筑波 (巡洋戦艦)

筑波
1913年から1916年の筑波[1]
1913年から1916年の筑波[1]
基本情報
建造所 呉海軍工廠[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 一等巡洋艦[3](装甲巡洋艦[4])
巡洋戦艦[5]
母港 横須賀[6]
艦歴
計画 明治37年臨時軍事費[7]
発注 1904年6月23日訓令[4]
起工 1905年1月14日[2][8][9]
進水 1905年12月26日[10][注釈 1]
竣工 1907年1月14日[2][9]
最期 1917年1月14日に爆発、沈没[11]
除籍 1917年9月1日[12]
要目
排水量 13,750英トン[13][2][9]
満載排水量 15,400t[要出典]
全長 475 ftin (144.78 m)[14]
水線長 450 ftin (137.16 m)[14]
垂線間長 440 ftin (134.11 m)[13][14][2]
最大幅 75 ft 0 in (22.86 m)[13][14]
または 74 ft 9+34 in (22.80 m)[2]
深さ 42 ft 2+38 in (12.86 m)[13]
または42 ft 2+14 in (12.86 m)[14]
吃水 平均:26 ft 0 in (7.92 m)[13][14]
または 26 ft 1 in (7.95 m)[2]
ボイラー 宮原式混焼 20基[15][16]
主機 直立4気筒3段レシプロ 2基[17]
推進 2軸[18]外回り[16] x150rpm[2]
出力 計画:20,500馬力[19][16][注釈 2]
強圧通風全力:23,122馬力[20]
公試:23,260馬力[16][13][21]
速力 計画:20.5ノット[19][注釈 3]
強圧通風全力:21.02ノット[20]
公試:21.1ノット[21]
燃料 石炭:1,600トン[13]、または2,000トン[2]
乗員 竣工時定員:817名[22]
879名[2]
兵装 12インチ速射砲[13](45口径12インチ砲[2]) 連装2基[2]4門[13]
6インチ砲 12門[13][2]
4.7インチ砲 12門[13][2]
12ポンド速射砲 2門[13]、または3インチ単装砲 6門[2]
マキシム砲 4挺[13]
18インチ(45cm)水中発射管 3門[13][2]
装甲 舷側:7in(177.8mm)-4in(101.6mm)[23]KC鋼[2][注釈 4]
甲板:3in(76.2mm)[23]
砲塔:7in(177.8mm)[23]
司令塔:8in(203.2mm)[23]
バーベット 180mm[要出典]
または、水平防御平坦部:1インチ1/2、傾斜部:2インチ、水線甲帯:7インチ、上甲帯:5インチ、砲台:5インチ、露砲塔:7インチ[13]
その他 信号符字:GQJP(竣工時)[24]
(無線)略符号:GTB(1908年10月28日-)[25]
(無線)略符号:JGP(1913年1月1日-)[26]
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一等巡洋艦 筑波のポストカード

筑波(つくば)は、大日本帝国海軍巡洋戦艦(建造時は装甲巡洋艦[27][5][28]筑波型巡洋戦艦1番艦である。 艦名は茨城県の「筑波山」にちなんで名づけられた[注釈 5][注釈 6]。 この名を持つ日本海軍の艦船としては「筑波艦[注釈 5]コルベット)に続いて2隻目[31][注釈 6]

概要

戦艦に準ずる砲力を持つ巡洋艦として、また日露戦争旅順攻囲戦における戦艦「初瀬」「八島」の喪失を補うため[32]、姉妹艦生駒とともに急遽計画・建造された[33][注釈 7]。 技術的には、巡洋戦艦の先駆ともいうべき装甲巡洋艦である[注釈 8]。 また旅順港閉塞作戦における事故(「吉野」と「春日」の衝突で「吉野」沈没)の戦訓から衝角を廃止した[36][注釈 7]。 1912年(大正元年)に類別としての巡洋戦艦が新設されるまでは[37]、一等巡洋艦(装甲巡洋艦)であった[3][5]。戦艦「薩摩」と本艦(筑波)の2隻は、日本が国内で初めて建造した装甲艦である[注釈 7][注釈 9]

1917年(大正6年)1月14日、「筑波」は停泊中の横須賀港[注釈 6]火薬庫爆発事故により沈没した[注釈 10][注釈 11]

