相模 (さがみ)は[ 4] 、日本海軍 に所属した戦艦 [ 1] 。
元は、帝政時代のロシア海軍 の戦艦ペレスヴェート (ロシア語 :Пересвет )、日本海軍の法令上はペレスウェート [ 1] [ 6] 、日露戦争 (旅順攻囲戦 )において沈没[ 7] [ 8] 。その後、日本海軍に鹵獲 されたものである[ 9] [ 10] 。
艦名は旧国名「相模国 」にちなむ[ 11] 。
明治天皇 に奏聞した候補艦名に「阿波 」があった[ 12] 。
艦歴
ロシア海軍の戦艦ペレスヴェート(1901年)
「ペレスヴェート」
サンクトペテルブルク のBaltic Worksで建造[ 13] 。1895年建造開始[ 13] 。同年11月9日/11月21日[ 14] 起工[ 13] 。1898年5月7日/19日進水[ 13] 。
1901年 6月[ 15] 、サンクトペテルブルク で竣工[ 16] [ 11] 。同年10月11日/10月24日、極東に向け出港[ 16] 。1902年 3月27日/4月9日に旅順 に到着した[ 16] 。旅順艦隊 に所属[ 17] 。
1904年1月27日/2月9日未明、「ペレスヴェート」などの艦艇が旅順港外に停泊していたところを日本の駆逐隊が襲撃し、戦艦「ツェサレーヴィチ 」、「レトヴィザン 」と巡洋艦1隻が被雷[ 18] 。次いで同日昼には日本海軍の第一戦隊(三笠、朝日、富士、八島、敷島、初瀬)、第二戦隊(出雲、吾妻、八雲、常盤、磐手)、第三戦隊(笠置、千歳、高砂、吉野)がロシア側と交戦した[ 19] 。この戦闘では「ペレスヴェート」は被弾しなかった[ 20] 。
3月9日/3月22日、日本の戦艦「富士 」、「八島 」が老鉄山越しに旅順港内を砲撃する間接射撃を行い、それに対して「ペレスヴェート」と戦艦「ポベーダ」と「レトヴィザン」が応射した[ 21] 。
2月27日/3月11日と[ 22] 3月13日/26日、戦艦「セヴァストーポリ 」と衝突[ 23] 。
6月10日/6月23日、「ペレスヴェート」を含むロシア艦隊は出港したが、日本艦隊と遭遇すると引き返した[ 24] 。この際、戦艦「セヴァストーポリ 」が触雷している[ 25] 。
1904年 7月28日/8月10日の黄海海戦 ではパーヴェル・ウフトムスキー (ロシア語版 ) 少将が坐乗し本隊の4番艦として参加[ 16] 。艦隊司令長官ヴィリゲリム・ヴィトゲフト 少将の戦死後は嚮導艦となったため集中砲火を浴び大損害を受けた[ 16] 。
日本軍は黄海海戦の前ごろから砲台からの港内砲撃を開始しており、「ペレスヴェート」は7月27日/8月9日に損害を受けた[ 26] 。9月16日/9月29日には1発、9月17日/9月30日には4発被弾(少なくとも4,7インチ砲弾と5.9インチ砲弾6発[ 27] とも)[ 28] 。その後も被弾は続き、10月8日/10月21日には機関が、10月30日/11月12日には艦長室やその周辺が破壊された[ 29] 。
11月22日/12月5日に203高地 の左右の頂上が日本軍に占領されると、そこに観測所を設置した日本軍の砲撃で港内のロシア艦艇は撃沈されていく[ 30] 。11月24日/12月7日、11インチ砲弾10発を受けた「ペレスヴェート」はキングストン弁 を開いて自沈した[ 31] 。
「相模」
1905年 (明治38年)1月1日 、旅順要塞降伏にともない日本海軍に捕獲される[ 11] [ 32] 。5月15日[ 33] から6月29日にかけて浮揚作業を実施した[ 34] [ 35] 。
8月17日、3隻(ペレスウェート、日本丸、薄雲)は旅順港を出発する[ 36] 。ペレスウェートは自力で日本に向かった[ 37] 。
日本本土へ回航中の8月22日 附で他の戦利艦 と共に軍艦籍に編入および改名[ 38] 、本艦は「相模 」と命名される[ 39] [ 1] 。一等戦艦に類別[ 40] [ 41] 。
8月23日、佐世保 に到着[ 42] [ 36] 。9月13日、佐世保を出発して9月16日に横須賀へ到着[ 43] [ 36] 。その後、横須賀海軍工廠で大修理を実施した。
9月21日、松山捕虜収容所で元ペレスウェート艦長が死去する[ 45] 。艦長が亡くなるまで献身的な看護をおこなった日本人看護婦4名に対し、ロシア帝国は功労銀メダルを授与した。
