角田 晃一(つのだ こういち、1970年11月18日[1] - )は、日本中央競馬会 (JRA) 所属の調教師で元騎手。
1970年鳥取県西伯郡名和町にて4人兄妹の長男として出生。長兄でありながら体躯が小さかったものの、運動が得意であった角田に父は騎手になることを進路の一つとして提案。競馬とは無縁の環境であった鳥取で生まれ育ち、競馬サークルにも知人のいなかった角田であったが、父の勧め通り競馬学校に進学、1989年栗東・渡辺栄厩舎所属の騎手としてデビュー。同期には田中勝春、佐藤哲三らがいる。
デビュー当初「うちの馬は全てお前に任せる」と告げた渡辺は、他厩舎からも騎乗馬を回してもらうよう手配するなど角田を支援。その期待に応え初年度43勝を挙げ、1989年のJRA賞最多勝利新人騎手として表彰された[2]。
師匠の渡辺の縁で、鶴留明雄・山本正司といった武田文吾一門の厩舎の馬に騎乗することがあった角田は1991年、シスタートウショウに騎乗し桜花賞を制覇、デビュー3年目にしてGIジョッキーとなる。気性難であった同馬を乗りこなせた要因を後に角田は「競馬学校時代に癖馬ばかり乗らされた経験が生きている」と語っている[3]。
1994年にはノースフライトとのコンビで安田記念・マイルチャンピオンシップを制し、GIを2勝。デビューから5年間での重賞11勝のうち、10勝が牝馬に騎乗してのものであり、牝馬に騎乗しての活躍が目立つことから、この頃より「牝馬の角田」と呼ばれるようになる。さらに翌年ヒシアケボノでスプリンターズステークスを制覇。前年ノースフライトのGI2勝と足し当時の古馬短距離GI全制覇という記録を達成。佐山優調教師・ヒシの冠名の競走馬を所有している阿部雅一郎オーナーからの信頼が厚く、この他ヒシミラクルでGI3勝を記録するなど、一時期をのぞいて長く主戦として活躍をした。
2001年は、ジャングルポケットで東京優駿を制覇。同馬主・同厩舎・同騎手で、幻の三冠馬と呼ばれたフジキセキ以来の念願を成就している。
角田はその後渡辺栄厩舎の定年解散に伴い2004年3月よりフリーへと転向。これにより後にGI馬となるスイープトウショウ、フサイチパンドラの主戦を降ろされる不運に見舞われ、勝ち鞍を大幅に減らした時期があったが、2007年、サマージョッキーズシリーズ初代チャンピオンを獲得し、第21回ワールドスーパージョッキーズシリーズへの出場を果たすなど徐々に騎乗回数を回復し、勝ち鞍も伸ばしていた。
騎手生活晩年は松永昌博厩舎の主戦騎手として騎乗していた。2010年2月に調教師免許試験に合格し、同年2月28日付で引退することが発表された[4][5][6]。同年3月1日より中竹和也厩舎にて技術調教師として活動。翌2011年3月1日付で調教師として開業した(栗東:馬房数14)[7]。2013年11月9日、ファンタジーステークスで管理馬のベルカントが優勝、調教師として重賞初制覇となった[8]。
長男である角田大和は2014年のジョッキーベイビーズ優勝者で、父の日本ダービー優勝を映像で見て騎手に憧れ2017年4月に競馬学校に36期生として入学[9] [10]。2021年2月に騎手免許試験に合格し、同年3月にデビューした[11]。
次男・角田大河も騎手を目指し、2019年に競馬学校に38期生として入学[12]、2022年2月に騎手免許を取得[13]、同年3月にデビューしたが、2024年に死去した。
2019年には管理馬のマスターフェンサーで米国クラシック競走のケンタッキーダービー(6着)、ベルモントステークス(5着)に挑戦した[14]。
(太字はGI級競走を示す)
※括弧内は当該馬の優勝重賞競走、太字はGI級競走。
※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。