浅い海底に着底したため浮揚可能であり、海軍は潜水母艦水上機母艦に改造することも検討したが[41]、諸事情を考慮して解体処分となった[42]。なお『ジェーン海軍年鑑』は、類別変更以前の装甲巡洋艦の分類を用いたが、ワシントン海軍軍縮条約において同型艦の「生駒」は、規制対象の戦艦として扱われた。

艦歴

建造

一等巡洋艦「筑波」は、日露戦争初期に喪失した戦艦「初瀬」「八島」の代艦として[注釈 6]、日露戦争臨時軍事費で、「安芸」「薩摩」「生駒」「鞍馬」他とともに建造された[43][44]。 「筑波」は国産最初の大艦として設計され[36]呉工廠で建造された[注釈 12]。 当時の日本が建造した最大艦は、松島型防護巡洋艦橋立」(基準排水量約4,200トン)で、「筑波」(基準排水量約13,500トン)は技術的にも大きな飛躍であった[注釈 13][47]。 筑波型の艦体・機関や防御力は装甲巡洋艦であるが、主砲は、当時の主力戦艦と同じ12インチ砲を搭載した[48]。日露戦争における装甲巡洋艦の運用経験から、攻撃力と速力を優先したための措置である[注釈 14]。搭載する12インチ砲は呉工廠で製造されたもので、国産の12インチ砲搭載は「筑波」が初めてのことであった[50]

1904年 (明治37年) 6月23日の製造訓令[4]により、呉海軍工廠は、筑波型2隻(「筑波」「生駒」)を同時に建造することになった[44][51]。翌1905年(明治38年)1月14日、「筑波」は「子号装甲巡洋艦」として[27]、呉海軍工廠で起工された[30]。同年6月11日、日本海軍は本艦をふくむ建造予定の主力艦艇6隻の艦名を、それぞれ内定した[注釈 15][注釈 16]

「筑波」の進水式は同年(明治38年)12月12日を予定し[53][54]明治天皇皇太子(嘉仁親王、のちの大正天皇)が臨席することになった[55][56]。日本は、同年5月27日から翌日にかけての日本海海戦ロシア帝国海軍に大勝し、日本有利での講和を取り決めたポーツマス条約が9月5日に締結され(発効は11月25日)、日露戦争は終結していた。

皇太子と、日本海海戦を大勝に導いた東郷平八郎海軍大将、山階宮菊麿王達は装甲巡洋艦「磐手」(供奉艦「笠置」)に乗艦し[56]、12月11日に呉へ到着した[57][58]。 だが進水台の異常により[59]、「筑波」の進水式は延期される[60][61]。12月26日、「筑波」は皇太子臨席および東郷平八郎大将立ち合いの下で、午前9時に進水した[10][注釈 17]。 同日付で、子号装甲巡洋艦は正式に「筑波」と命名される[27][63]。命名書は、海軍大臣代理の呉鎮守府司令長官有馬新一中将が読み上げた[64]。 同時に、「筑波」は一等巡洋艦に類別された[3][65]

1907年(明治40年)1月14日、「筑波」は竣工した。

竣工後

同年(1907年)2月28日、第二艦隊司令長官伊集院五郎中将指揮下の「筑波」「千歳」2隻は横浜を出発する[66][注釈 6]アメリカ殖民300年祭記念観艦式ハンプトン・ローズ)に参加し、その後ヨーロッパ各国を歴訪した[67][注釈 6]。 11月16日、帰国した[注釈 18]。 12月27日、明治天皇は「筑波」に乗艦、同時に「千歳」を親閲した[69][70]

1912年(大正元年)8月28日、日本海軍は艦艇類別等級表を改訂[37]。「筑波」「生駒」「鞍馬」「伊吹」の4隻は巡洋戦艦に類別された[71][5]

1914年(大正3年)3月20日、裕仁親王(後の昭和天皇)、秩父宮雍仁親王高松宮宣仁親王神戸港で戦艦「薩摩」(加藤友三郎第一艦隊司令長官)に乗艦した[72]。先導艦は戦艦「摂津」、供奉艦は戦艦「石見」であった[72]海軍兵学校のある江田島に向けて航行中の3月22日午前中、「筑波」と「金剛」「周防」の3隻は御召艦の仮想敵を務めた[73]。当時の「筑波」艦長は加藤寛治大佐だった[73]