10月23日、東京湾で凱旋観艦式(明治天皇 御召艦浅間 、先導艦八重山 )が行われる[ 47] [ 48] 。元ロシア海軍艦艇(相模《ペレスウェート》 、丹後《ポルタワ》 、壱岐《インペラートル・ニコライ一世》 、沖島《ゲネラル・アプラクシン》 、見島《アドミラル・セニャーウィン》 )等も凱旋観艦式に参列した[ 49] [ 50] [ 48] 。
12月12日、日本海軍は艦艇類別等級表 を改定[ 51] [ 11] 。戦艦の等級廃止にともない、当時日本海軍が保有していた9隻(富士 、敷島 、朝日 、三笠 、石見 、相模 、丹後 、肥前 、周防 )が『戦艦』に類別される[ 52] [ 4] 。
1908年 (明治41年)秋頃、横須賀工廠 での修理工事完了[ 32] 。旧ペレスウェート級2隻(ペレスウェート、ポピエダ)は軍艦「相模」と「周防」となり、日本海軍艦艇として活動することになった[ 53] [ 54] 。
1909年 (明治42年)9月2日、裕仁親王(当時8歳、後日昭和天皇 )、雍仁親王 、宣仁親王 達は横須賀鎮守府を訪れる[ 55] 。上村彦之丞 横須賀鎮守府司令長官等の案内で、裕仁親王達は「相模」(艦長上村翁輔 大佐)に乗艦、本艦を見学した[ 55] 。
1912年 (大正元年)8月28日、日本海軍は艦艇類別等級表の改訂を実施[ 56] 。「相模」は一等海防艦 (7000トン以上)に類別変更される[ 57] [ 58] [ 59] 。
その後、日露親善のためロシア側に返還することとなった[ 11] [ 54] 。
1916年 (大正5年)4月4日 、3隻(相模、宗谷、丹後)は軍艦籍より除籍[ 2] 。艦艇類別等級表からも削除[ 60] [ 61] 。
「ペレスヴェート」
1916年3月21日/4月3日、ウラジオストク に到着[ 23] 。3月23日/4月5日にロシアに引き渡され、艦名は「ペレスヴェート」に戻された[ 62] 。「ペレスヴェート」は装甲巡洋艦に類別された[ 23] 。
5月10日/5月23日、ウラジオストク沖で座礁[ 62] 。巡洋艦「笠置 」が横須賀海軍工廠と舞鶴工廠の職工を遭難現場まで移送した[ 63] [ 64] [ 65] 。6月26日/7月9日、日本海軍により浮揚[要出典 ] 。8月[ 66] に舞鶴工廠 で修理を行った[ 67] 。
その後「ペレスヴェート」は白海 へ向かう[ 62] 。1916年12月22日/1917年1月4日、ポートサイド 出港後に「ペレスヴェート」は1発ないし2発の機雷に触れ沈没した[ 68] 。116名[ 23] ないし167名が死亡した[ 62] 。機雷はドイツ潜水艦「U73」が敷設したものであった[ 62] 。
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
日本海軍
土屋光金 大佐:1908年4月20日 - 12月10日
上村翁輔 大佐:1909年5月22日 - 1911年9月2日
(兼)江口麟六 大佐:1911年9月2日 - 9月21日
(兼)土山哲三 大佐:1911年9月21日 - 12月9日
平岡貞一 大佐:1912年4月20日 - 1912年12月1日
小黒秀夫 大佐:1913年4月1日 - 1914年5月29日
布目満造 大佐:1914年5月29日 - 1915年10月1日
小山田仲之丞 大佐:1915年10月1日 - 12月13日
関重孝 大佐:1915年12月13日 - 1916年4月4日
同型艦
参考文献
ウィキメディア・コモンズには、
相模 (戦艦) に関連するカテゴリがあります。
岡本孝太郎『舞廠造機部の昭和史』文芸社、2014年5月。ISBN 978-4-286-14246-3 。
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『第3編 戦利艦船の収容引揚及ひ回航/第1章 収容艦船の概要』。Ref.C05110196200。
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『第3編 戦利艦船の収容引揚及ひ回航/第5章 丹後(元「ポルターワ」)の引揚及ひ回航』。Ref.C05110196600。
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脚注
