東京優駿(とうきょうゆうしゅん、英: Tōkyō Yūshun)は、日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。副称の日本ダービー(にっぽんダービー、英: Japanese Derby)の名称でも知られる。競馬の祭典とされている[5]。日本国内では単に「ダービー」と言えばこのレースのことを指す。
正賞は内閣総理大臣賞、日本馬主協会連合会会長賞、東京馬主協会賞、朝日新聞社賞(騎手賞)[3][4]。
1932年(昭和7年)にイギリスの「ダービーステークス」を範として、4歳 (現3歳)馬の競走として「東京優駿大競走」の名称にて目黒競馬場にて創設[6]。後に創設された皐月賞・菊花賞とともに「三冠競走」を構成する。4歳 (現3歳)牝馬による桜花賞・優駿牝馬(オークス)を含めて「クラシック競走」とも総称される。
第3回より施行場を現・東京競馬場(府中)に変更して以降、開催地・距離ともに変更されておらず[6]、三冠競走の一冠目にあたる皐月賞が中山競馬場での開催に定着後も東京競馬場で代替開催された例が数例あるのに対し、二冠目にあたる同競走は2023年現在、代替開催等により開催地が変更された事は一度もない[注 1]。本競走を優勝することは、日本の競馬に関わるすべての関係者(ホースマン)が憧れる、最高の栄誉の1つである[6]。距離は第1回から2400mである。
一般的には副称の「日本ダービー」が知られている。この「ダービー (Derby)」は1780年にイギリスでダービーステークスを創設した第12代ダービー卿のエドワード・スミス・スタンレーに由来[6]し、現在は「競馬の祭典」として競馬ファン以外にも広く知れ渡っている[6]。
1973年(昭和48年)までは日本国内の最高賞金競走だった[注 2]。その後はジャパンカップ・有馬記念に次ぐ賞金額となった[7][8][9]。
1950年より「(日本ダービー)」の副称が付けられている[6][注 3]。
東京日日新聞(毎日新聞の前身)や読売新聞では1932年(昭和7年)の第1回から日本ダービーの名称が使われている[10]。1932年(昭和7年)4月25日の東京日日新聞3面では記事見出しで『日本ダービー 晴れの駿馬十九頭』と書き、読売新聞では1932年以降の記事見出しで日本ダービーの呼称を多く使っている。一方、朝日新聞では1949年までは記事見出しには日本ダービーの呼称は使っていない[11]。
JRAが配布するレーシングプログラムや競馬新聞などでは1950年(昭和25年)以降、重賞回次を示す場合は副称に冠して「東京優駿(第〜回日本ダービー)」の形で、また重賞回次なしの場合は「東京優駿(日本ダービー)」と表記している[12]。
ちなみに、騎手賞として優勝旗を提供している朝日新聞東京本社は、終戦直後には当時全く無かった寄贈賞を出して『朝日杯日本ダービー』とすることも検討していたと言われるが、競馬施行者の農林省(現・農林水産省)畜産局により却下され、朝日盃3歳ステークスと朝日チャレンジカップの2つの新設重賞に朝日の冠を付けること、および菊花賞と本競走の優勝騎手に社賞を授与することで折り合った。農林省は、国営競馬最高のレースに特定企業の冠を付けることを嫌ったためだと言われている。
本競走は「最も運のある馬が勝つ」といわれているが、この評はもともとイギリスのダービーステークスに対して言われていたものであり[13]、東京優駿とは無関係な格言である[要出典]。しかし、1992年以降に出走可能頭数が18頭となるまでは参加競走馬が20頭を超すことも珍しくなく、枠番によっては走行距離に極端な差が生まれてしまうことから、一応は理屈の通った言葉であるとして現在では当時の東京優駿を語る際に言及されることもある。[14]
日本の競馬における本競走の位置づけは特別で、創設期には国内に比肩のない大競走であり、その後競走体系の整備が進むにつれて「二大競走」「五大競走」「八大競走」等と称されてきたが、常にその中核をなし国内での最高賞金競走となっていた。後に創設されたジャパンカップに国内最高賞金は譲ったが、2017年 (平成29年)現在は日本ではジャパンカップ、有馬記念に次いで3番目の高額賞金競走である[注 4]。競走の格付も1984年(昭和59年)のグレード制導入当初から最高の「GI」に格付けされたが、専ら外国の馬[注 5]に対する出走制限を理由に国際統一規格に基づく格付から外れ、格付表記も国内ローカル扱いの「JpnI」と改められた[注 6]。その後、2010年(平成22年)から外国調教馬も出走可能な国際競走となったことで正式に国際格付が認められ、格付表記も「GI」に戻された。
そのため「ダービーに始まりダービーで終わる」とも言われており、当競走が終了した6月第1週からはさっそく2歳馬による新馬戦(メイクデビュー)が開催される[注 7]。
世界の競馬開催国は、平地競走については国際セリ名簿基準書においてパートIからパートIIIまでランク分けされており[注 8]、2016年時点で日本は平地競走が最上位のパートIにランク付けされている[15]。
