を欲しがっていた。彼の家族は何年も彼にボックス席を与えようとしたが、需要が膨大で待機リストが沢山ある。」と語った[ 23] 。関係者はさらに、「ジ・オーバルでボックス席を持つことは信じられないほど高価で、非常に切望されているので、家族が彼のために一生懸命働いてくれたことを彼はとても幸運に感じています」と付け加えた[ 23] 。ジャガーが初めてジ・オーバルで試合を観戦したのは8歳の時だった[ 24] 。
ディスコグラフィ
ソロ・アルバム
シングル
映画
1970年 パフォーマンス - Performance
1970年 太陽の果てに青春を - Ned Kelly
1972年 Umano non umano
1978年 オール・ユー・ニード・イズ・キャッシュ - ALL YOU NEED IS CASH (ラトルズ のテレビ映画 - ミック・ジャガー役で出演)
1978年 Wings of Ash: Pilot for a Dramatization of the Life of Antonin Artaud
1992年 フリージャック - Freejack
1997年 ベント/堕ちた饗宴 - Bent
2001年 エニグマ - Enigma (製作)
2001年 The Man from Elysian Fields
2003年 Mayor of the Sunset Strip
2007年 アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生 - Annie Leibovitz: Life Through a Lens
テレビドラマ
テレビアニメ
関連項目
脚注
注釈
^ 中流の上
^ テンプテーションズのヒット曲である
^ ボブ・ディラン、65年のフォークロック曲のカバー
出典
外部リンク
旧メンバー 代表曲 アルバム
UK スタジオ・アルバム (1964–1967) US スタジオ・アルバム (1964–1967) スタジオ・アルバム (1967–現在) UK コンパクト盤 ライブ・アルバム コンピレーション アブコ 編集盤デッカ 編集盤その他のアルバム
映像作品 ライブ・ツアー マネージャー プロデューサー 外部ミュージシャン 関連人物 関連項目
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