厳島(いつくしま)は日本海軍の海防艦[3]、または防護巡洋艦[4]。
艦名は名所の名で日本三景の一つ、安芸国厳島から採られた[6]。
松島、橋立は姉妹艦[6]。
概要
日清戦争に参加。
日露戦争では第三艦隊旗艦として活躍し、日本海海戦においてバルチック艦隊発見を受電して急行、その後バルチック艦隊と並走して東郷平八郎司令長官に向け、正確な位置、隊形、針路などを詳細に通報し、海戦の前座を見事に務めた。
なお、松島型二番艦とするのが普通であるが、松島より先に起工、竣工しているため、厳島型と呼ばれることもある。
艦型
建造にいたる経緯については、松島を参照。主砲であるカネー社製32cm(38口径)単装砲は、松島と違い前部甲板に据え付けられたため、艦形としては収まりがよい。また、副砲以下の装備についても若干相違がある。
艦歴
建造
1888年(明治21年)1月7日、地中海鉄工造船所(フランス)で起工。
1889年(明治22年)7月18日進水。
1891年(明治24年)9月3日竣工。
第一種に編入された[1]。
1892年
1892年(明治25年)
5月21日、横須賀港に到着[1]、
5月30日、厳島は警備艦に指定された[16]。
1893年 - 1894年
1893年(明治26年)6月27日、常備艦隊に編入された[17]。
1894年(明治27年)3月21日、修理のために常備艦隊の役務を解かれ[18]、
7月8日再度常備艦隊に編入された[19]。
日清戦争
1894年(明治27年)
8月1日 日清戦争開戦、連合艦隊本隊所属 。
9月17日 黄海海戦 。
1895年(明治28年)
2月 威海衛攻撃終了、清国降伏。
1895年
1895年(明治28年)7月29日、常備艦隊の役務を解かれた[20]。
9月28日、厳島は警備艦に定められた[21]。
1898年
1898年(明治31年)
3月21日、二等巡洋艦に類別された[1]。
1900年
1900年(明治33年)
北清事変により8月から11月迄、上海の警備を行った[1]。
修理
1901年(明治34年)、
呉造船廠でボイラーを円缶からベルビール缶に換装した[1]。
遠洋航海
1901年(明治34年)
2月から8月、少尉候補生の東南アジア、清方面の遠洋航海に従事した[1]。
1903年(明治36年)、
同じく少尉候補生の遠洋航海に従事した[1]。
日露戦争
1904年(明治37年)、第三艦隊旗艦として日露戦争に参加。対馬警備の後に旅順封鎖に参加。一度他に旗艦を譲り、黄海海戦の前日には損傷を受け、修理中だったため海戦には参加できなかった。1905年(明治38年)には第三艦隊旗艦に復帰して日本海海戦に参加。樺太作戦には第四艦隊旗艦として参加した。
1906年 - 1908年
明治39年度、明治40年度、明治41年度の少尉候補生の遠洋航海に従事した[1]。
1912年
1912年(明治45年)
6月に浪速が遭難、室蘭に碇泊していた厳島は6月27日に同地を出港し救助に向かった[22]。
1912年(大正元年)8月28日、二等海防艦に類別が変更された[1]。
除籍
1919年(大正8年)4月1日除籍[7]、
雑役船に編入され、潜水艇母船に指定、厳島丸と改称した[1]。
1920年(大正9年)
1月15日、厳島丸は潜水艦4隻の繋留母船に改造されることになり[23]、
7月1日厳島と改称し、潜水艇母船から潜水艦母艇に変更になった[24]。
9月15日厳島は海軍潜水学校付属となり[25]、
9月24日、呉防備隊から引渡し[26]、
校舎として使用された[25]。
1924年(大正13年)
3月22日に海軍潜水学校は新築移転、以後厳島は倉庫として使用された[25]。
9月8日に韓崎が海軍潜水学校附属となり、海軍潜水学校は厳島を必要としなくなった[25]。
12月13日、船体老朽のため海軍潜水学校から呉海軍港務部へ引渡された[27]。
1925年(大正14年)3月30日廃船認許[8]。
5月20日呉海軍工廠に引き渡された[28]。
同年10月14日 舞鶴飯野商事会社呉支店に売却、11月29日から大正15年(1926年)7月に呉吉浦で解体された[1]。
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 回航委員長
- 磯辺包義 大佐:1890年9月24日 - 1892年6月6日
- 艦長
- 磯辺包義 大佐:1891年4月13日 - 1892年7月12日
- 伊地知弘一 大佐:1892年9月5日 - 1894年2月26日
- 尾形惟善 大佐:1894年2月26日 - 3月21日
- 横尾道昱 大佐:1894年6月28日 - 12月17日
- 有馬新一 大佐:1894年12月17日 - 1895年6月5日
- 松永雄樹 大佐:1895年9月28日 - 1896年8月13日
- 平尾福三郎 大佐:1896年8月13日 - 1898年10月1日
- 斎藤実 大佐:1898年10月1日 - 11月10日