大正天皇即位記念観艦式において登舷礼を受ける御召艦「筑波」

1915年(大正4年)12月4日、大正天皇即位記念の特別観艦式が横浜沖で行なわれ、「筑波」は大正天皇が座乗する御召艦を務めた[74][75][76][77][注釈 19]

裕仁親王(皇太子。のちの昭和天皇)秩父宮雍仁親王高松宮宣仁親王は装甲巡洋艦「常磐」に乗艦して、防護巡洋艦「矢矧」に先導される「筑波」を出迎えた[79]。供奉艦は「常磐」と「矢矧」「満州」の3隻が務めた[79][77]

参加艦艇の総数は124隻[80]または125隻で、「筑波」が観艦式の海域に入ると、皇禮砲をまず戦艦「扶桑」が一発、続いておよそ百隻の僚艦が一斉に発射した[81]

この観艦式には、日本海軍艦艇(「扶桑」「摂津」「河内」「安芸」「薩摩」「筑摩」「笠置」「利根」「比叡」「金剛」「榛名」「霧島」「対馬」「新高」「音羽」「最上」「橋立」「大和」「武蔵」「千早」「嵯峨」「宇治」と水雷戦隊潜水艇隊)等以外にも、アメリカ海軍支那艦隊司令長官ウィンターハルター英語版海軍大将座乗の巡洋艦「サラトガ」(ACR-2、4代目「サラトガ」)が参列した[76]

このあと大正天皇は「筑波」より賜餐艦の扶桑型戦艦「扶桑」に乗艦[82][83]。午後4時10分、天皇は横浜西波止場に上陸し、東京への帰路に就いた[84]

1916年(大正5年)5月21日、皇太子(裕仁親王)、雍仁親王、宣仁親王が横須賀軍港に行啓し、修理中の巡洋戦艦「金剛」や建造中の扶桑型戦艦「山城」を見学した(「筑波」も横須賀在泊)[85][86]。この時、軍港の見学移動に筑波艦載の水雷艇が使用された[85]。 10月25日、東京湾で行われた観艦式で、「筑波」は再び大正天皇の御召艦となる[87][88]

爆沈

1917年(大正6年)1月14日、横須賀軍港には本艦以下日本海軍の艦艇多数[注釈 10]筑波河内生駒榛名金剛津軽山城等)が所在だった[89][90]。 当時の横須賀鎮守府司令長官は東伏見宮依仁親王(海軍中将)である[91]

午後3時15分ごろ「筑波」の艦橋と第一煙突間で大爆発が発生、5分ほどで沈没した[92]。浅海底のため、艦橋等一部は水面から露出した状態である[93][94]。 日曜日のため、本艦では乗組員の半数程が上陸していた[注釈 20]。爆発時に艦内に残っていた乗組員は約340名と推定され、そのうち125名が死亡、27名が行方不明となった[92][39]。 なお児童文学作家佐藤さとるが、編集顧問(最高代表)をつとめる同人『鬼ヶ島通信』で連載した、海軍士官だった父の人物伝『佐藤完一の伝記 海の志願兵』の同誌50+5号掲載分で(連載終了後、書き下ろしを加えて偕成社から発売)父の日記が引用されており、「自分(父)と同期の二人の目前で筑波が突如爆発し、絶句した」と記されている。

1月16日に日本海軍は海軍砲術学校加藤寛治少将を委員長とする査問会を組織し、楠瀬熊治造兵総監や平賀譲造船中監も委員を務めた[96][97]。調査の結果、爆発が火薬の自然発火や艤装上の要因によるものである可能性は否定され、人為的に引き起こされたものであるとの結論が出された[98]。嫌疑者として最も有力とされたのは行方不明となっていた水雷科要具庫員の二等水兵であった[99]。この人物は爆発発生当日に窃盗を疑われて詰問されていたことから自暴自棄になった末の犯行であると推測されたが、真相は不明である[99]

