中山神社(なかやまじんじゃ)は、岡山県津山市一宮にある神社。式内社(名神大社)、美作国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
社名は現在「なかやま」と読むが、かつては「ちゅうぜん」「ちゅうざん」と音読みしていた。別称として「仲山大明神」や「南宮」とも。
祭神は次の3柱。これらは『中山神社縁由』に基づく。
『延喜式頭注』には大己貴命、『作陽誌』には吉備武彦命、『大日本史』や『神祇志料』には吉備津彦命と記されている。他に金山彦命とする説もある。『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』では、当社の祭神は猿神であるとされている。
社伝(『中山神社縁由』)では、慶雲4年(707年)に、伽多野部長者乙丸(肩野物部乙丸とも)が祀っていた大己貴命の宮所を中山神に譲ったことで中山神社が成立したという。なお、乙丸は弓削庄に移住した。
実際の創建としては、和銅6年(713年)美作国が備前国から分立した時に吉備中山から勧請を受けたものと推測する説がある。
国史では、貞観2年(860年)に「中山神」の神階が従四位下に昇叙された記事のほか、貞観6年(864年)に官社に列し、貞観7年(865年)に従三位、貞観17年(875年)に正三位に昇叙された旨が記されている。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では美作国苫東郡に「中山神社 名神大」と記載され、美作国では唯一の名神大社に列している。また、中世からは美作国の一宮として崇敬された。
天文2年(1533年)、尼子晴久の美作攻めの際、境内に陣を置く敵を攻略するために火が放たれ、社殿が焼失した。美作平定後の永禄2年(1559年)、晴久自身によって再建された。
明治4年に近代社格制度において国幣中社に列し、第二次大戦後は神社本庁の別表神社となった。
摂末社はかつては112社あったが、尼子晴久の美作攻略の際に焼失し、現在は5社のみが残る。
12月に行われる御注連祭(おんしめまつり)は、鎌倉時代の元寇(蒙古襲来)のときに当社を含め各地の社寺で行われた異国降伏祈願に由来するもので、かつては鉾祭・鉾立祭と呼んでいた。
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