防府駅(ほうふえき)は、山口県防府市戎町一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陽本線の駅である。
1900年(明治33年)に大和田建樹が作詞した鉄道唱歌第2集(山陽・九州篇)25番の歌詞は、三田尻駅を題材にしている。
出船入船たえまなき 商業繁華の三田尻は 山陽線路のをはり(終わり)にて 馬關に延ばす汽車のみち
当時は馬関駅(現在の下関駅)開業前[10] で、三田尻駅が山陽鉄道の終点駅だった。この後鉄道唱歌では、徳山駅まで一旦戻って海路で門司へ行き、そこから九州鉄道線に入っていった。
島式ホーム1面2線を有する高架駅である。分岐器や絶対信号機を有さないため、停留所に分類される。駅構内にはみどりの券売機プラスが設置されている。2009年3月には改札口からホームへのエレベーターが設置された。南北2ヶ所ある駅出口にはそれぞれ愛称があり、北口は防府天満宮にちなんで「てんじんぐち」、南口は三田尻中関港にちなんで「みなとぐち」と名付けられている。
高架化以前は貨物設備も備えた2面4線(中線はホームなし)の地上駅であり、国鉄時代は防府保線区(後の徳山施設管理室)等の鉄道関連機関も設置され、当駅を始発・終着とする列車も運行されていた。開設時の当駅は当時の三田尻地区市街地の南端に位置し、駅出口も市街地側である北側にのみ設けられたが、1982年(昭和57年)に市南部の塩田跡地へ東洋工業(後のマツダ)防府工場が進出すると駅南側の市街化が急速に進展し、鉄道による市街地分断や貨車入換に伴う開かずの踏切問題など、南北市街地の一体的発展に支障が生じていた[3]。
これらの問題を解消するため、1975年(昭和50年)に防府駅付近の高架化(連続立体交差)事業調査に着手[3]。1981年(昭和56年)に防府駅付近連続立体交差事業として都市計画決定され、南北に通り抜け出来るコンコースを備えた高架駅として再整備された[3]。当初の都市計画決定では旅客駅設備として2面3線(島式の1番・2番線、単式の3番線)のホームを計画していたが、計画決定後の2度にわたるダイヤ改正(1982年11月改正、1984年2月改正)により1日の列車本数が29本減少し、待避設備が不要になったことから島式1面2線へと規模が縮小された[3]。この変更により駅中心部の高架幅が狭くったため、高架北側(てんじんぐち側)1階に8.75メートルの張り出し部を設けて駅舎としている[3]。
また、高架化に合わせて貨物取扱業務は駅東側へ新たに建設された防府貨物駅(後の防府貨物オフレールステーション)に移管し、廃止された。貨物営業を行っていた頃には駅南側に貨物ホームが設置され、カネボウ防府工場(閉鎖後にイオンタウン防府が進出)、専売公社(日本たばこ産業)防府工場、協和醗酵工業(後の協和発酵キリン)防府工場へと続く専用線が当駅の貨物取扱量の6割超を占めていた[3]。高架化に際し、前述の1984年2月ダイヤ改正で専用線からの全方位輸送が難しくなったことや、高架での専用線再整備には17億円を要し事業採算性に問題があることから、貨物は新たに設ける貨物駅での駅頭扱いとし専用線は廃止された[3]。
防府駅高架化工事に伴い「木村寿軒」が一旦休業後、1階コンコースへ店舗を移設し再開した。現在は閉店し、菓子店(山陰堂)になっている。
1日平均乗車人員は以下の通り[12]。
元々の出入口のあったてんじんぐち周辺が古くからの市街地であるが、連続立体交差事業に併せたみなとぐち西側の区画整理が完了し、開発が進んでいる。
駅前から北に向かって山口県道54号防府停車場線が延びる。
てんじんぐちに4面、みなとぐちに3面の7面のバスターミナルを有する(乗り場番号は両ターミナルで通し番号となっている)。バス発券窓口は駅舎には無いが、防長交通案内所がてんじんぐち近くにある。
防長交通の防府市内線の拠点となっている他、中国JRバス(防長線)も乗りれる。
1番のりば - 4番のりば。
5番のりば - 7番のりば。全て防長交通が使用。