合同葬儀は1月21日に行われた[100][101]。 船体後部は浮揚が可能であり[102]潜水艇母艦および飛行機使用艦水上機母艦)に改造する案も出されたが[41]、 費用や日数がかかり[103]、廃棄処分が決定した[42]。 兵器、機械類や重要物件などは8月中にほぼ引き揚げが終了し[104]、 9月1日、「筑波」は軍艦籍より除かれ[12]、艦艇類別等級表からも削除された[105][106]。 9月9日に残務処理終了[107]。 爆沈時の「筑波」艦長有馬純位大佐は、事故から約2年後に病死した[108]。横須賀の馬門山海軍墓地には、「筑波」と「河内」(1918年7月12日爆沈)の慰霊碑が並んで建立されている[108]

略歴

公試成績

実施日 種類 排水量 回転数 出力 速力 場所 備考 出典
1906年11月8日 第2回予行 11,700馬力 17.5ノット [113]
1906年11月14日 第3回予行 135rpm 16,740馬力 19.63ノット [114]
1906年11月24日 強圧通風
全力
148rpm 23,122馬力
(実馬力)
21.02ノット [20]
1906年11月29日 自然通風
全力6時間
139rpm 18,537馬力 20.08ノット [115]
同上 自然通風
全力1/5
80rpm 3,270馬力 12.173ノット [115]
同上 自然通風
全力2/5
106rpm 7,675馬力 15.819ノット [115]
同上 自然通風
全力3/5
116rpm 10,331馬力 17.283ノット [115]
同上 自然通風
全力4/5
126rpm 13,626馬力 18.73ノット [115]
新造公試 23,260馬力 21ノット
または21.1ノット[21]
[116]
1912年1月18日 強圧通風
9/10高力
右舷139.0rpm
左舷138.6rpm
18,996馬力 19.87ノット [117]
1913年3月20日 修理公試
4時間平均
145rpm 22,200馬力余 [118]

艦長

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 竹内平太郎 大佐:1906年8月10日 - 1907年12月27日
  • 広瀬勝比古 大佐:1908年9月15日 - 1910年12月1日
  • 築山清智 大佐:1910年12月1日 - 1911年4月12日
  • 山路一善 大佐:1911年4月12日 - 1911年12月1日
  • 橋本又吉郎 大佐:1911年12月1日 - 1912年7月9日
  • 竹下勇 大佐:1912年7月9日 - 9月12日
  • 鈴木貫太郎 大佐:1912年9月12日 - 1913年5月24日
  • 堀内三郎 大佐:1913年5月24日 - 12月1日
  • 加藤寛治 大佐:1913年12月1日 - 1914年5月6日
  • 竹内次郎 大佐:1914年5月6日 - 1915年4月1日
  • 片岡栄太郎 大佐:1915年4月1日 - 12月13日
  • (兼)関重孝 大佐:1915年12月13日 - 1916年1月10日
  • 吉岡範策 大佐:1916年1月10日 - 12月1日
  • 有馬純位 大佐:1916年12月1日 -