また、各国の主要な競走は国際的な統一判断基準で評価されており、競馬の競走における距離別の区分法として定着しているSMILE区分によると、東京優駿 (日本ダービー)は「Long (2101m - 2700m)」に分類される。国際競馬統括機関連盟 (IFHA)が毎年公表している年間レースレーティング[注 9]に基づく「世界のトップ100GIレース」によると、東京優駿 (日本ダービー)は2016年に皐月賞と並んで3歳限定競走カテゴリーにおける世界1位(全体24位)[16][1]に、2019年にはコモンウェルスカップと並んで同カテゴリーにおける世界1位(全体32位)[17][18]に位置付けられている。
戦前の第1-6回は4月下旬に開催されていたが、第7回以後は概ね、当レースのモデルとなったイギリスのダービーに倣い5月下旬か6月初めに行われており、1957年から1995年までは原則として5月の最終日曜日、1996年から1999年は6月の第1日曜日に行われており、2000年以後は5月最終土曜日の翌日(=5月26日から6月1日までのうち日曜日に当たる日)に施行日が設定されている。
但し、第34回(1967年)と第35回(1968年)は東京競馬場の改修工事の実施に伴い、1967年は5月14日に繰り上げ、1968年は7月7日に繰り下げ、また第38回(1971年)は4月に起きた厩務員ストライキによる休催があった関係で6月13日に、第39回(1972年)は馬インフルエンザによる東日本地区の長期休催の関係もあり7月9日[注 10]にそれぞれ繰り下げて開催されており、これらの場合でも東京競馬場で一貫して行われている[注 1]。
以下の内容は、2024年現在[3]のもの。
出走資格:サラ系3歳牡馬・牝馬(出走可能頭数:最大18頭)
負担重量:馬齢(牡馬57kg、牝馬55kg)
未出走馬および未勝利馬(『競馬番組一般事項 I 定義 4.出走条件(5)未勝利競走』に該当する収得賞金が算出できない馬[19][注 11])は出走できない[注 12]。
出馬投票を行った馬のうち優先出走権のある馬から優先して割り当て、その他の馬は通算収得賞金が多い順に出走できる。なお、出馬投票の結果同順位の馬が多数おり出走可能頭数を超過した場合は、抽選で出走馬を決める[25]。
出馬投票を行った外国馬は、優先出走できる[25]。
JRA所属馬は同年に行われる下表の競走で所定の成績を収めた馬に、優先出走権が与えられる[25]。
前述の未出走馬および未勝利馬の場合、上記の表中の青葉賞で2着以内となった場合と、プリンシパルステークスで1着となった場合は、出走が認められる[25][注 13]。地方競馬所属馬は上記のトライアル競走で所定の成績を収めた馬、および京都新聞杯の2着以内馬に優先出走権が与えられ[6][25][27]、NHKマイルカップの2着以内馬、またはJRAで行われる芝の3歳重賞競走優勝馬も出走申し込みが可能となっている[27]。
優先出走権の付与はされないが、以下のレースも本競走に繋がるレースとなっている。
2024年の1着賞金は3億円で、以下2着1億2000万円、3着7500万円、4着4500万円、5着3000万円[4]。
1着賞金の3億円は、ジャパンカップ、有馬記念の5億円に次いで、日本の競馬では3番目の高額賞金競走である[28][注 14]。優勝騎手 (JRA所属騎手に限る)には2015年に新設されたワールドオールスタージョッキーズ[注 15]への優先出場権が与えられる[31][32][33]。
大正時代中期より産馬業者から東京競馬倶楽部会長の安田伊左衛門に対し「イギリスのクラシック競走であるダービーステークスのような高額賞金の大競走を設けて馬産の奨励をしてほしい」という意見があり、予てからの自身の構想と合致すると考えた安田は[注 16]馬産の衰退を食い止める手段としてイギリスのエプソム競馬場のダービーステークスを範し、
という7つの原則のもと、4歳(現3歳)牡馬・牝馬限定の「東京優駿大競走」を創設することを1930年(昭和5年)4月24日に発表[34]、初回登録は同年10月に行われ、牡92頭・牝76頭の計168頭が登録。第1回は1932年(昭和7年)4月24日に目黒競馬場 (東京競馬場の前身)の芝2400mで施行された。第1回の競走の模様は発走前の下見所の様子から本馬場入場、表彰式に至るまで全国へラジオ中継された[35]。
優勝馬の賞金は1万円[注 17]、副賞として1500円相当の金杯のほか付加賞13530円が与えられ合計で2万5000円ほどとなった[35]。従来の国内最高の賞金が連合二哩の6000円であったから賞金の額も飛び抜けて破格であり、折からの好景気も相まって幼駒の取引価格が跳ね上がった。
また、それまで日本国内では競走馬の年齢を出走資格に定めた競走の開催は限定的[注 18]であり2歳 (現1歳)からの定期的な登録を要件とする本競走の創設によって国内における競走馬の生産、育成、競走と種馬 (牡牝とも)選抜のサイクルに初めて明確な指針が与えられた。
優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記で揃えている。
コース種別の記載がない距離は、芝コースを表す。
競走名は第6回まで「東京優駿大競走」、第7回 - 第14回は「東京優駿 (第13回のみ能力検定競走として施行)」、第15回・第16回は「優駿競走」、第17回 - 第30回は「東京優駿競走」 (「日本ダービー」の副称を付ける)、第31回より「東京優駿 (日本ダービー)」[6]。
[注 22][注 23]
[注 24]
皐月賞・東京優駿・菊花賞・桜花賞・優駿牝馬・天皇賞(春)・天皇賞(秋)・有馬記念
ジャパンカップ
中央競馬クラシック三冠・古馬王道路線