高良大社(こうらたいしゃ)は、福岡県久留米市の高良山にある神社。式内社(名神大社)、筑後国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
古くは高良玉垂命神社(こうらたまたれのみことじんじゃ)、高良玉垂宮(こうらたまたれのみや)などとも呼ばれた。
久留米市中心部の東方に鎮座する。
古代から筑紫の国魂と仰がれ、筑後一円はもとより、肥前にも有明海に近い地域を中心に篤い信仰圏が見られる。厄年の厄ばらい・厄除け開運・延命長寿・現代では交通安全のご利益でも名高い。また芸能の神としての信仰もある。
高良大社自体が名神大社、筑後国一宮であるほか、本殿に合祀されている豊比咩神社が名神大社、境外末社の伊勢天照御祖神社が式内小社、味水御井神社が筑後国総社であるとされる。
社殿は国の重要文化財に指定されており、神社建築としては九州最大級の大きさである。
この他、本殿内には御客座があり、豊比咩大神(とよひめおおかみ)が合祀されている。高良玉垂命とは夫婦との説もある。神階は正四位下。詳細は下記豊比咩神社を参照。御客座にはほかにも境内にあった坂本神社の祭神などが合祀されている。
高良玉垂命は朝廷から正一位を賜っているものの記紀には登場しておらず、正体が誰であるかに関しては古くから論争があり、武内宿禰(物部保連)説、藤大臣(中臣鳥賊津臣命、藤大臣連保、月天子、住吉明神の化身、物部氏の遠祖・物部胆咋連、物部保連)説、物部祖神(饒速日命、物部胆咋連、物部保連)説、彦火々出見尊説、水沼君祖神説、綿津見神説、比売許曽神(香春同神)説、景行天皇(大足彦)説、芹田真誰説、新羅神説、高麗神説など諸説がある。江戸時代には武内宿禰に比定する説が主流であったが、明治以降は特に比定されていない。
仁徳天皇55年または78年鎮座、履中天皇元年創建と伝えられる[1]。
『延喜式神名帳』には「筑後国三井郡 高良玉垂命神社」と記載されて名神大社に列しているほか、筑後国一宮とされた。また、祭神の高良玉垂命は国内最古の神名帳とされる『筑後国神名帳』によると、朝廷から正一位を授けられたとされる。
高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。山の名前についてはいつしか高牟礼から音が転じ、良字の二字をあてて「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。なお、久留米市御井町にある久留米市役所の支所の名前「高牟礼市民センター」や、久留米市内のいくつかの小中学校の校名や校歌の歌詞に「高牟礼」の名前が残っている。
現在の社殿は久留米藩第3代藩主有馬頼利の寄進によるもので、万治3年(1660年)に本殿が、寛文元年(1661年)に幣殿・拝殿が完成した。
明治4年(1871年)、近代社格制度において「高良神社」として国幣中社に列格し、1915年(大正4年)に国幣大社に昇格した。
『筑後国神名帳』の記載。
『玉垂宮賓殿及境内末社記』には、下記以外に発心権現(発心三社大権現)が末社として挙げられている[2]。鎮座地はわかりやすくするため旧字名を使用した。
三の鳥居・本坂及び下向坂(げこうざか)鳥居・石段より内側が境内地。現在の本参道は本坂だが、かつては下向坂石段であったという。
二の鳥居で車道(福岡県道750号)と分岐する。参道を登り切った下向坂鳥居付近で車道から分離した臨時バス専用車道と合流、さらに進んだ三の鳥居付近で車道と合流する。
石造大鳥居(一の鳥居)から二の鳥居まで。
石造大鳥居(一の鳥居)より外。石造大鳥居脇に下宮へ向かう鳥居がある。
高良山山麓の兼務社は、前述の印鑰神社、高良御子神社(坂本神社)、高樹神社、高良下宮社を含め、御井・山川・高良内3校区全16社。[18]
福岡県指定有形文化財
福岡県指定天然記念物
久留米市指定天然記念物
久留米市指定無形民俗文化財
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