脚注

注釈

  1. ^ #艦船名考(1928)pp.30-31、#昭和造船史1pp.776-777、附表第2 艦艇要目表 1.主力艦要目表などでは、明治38年12月16日となっているが間違い。
  2. ^ #帝国海軍機関史(1975)別冊表9、列国製艦一覧表 其ノ二では、19,500I.H.P.となっている。
  3. ^ #日本近世造船史明治(1973)355-358頁では、21.5ノットになっている。また#帝国海軍機関史(1975)別冊表9、列国製艦一覧表 其ノ二では、21kとなっている。
  4. ^ #昭和造船史1pp.776-777、附表第2 艦艇要目表 1.主力艦要目表では8インチとなっている。
  5. ^ a b 筑波(つくば)【初代】[29]
    艦種軍艦 三檣「シップリッグ・コルベット」
    艦名考山名に採る、筑波山は筑波山、筑波ツクバネの別稱あり、常陸國筑波・眞壁・新治の三郡に跨る、標高2,892尺。嘉永4年英領「マラッカ」の内「ムヲルメン」に於て建造、原名「マラッカ」、明治4年7月英國人より購入、筑波艦と名づく、同10年西南役從軍、同27・8年戰役從軍(横須賀軍港警備)同31年3月三等海防艦に列す、同37・8年日露戰役從軍、同38年6月除籍、同40年1月賣却。 ―要目―(省略) 
  6. ^ a b c d e f g 筑波(つくば)【二代】[30]
    艦種一等軍巡洋艦 二檣(信號用)
    艦名考艦名の起源は初代「筑波」の項(p.3)参照。
    艦歴明治37年2月、日露開戰後僅かに數月ならずして我海軍は初瀬・八島兩艦沈没の不運に遭遇し、愈々之に代るべき大鑑の必要を痛感し筑波・生駒の建造を決し、呉海軍工廠に於て明治38年1月14日起工。同41年英國皇帝戴冠式に列する爲め同國に回航、次に欧米諸國を回航(筑波・千歳 第二艦隊司令長官伊集院五郎引率、艦長竹内平太郎)。大正元年8月巡洋戰艦に編入(昭和8年艦船類別標準改正により此の名稱廢され戰艦となる)、同3年乃至9年戰役從軍:同3年9月第一南遣支隊に属し南洋方面に行動、「マーシャル」・東「カロリン」群島の占領に任ず(艦長大佐竹内次郎)、同6年1月14日横須賀港に於て災禍の爲め爆沈。
    ―要目― 長440呎/幅75呎/喫水26呎/排水量13,750噸/機關 往復機關2基、宮原式罐/馬力20,500/速力20.5/乗組人員830/船材 鋼(甲帶7吋)/兵装 12吋砲4/6吋砲12/4.7吋砲12/3吋砲6/機關砲4/發射管5/起工 明治38-1-14/進水 同38-12-16/竣工 40-1-14/建造所 呉工廠 
  7. ^ a b c (1)帝國軍艦筑波の竣功[34] 日露戰争の教訓を血を以て購った我海軍は一九〇五年國産最初の主力艦として筑波の建造を開始した。同艦は排水量一二,〇〇〇噸の装甲巡洋艦であるが、その主砲に戰艦と同様四五口徑十二吋砲四門を装備し、而もこれに二〇浬の速力を與へた。此の如き性能を有する艦種はこれまで世界何れの海軍にも全く類例を見なかったもので、全く後進日本海軍が世界に投じた一石であったのでるが、これが後に發達した巡洋戰艦の先驅となったわけで、日本の投じた一石はやがて世界の海に大きな波紋を描くことゝなったのである。
    <smaller>筑波はかくの如く獨特の新性能を備へて生れた我海軍自慢の新艦であった他に、今まで數十年間恰も軍艦の表徴であるかのやうに看られてゐた衝角を敢然と廢止して、商船のやうなクリッパー型艦首に改めた世界の第一艦であり、これを契機として我新造軍艦の艦首は原則としてクリッパー型に決められたのであるが、これは日露戰争の最中に我巡洋艦吉野が暗夜誤って僚艦春日に衝撃されて沈没した凄惨な事實から、敵艦を衝撃すると稱する衝角が、敵を衝く前に先づ味方を衝く危険至極の厄介者であることが實證された結果に他ならないのである。
    然るに此有害無益の長物は歐米先進国の軍艦にはその後十年近くも依然として取付けられてゐたのであるが、二〇,〇〇〇mの射程を誇る大口徑の主砲と、前世紀の遺物たる衝角とが恬然として同一の軍艦に雑居してゐるなどは、時代錯誤も甚だしいもので、識者の嗤を招くに充分な滑稽であった。