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^ a b #達大正5年4月p .36『達第六十四號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 相模 軍艦 宗谷|呉鎮守府在籍 軍艦 丹後 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正五年四月四日 海軍大臣 加藤友三郎』
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^ a b #達明治38年12月pp .8-9『達第百八十二號 艦艇類別等級別表ノ通定ム 明治三十八年十二月十二日 海軍大臣男爵 山本権兵衛(別表)|軍艦|戰艦| |富士、敷島、朝日、三笠、石見、相模、丹後、肥前、周防、』
^ #福井世界戦艦 306頁『▽ペレスウェート(Peresviet のちの相模)』
^ #日露戦役海軍写真集(4) コマ31『旅順沈没戰艦ペレスウエートの前部砲塔』
^ #旅順要塞戦写真 コマ101『西港内西方ニ爆沈セル戰闘艦「ペレスウイツト」』
^ #海軍制度沿革(巻8、1940) コマ25『戰利艦船處分一覽表|軍艦相模|ペレスウエート|戰艦|排水量一二,六七四|三十八年六月二十九日|海軍ニテ使用|六,四八〇,四〇〇|}旅順ニ沈没ノモノ』
^ #東郷全集2巻 コマ23(原本9頁)『旅順港に捕獲せられたる露艦、右よりペレスウエート、ポルタワ、レトウヰザン、ポビエーダ、パルラダの諸艦(三十八年四月八日撮影)』
^ a b c d e #幕末以降帝国軍艦写真と史実 コマ70(原本106頁)『相模(さがみ) 艦種 一等戰艦 二檣(戰闘檣あり) 艦名考 國名なり、東海道相模國に採る。艦歴 舊露國軍艦、原名「ペレスウェート」。露國「ニュー・アドミラルチー」造船所建造、明治31年進水、日露戰役中露國太平洋艦隊として明治37年8月10日黄海々戰に於て(公爵「ウフトムスキー」少将坐乗)我が軍と交戰、後ち旅順港内に於て破壊沈没。明治38年1月1日(旅順の露軍降伏開城の日)我が海軍之が収容引揚に着手、同年8月22日帝國軍艦と定め「相模」と命名す。同年12月戰艦の等級を廢せらる。大正5年一等海防艦に編入、同年4月4日露國政府へ譲渡す。 ―要目― 長435呎/幅750呎/吃水27.25呎/排水量12,674噸/機關 直立三汽筩三聯成汽機3基、ベルビル罐30臺/馬力14,500/速力19/乗組人員732/船材 鋼(シーズト式)/兵装 25拇砲 4/15拇砲 10/8拇砲 16/2.5听砲 4/發射管 2/起工 明治28-11-21/進水 同31-5-19/竣工 同34-6/建造所 露國ニュー・アドミラルチー造船所』
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^ Edward C. Fisher Jr., "BATTLESHIPS of the IMPERIAL RUSSIAN NAVY: Part 2", p. 278. 同記事では1月27日/3月11日となっているが、前後の内容及びユリウス暦1月27日はグレゴリオ暦2月9日であることから2月27日が正しいものと判断した。
^ a b c d Stephen McLaughlin, Russian & Soviet Battleships , p. 115
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^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』236-237ページ
^ Edward C. Fisher Jr., "BATTLESHIPS of the IMPERIAL RUSSIAN NAVY part 3", p. 29
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^ 明治38年7月1日官報第6600号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ15 『○戰報○戰利艦ノ浮揚 旅順口港内戰利艦ノ浮揚ニ關シ去月三十日接手シタル旅順口鎮守府司令長官柴山矢八ノ報告左ノ如シ(海軍省)戰艦「ペレスウエート」(排水量一万二千六百七十四噸 速力十八浬六)ハ本月(二十九日)無滞浮上レリ』