- 舟木錬太郎 大佐:1898年11月10日 - 1899年3月22日
- 細谷資氏 大佐:1899年3月22日 - 1899年10月13日
- 新島一郎 大佐:1900年6月19日 - 1901年8月30日
- 松本和 大佐:1902年10月23日 - 1903年9月26日
- 成田勝郎 大佐:1903年10月15日 - 1904年6月19日
- 丹羽教忠 大佐:1904年6月19日[29] - 1905年1月12日
- 土屋保 大佐:1905年1月21日 - 1906年10月12日
- 名和又八郎 大佐:1906年10月12日 - 1907年8月5日
- 小花三吾 大佐:1907年8月5日 - 1908年9月1日
- 田中盛秀 大佐:1908年9月1日 - 12月10日
- 笠間直 大佐:1908年12月10日 - 1909年12月1日
- (兼)小黒秀夫 大佐:1910年6月3日 - 6月22日
- 田所広海 大佐:1910年6月22日 - 9月28日
- 秀島成忠 大佐:1910年12月1日 - 1911年12月1日
- 南里団一 大佐:1911年12月1日 - 1913年11月5日
- 久保来復 大佐:1913年11月5日 - 1914年8月23日
- 増田高頼 大佐:1914年12月1日 - 1915年5月1日
- (兼)岡田三善 大佐:1915年5月1日 - 1916年3月15日
- (兼)本田親民 大佐:1916年3月15日 - 12月1日
- (兼)糸川成太郎 大佐:1916年12月1日 - 1918年12月1日[30]
- (兼)福田貞助 大佐:1918年12月1日 -
脚注
出典
参考文献
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X。
- 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 下』グランプリ出版、2001年5月。ISBN 4-87687-222-8。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 「海軍軍備沿革」、海軍大臣官房、1921年10月。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
- 『官報』
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『明治45年大正元年 公文備考 艦船15 浪速遭難一件 2止 巻41/遭難諸報告(2)』。Ref.C08020058400。
- 『大正9年 公文備考 艦船2 巻22/改造(2)』。Ref.C08021559000。
- 『大正9年 公文備考 艦船3 巻23/引渡授受』。Ref.C08021560500。
- 『大正13年 公文備考 艦船4 巻24/保管転換』。Ref.C08051098000。
- 『大正13年 公文備考 艦船4 巻24/配属(5)』。Ref.C08051098500。
- 『大正14年 公文備考 艦船4 巻24/引渡授受(2)』。Ref.C08051370700。
- 『大正14年 公文備考 艦船5 巻25/処分』。Ref.C08051372600。
- 『明治25年 達 完/5月』。Ref.C12070029600。
- 『明治26年 達 上巻/6月』。Ref.C12070031100。
- 『明治27年 達 上巻/3月』。Ref.C12070033100。
- 『明治27年 達 下巻/7月』。Ref.C12070033900。
- 『明治28年 達 完/7月』。Ref.C12070035300。
- 『明治28年 達 完/9月』。Ref.C12070035500。
- 『大正8年 達 完/3月』。Ref.C12070075200。
- 『大正9年 達 完/7月』。Ref.C12070077300。
- 『第72号 7版 内令提要 完/第3類 艦船(1)』。Ref.C13072068600。
関連項目
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国旗は建造国 |
転用艦a |
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新造艦 |
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戦利艦 | |
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- a. 1942年7月1日までに除籍もしくは他艦種に類別変更
- b. 1931年5月30日等級廃止
- c. 1912年8月28日三等廃止、二等に類別換え
- d. 就役後他艦種に類別変更
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