  8. ^ 巡洋戰艦附装甲巡洋艦[35] 過去二十五年間の期間に於て我海軍にて建造されました巡洋戰艦と名のつく艦は四隻一一〇,〇〇〇噸馬力二五六,〇〇〇 装甲巡洋艦と云はれて居りますのが十二隻一二九,二四一噸馬力二二七,七五〇(此中に日進、春日を含んで居ります)であります。/一體巡洋戰艦と云ふ語は合の子の語でありまして英國海軍に於て「ドレッドノート」に次で「インフレッキシブル」級と申して艦種は弩級に属し同時に速力二十五節と云ふ快速の装甲巡洋艦を造りました頃から用いられた語でありまして戰艦の攻撃力と巡洋艦の速力とを併有する艦と云ふたのであります 其の意味から申しますると我海軍の筑波、生駒は蓋し巡洋戰艦の元祖であります 唯其時代には左様云ふ語が使はれなかったと云ふ丈であります 此巡洋戰艦と云ふものも元々装甲巡洋艦の一種でありますから茲には便宜上装甲巡洋艦と一緒に御話致します。(以下略)
  9. ^ 一、初めて内國にて装甲艦を起工す[38] ― 明治三十八年(一九〇五)戰艦「薩摩」を横須賀工廠にて、又巡洋艦「筑波」を呉工廠にて起工す、初めて十二吋砲及び装甲鈑を呉にて造り且つ宮原式混燃水管罐を装備す、(此年英國に「ドレットノート」起工)
  10. ^ a b 筑波艦沈没す(大正六年一月十五日東京朝日新聞)[39] 十四日午後三時十五分横須賀軍港第二區に停泊中なる軍艦筑波の火藥庫轟然たる大音響を立てて爆發し同時に非常なる震動を爲し、筑波の舷首に於て茶褐色の爆煙高く揚り、上甲板上の乗組員は震動の爲海中に振り落され爆煙は次第に高く揚りて、約百米に達したるが是と同時に艦は大破して午後三時十八分に至るや艦體の後半を現出し、約三十度の傾斜を爲して三時三十分全部沈没せり。大檣は挫折し、海上には後部約一丈餘上甲板を表はし居るのみ、當日は日曜日にて六百餘名の乗組員に半舷上陸を許したれば爆發の當時艦内に在りしは、約三百四十名にて爆沈の際海上に刎ね飛ばされた生存者も悉く海中に漂ひて惨状名状するに能はず、折柄港内には軍艦津輕を初め、河内生駒榛名金剛、其他各軍艦、驅逐艇碇泊し居たるが、急を見るより何れも直に艦載ランチ、カツターを出して救助に着手せるが其混在は宛ら戰場の如く、同時に上陸員全部の非常招集を行ひ、百方救護と手當に奔走し居れるが死傷者は今尚取調べ中なり。
  11. ^ a b 横須賀鎭守府司令長官に親補/筑波爆沈と御心痛/天皇横須賀に御微行[40] 海軍々令部出仕として三年三箇月に亙り、東京御在勤なりし親王は、大正五年十二月一日を以て、横須賀鎭守府司令長官に親補兼て海軍将官會議々員に補せられ、六日御箸任、十二日より管下各部の巡視を開始せられしが、御就任間もなきに深く親王の御心を痛めまゐらせたるは、大正六年一月十四日午後三時十五分横須賀軍港内に起りたる、軍艦筑波爆沈の惨事であつた。親王は此悲報に接せらるゝや、直に沈没せる筑波の現状を観察し、負傷者を海軍病院に慰問ありて夫々御菓子料を賜ひ、且殉難者百五十一名に對して祭祀料を下され、其葬儀には親しく靈前に弔詞を供へらるゝ等、部下愛撫の御仁心寔に感激すべき次第であつた。/ 二月の嚴寒を避けて、葉山御用邸に駐輦あらせられたる天皇には、御親任厚き親王の麾下各部を臠はすべく、同月十九日横須賀方面御散歩の體を以て、眞の御微行にて軍港に臨御あり、親王の御案内にて海軍工廠内各部及軍艦山城主砲の一薺操砲を御覽ぜられ、御晝餐後、追濱航空隊に於て飛行機の運動及長浦に於て驅逐隊の魚雷薺射等を天覽の後、葉山に還幸あらせられた。
  12. ^ 四十年には、軍艦筑波が呉海軍工廠で竣工した[45]。これは排水量一萬四千噸の装甲巡洋艦であつたが、十二吋砲を四門搭載してゐた。當時は世界何れの國の海軍を見ても巡洋艦に十二吋砲を搭載してゐるものは一隻もなかつたのである。次いで姉妹艦の生駒が生れ、更に改良型の鞍馬、伊吹が生れた。
