長坂 哲夫(ながさか てつお、1967年(昭和42年)1月20日 - )は、日本のフリーアナウンサー。フジテレビの元アナウンサー、元記者。
来歴・人物
東京都渋谷区出身。身長175cm。東京都立戸山高等学校、1990年3月、早稲田大学法学部卒業後、同年4月、アナウンサーとしてフジテレビに入社。
在学時代は企画サークルとも〜るに所属し、同期は、吉田伸男、大坪千夏、松井みどり。大学時代は法曹を志し、記念受験で受けたフジに合格したという。
早朝番組のキャスターを経て、主にスポーツ中継(野球、サッカー、K-1など)を担当した。
「サッカー日本代表の試合をフジテレビで中継すると負けない」(勝利か引き分け)という不敗神話が生まれ、1997年11月16日のFIFAワールドカップフランス大会出場をかけたプレーオフイラン戦(ジョホールバルの歓喜)の中継がフジテレビの担当となり、不敗神話の全試合を実況していたのが偶然にも長坂だったため、この試合の実況担当となった。岡野雅行が日本代表のワールドカップ初出場を決めるVゴールを決めた時の、「日本、勝った!」という声を裏返しながらの実況は、このシーンが流れたときによく耳にする。また、2002年ワールドカップ日韓大会で初勝利を挙げたロシア戦でも実況を務めた。
テレビ朝日がAFC主管試合の独占放送権を獲得したこともあり、フジテレビが日本代表戦を中継することが激減したため、彼が実況をする機会は少なくなっていたが、2008年1月26日のキリンチャレンジカップのチリ戦で約2年半ぶりに日本代表戦の実況を担当した。
1995年からF1グランプリの実況を担当し、2000年と2001年には日本グランプリの実況を務めた。2000年には全17戦中10戦と半分以上のレースの実況を担当するなど活躍していたが、2003年からのF1中継の放送体系に不満があって、2002年を最後に実況を離れた(フジテレビ739の「フジアナスタジオ まる生」より)。
2007年からCSのF1中継で実況復帰し、2008年に、2003年からF1中継のプロデューサーを務めていた渡邉信治(上記の不満の原因。番組をバラエティー方向に演出した)がスタッフから離れたこともあり、地上波のF1中継の実況にも復帰した。
2008年、北京オリンピックでは柔道と野球の実況を担当。
2009年7月、コンフェデレーションズカップ中継のため南アフリカに滞在中、日本人の女性スタッフにセクシャルハラスメント(強制わいせつ)行為をしたとして、編成制作局アナウンス室副部長職を解任され平社員へ降格すると共に総務局付への異動となる懲戒処分を受けた。関連の上司6人も減俸処分を受けた。酒の飲み過ぎによるトラブルで起こったことと言われているが、この件について豊田皓社長は「まことにお恥ずかしい限りで管理責任を感じている」と定例会見で謝罪した。
総務局への異動後は、総務サービスセンターで総務サービス部長を務めた[1]。2016年から報道局の記者職へ異動。社会部を経て、2018年から気象庁を担当している[2]。
フジテレビが2022年1月から50歳以上の早期退職者を募集、長坂もそれに応募し、これに伴い2022年3月31日をもって退職した[3]。
退職後、フリーアナウンサーに転身し、スポーツ実況に復帰。
出演番組
アナウンサー時代
報道・情報番組(スポーツジャンルを除く)
期間 |
番組名 |
役職 |
担当日 |
備考
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1991年4月8日 |
1992年3月25日
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おめざめ天気予報 |
キャスター |
月~水曜日 |
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1992年4月2日 |
1992年4月3日
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ニュース&ウェザー |
木・金曜日
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1992年9月25日
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FNN World Uplink |
スポーツキャスター
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1992年4月9日
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モーニングLIVE |
キャスター |
メインキャスター4人(他に境鶴丸、佐藤里佳、木幡)で結成した「Weather」というグループでインディーズデビューし、井上順の『昨日・今日・明日』をカヴァーした
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1992年10月5日 |
1993年3月31日
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月~水曜日
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FNN World Uplink |
スポーツキャスター |
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1994年10月3日 |
1995年9月29日
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FNNニュース2:00 |
シフト勤務キャスター |
(交替制) |
佐藤、木幡もシフト勤務として担当
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スポーツジャンル番組・中継実況・その他
フリー時代
脚注