^ #東郷全集3巻 コマ321(原本617頁)『二十九日「ペレスウエート」本日無滞浮揚れり(旅順沈没艦引揚第二)』
^ a b c #収容艦船概要p .2『一、戰艦「ペレスウエート」(排水量一二,六七四噸、三十八年五月十五日引揚箸手、同年六月二十九日浮揚、同年八月二十二日相模ト命名セラル 同月十七日旅順口發同二十三日佐世保箸、入渠修理ヲ加ヘテ後チ九月十三日出航、同十六日横須賀箸、囘航委員長海軍大佐石橋甫、護衛艦ハ假装巡洋艦日本丸、通信艦ハ薄雲ナリ)』
^ #東郷全集3巻 コマ330(原本635頁)『廿三日 相模安着 戰利軍艦相模(舊名)「ペレスウイツト」は自己の機關にて此日午後無事佐世保に到着せり』
^ #東郷全集3巻 コマ330(原本634-635頁)『廿二日 「シールヌイ」此日午後三時全く浮揚せり/戰利艦命名 戰利軍艦五隻左の如く命名せらる 戰闘艦「ペレスウエート」」は相模、同「ポルタワ」は丹後、一等巡洋艦「バヤーン」は阿蘇、二等巡洋艦「ワリアーグ」は宗谷、二頭巡洋艦「パルラダ」は津輕、(以下略)』
^ #海軍制度沿革(巻8、1940) コマ199『◎戰利軍艦相摸丹後阿蘇宗谷津輕命名ノ件 明治三十八年八月二十二日(達一一一)』
^ #海軍制度沿革(巻8、1940) コマ52『◎明治三十八年八月二十七日(達一一四)軍艦及水雷艇類別等級表中戰艦ノ欄一等ノ下「石見」ノ次ニ「相摸、丹後」ヲ、巡洋艦ノ欄一等ノ下「日進」ノ次ニ「阿蘇」ヲ、同二等ノ下「千歳」ノ次ニ「津輕、宗谷」ヲ加フ』
^ #達明治38年8月p .10『達第百四十四號 軍艦及水雷艇類別等級表中戰艦ノ欄一等ノ下「石見」ノ次ニ「相摸、丹後」ヲ、巡洋艦ノ欄一等ノ下「日進」ノ次ニ「阿蘇」ヲ、同二等ノ下「千歳」ノ次ニ「津輕、宗谷」ヲ加フ 明治三十八年八月二十七日 海軍大臣男爵 山本権兵衛』
^ #戦利艦(2)p .13
^ #戦利艦(2)p .15
^ #東郷全集3巻 コマ333(原本640頁)『廿一日 俘虜艦長死亡「ペレスウエート」艦長ワシリー、ボイスマンは此日松山捕虜収容所に於て死亡せり』
^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実p .240『明治三十八年凱旋観艦式艦艇配置圖』
^ a b #福井戦艦物語壱 100-102頁『日本海軍を襲った"パニック"』
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^ a b #福井世界戦艦 306頁『▽ポビエダ(Pobieda のちの周防)』
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^ a b #昭和天皇実録一巻 359-360頁『(明治四十二年九月)二日木曜日(横須賀鎮守府にお成り)午前八時五十分、雍仁親王・宣仁親王と共に御出門になり、逗子停車場より列車にて横須賀に向かわれる。横須賀停車場において横須賀鎮守府司令長官上村彦之丞・同参謀長小泉鑅太郎・予備艦隊司令官八代六郎等の奉迎を受けられる。逸見埠頭より小汽艇にお乗りになり、港内に停泊中の軍艦相模に御乗艦になる。艦長上村翁輔の案内により艦内の要部を巡覧された後、乗組員による操砲術・消防法・無線電信・短艇競漕等を御覧になる。(以下略)』
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^ #達大正5年4月p .36『達第六十五號 艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「相模、」「宗谷、」「丹後、」ヲ削ル 大正五年四月四日 海軍大臣 加藤友三郎』
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^ #福井戦艦物語壱 116-117頁『◇オスラビヤ』
関連項目
国旗は建造国 転用艦a
新造艦
戦利艦
a. 1942年7月1日までに除籍もしくは他艦種に類別変更
b. 1931年5月30日等級廃止
c. 1912年8月28日三等廃止、二等に類別換え
d. 就役後他艦種に類別変更