  13. ^ 巡洋戰艦及装甲巡洋艦[46](中略)同戰役後明治四十年に筑波、生駒が建造せられました。排水量13,500噸で12吋砲4門速力20 1/2節で、何れも呉工廠で竣工致して居ります。その以前内地で建造しました一番大きい艦は橋立で、明治二十七年竣工、排水量4,210噸で、其後約十三年間は内地の建艦は僅かでありましたので、斯の如き大艦を遺憾なく建造せられた先輩諸君の苦心は如何許りであったかと敬服する次第であります。(以下略)
  14. ^ (前略)[49] 此等の艦が日露戰役中戰線に立って働きましたのでありますが戰線に立って見ますと、攻撃力の不足を感ずるのでありますが去り迚速力も餘り下げたくないと云ふ兩面の要求からして止むことを得ず防禦は弱くとも仕方がない巡洋艦の速力と戰艦の攻撃力を併有した艦型が望ましいと云ふので案出されまして筑波、生駒となったのであります 其要目は別表に御覧の通りであります 此が巡洋戰艦の始まりであります 併も此二艦は内地で建造された大艦の始まりであります 其時迄に内地で建造した一番大きい艦は橋立(明治二十七年竣工)でありまして其排水量は四,二一〇噸であります 夫が一足飛に排水量一三,七五〇噸と云ふ其當時に於ける大艦を建造することになったのでありますから非常な進歩であります(以下略)
  15. ^ 甲號戦艦=安芸、乙號戦艦=薩摩子号装甲巡洋艦筑波、丑號装甲巡洋艦=生駒、寅號装甲巡洋艦=鞍馬、第一号装甲巡洋艦=伊吹である[52]
  16. ^ ◎戰艦安藝薩摩装甲巡洋艦筑波生駒鞍馬伊吹命名ノ件[52] 明治三十八年六月十一日(内令三一六)新造軍艦六隻艦名左ノ通御治定相成候條命名式擧行マテ部内限リ通用スルコトヲ得ル儀ト心得ヘシ|呉海軍工廠ニ於テ製造 甲號戰艦 安藝
  17. ^ 明治三十八年十二月二十六日呉軍港に於て子號ねごう一等巡洋艦(筑波と命名せられたるものなり)の進水式擧行せられ、東宮殿下御臨場あらせらるゝことゝなるや、軍令部長たる東郷大将は扈從し奉る爲め、小笠原参謀を從へて、同月二十四日呉に箸し、同鎮守府司令長官海軍中将有馬新一以下の出迎を受けて旅館吉川に投宿せしが、二十五日殿下の御召艦磐手舞子より入港せるを以て、直ちに同艦に赴きて御機嫌を奉伺せり、尋いで翌二十六日進水式式場の台臨に扈從し奉り、了りて還啓の御召列車に陪乗を差許され二十七日新橋停車場御箸の上東宮御所まで御供申上げたり。是同大将が鶴駕に扈從し奉りたるの嚆矢にして、亦實に記念すべき一事なりとす[62]
  18. ^ 巡洋戰艦筑波[68] 一、進水年月日 明治三十八年十二月二十六日/一、排水量 一萬三千七百五十噸/一、馬力 一萬九千馬力/一、速力 二十節五/一、主砲 十二吋砲四門 六吋砲十二門/一、建造地及建造所 呉海軍工廠/一、日獨戰爭に参加したる際重要なる事項 南遣隊に編入山屋司令官の麾下に属し南洋方面に行動す/一、其他特に重要なる事項 大正四年十二月四日東京灣に於ける特別觀艦式御召艦任務に從事 明治四十年二月廿八日(遣外艦隊に編入欧米に派遣せらる)本邦發同年十一月十六日歸投航程三萬三千九百四十三浬/以上 
  19. ^ ○行幸[78] 天皇陛下ハ一昨四日午前七時四十五分御出門同八時東京停車場御發車同八時五十分舊横濱停車場御著車軍艦筑波ニ乗艦横濱沖ニ於テ特別観艦式ヲ行ハセラレ訖テ更ニ軍艦扶桑ニ乗御特別観艦式ニ關與ノ海軍将校其他ニ午餐ヲ賜ハリ午後四時三十五分舊横濱停車場御發車同五時二十五分東京停車場御着車同五時四十分還幸アラセラレタリ/○東宮行啓 皇太子殿下ハ一昨四日午前七時十分東宮御所御出門同七時四十分東京停車場御發車横濱港ヘ行啓観艦式御覽午後一時五十五分横濱新港税關桟橋御發車同三時二十五分還御アラセラレタリ
  20. ^ 又この間に我海軍は二大艦を失つて居た[95] 大正六年一月十四日横須賀軍港二區に繋留の巡洋戰艦筑波は、午後三時十四分前部の火藥庫突如として爆發し、艦體は前部より見る見る沈没し、遂に檣、艦橋、煙突等を水上に現はして海底に膠着した。當日は恰も日曜日のことゝて、乗員は半舷上陸をして居たが、在艦員に多數の死傷者を出した。

