砥鹿神社(とがじんじゃ)は、愛知県豊川市にある神社。式内小社、三河国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。東海地方の総鎮守として崇敬される[1]。
本宮山(豊川市・岡崎市・新城市の境、海抜789メートル)の山頂に奥宮(豊川市上長山町本宮下)、山麓に里宮(豊川市一宮町西垣内)が鎮座する。
祭神は次の1柱(里宮・奥宮同じ)[2]。
社記(天正2年(1574年)の「三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起」)では、大宝年間(701年-704年)に文武天皇の時に天皇の病を鎮めるための勅使として草鹿砥公宣(くさかどのきんのぶ)が派遣され、本茂山(本宮山)の神を迎えて里宮が創建されたとする[3][4]。
現在も砥鹿神社奥宮が鎮座する本宮山は東三河地方では中心的な孤峰であり、山中には磐座、山麓には古墳群の分布が知られることから、古代から山自体を御神体として信仰する山岳信仰の対象であったと考えられている[4]。また上記伝承に見える草鹿砥氏は砥鹿神社の旧社家で、同氏は穂別の後裔と伝えることから、かつて当地一帯を治めたとされる穂国造により奉斎されたと推測する説がある[3]。
国史では、「砥鹿神」の神階が嘉祥3年(850年)に従五位下、仁寿元年(851年)に従五位上、貞観6年(864年)に正五位下、貞観12年(870年)に正五位上、貞観18年(876年)に従四位上に昇叙されたと見える[3]。嘉祥3年条以外はいずれの記事でも知立神(愛知県知立市の知立神社:三河国二宮)と併記され、六国史終了時点の神階は三河国内では知立神とともに最高位になる。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では参河国宝飫郡に「砥鹿神社」と記載され、式内社に列している[3]。また、『三河国内神名帳』では「正一位 砥鹿大明神」と記載されている[5]。
中世以降は、三河国一宮として尊崇された(一宮としての文献上初見は文永元年(1264年)の訴状)[4]。
戦国時代の永禄年間には、付近に徳川家康の命を受けた本多信俊が一宮砦を構えて今川軍に包囲されたが、家康が寡勢で救援に駆けつけて多勢の今川軍を蹴散らし、砥鹿神社に宿陣したとも伝わる。また慶長7年(1602年)には、家康より朱印領として百石の寄進を受けた[6]。
明治維新後、明治4年(1871年)には近代社格制度において国幣小社に列した[2]。戦後は神社本庁の別表神社に列している。
昭和46年(1971年)4月27日、高松宮宣仁親王と喜久子妃が、東三河地方の文化・産業視察時に皇族として初めて参拝した[7]。