出典

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  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻(第一法規出版、1995年)。
  • 宮内庁 編『昭和天皇実録 第一 自明治三十四年至大正二年』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4-487-74401-5 
  • 宮内庁 編『昭和天皇実録 第二 自大正三年至大正九年』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4-487-74402-2 
  • 新人物往来社編『軍談 秋山真之の日露戦争回顧録 黄海海戦と日本海海戦勝利の要因』新人物往来社〈新人物文庫〉、2010年2月。ISBN 978-4-404-03809-8 
  • 宮内庁図書寮 編『大正天皇実録 補訂版 第二 自明治三十四年至明治四十年』株式会社ゆまに書房、2017年11月。ISBN 978-4-8433-5040-9 
  • 宮内庁図書寮 編『大正天皇実録 補訂版 第四 自明治四十五年至大正四年』株式会社ゆまに書房、2019年6月。ISBN 978-4-8433-5042-3 
  • 造船協会『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書、原書房、1973年(原著1911年)。 
  • (社)日本造船学会/編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2 
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。 
  • 原武史『大正天皇 朝日選書663』朝日新聞社、2000年11月。ISBN 4-02-259763-1 
  • 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第一巻 日本戦艦物語〔Ⅰ〕』光人社、1992年5月。ISBN 4-7698-0607-8 
  • 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第二巻 日本戦艦物語〔Ⅱ〕』光人社、1992年8月。ISBN 4-7698-0608-6 
  • 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第八巻 世界巡洋艦物語』光人社、1994年6月。ISBN 4-7698-0656-6 
  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。 
  • 正木生虎『正木義太傳および補遺 一海軍士官の記憶』文藝春秋、2009年11月。ISBN 978-4-16-371670-1 
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 戦艦 II 金剛・比叡・榛名・霧島 戦艦時代の夜明け』 第2巻、光人社、1989年8月。ISBN 4-7698-0452-0 
  • 山本政雄「軍艦爆沈事故と海軍当局の対応-査問会による事故調査の実態とその規則変遷に関する考察—」『戦史研究年報』第9号(2006年3月)2019年1月10日閲覧
  • 『官報』
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『軍艦壱岐以下三艦ヘ勅諭ヲ下付セラル』。Ref.A01200239900。 
    • 『明治三十七、八年戦役ニ於ケル戦利艦船処分済ノ件』。Ref.A04010138000。 
    • 『明治38年 達 完/6月』。Ref.C12070053000。 
    • 『明治38年 達 完/12月』。Ref.C12070053600。 
    • 『明治39年 達 完/11月』。Ref.C12070054900。 
    • 『明治41年 達 完/10月』。Ref.C12070057900。 
    • 『大正1年 達 完/8月』。Ref.C12070064400。 
    • 『大正1年 達 完/10月』。Ref.C12070064600。 
    • 『大正1年 達 完/12月』。Ref.C12070064900。 
    • 『大正6年 達 完/9月』。Ref.C12070072500。 
    • 『明治39年 公文備考 艦船7 巻16/試験(3)』。Ref.C06091741900。 
    • 『明治41年 公文備考 艦船3巻10軍艦筑波生駒最上淀製造/船体製造(1)』。Ref.C06091994500。 
    • 『明治41年 公文備考 艦船3巻10軍艦筑波生駒最上淀製造/船体製造(7)』。Ref.C06091995100。 
    • 『明治41年 公文備考 艦船3巻10軍艦筑波生駒最上淀製造/筑波進水(1)』。Ref.C06091995400。 
    • 『明治41年 公文備考 艦船3巻10軍艦筑波生駒最上淀製造/筑波進水(2)』。Ref.C06091995500。 
    • 『明治45年(大正元年) 公文備考 艦船5 巻31/試験及調査(1)』。Ref.C08020044400。 
    • 『大正2年 公文備考 艦船2 巻21/試験(1)』。Ref.C08020258600。 
    • 『大正6年 公文備考 艦船15 巻33/処分関係』。Ref.C08020949400。 
    • 『大正6年 公文備考 艦船15 巻33/雑』。Ref.C08020949600。 
    • 『米艦「サラトガ」参列の件』。Ref.C08020561500。 
    • 『米艦「サラトガ」関係』。Ref.C08020583600。 
    • 『第72号 7版 内令提要 完/第3類 艦船(1)』。Ref.C13072068600。 

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