田中 康三(たなか こうぞう、1915年3月22日[1] - 1989年6月18日)は、日本の騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、調教師(日本中央競馬会)。
第二次世界大戦前後の時期に花形騎手として名を馳せ、1941年秋の帝室御賞典や、戦後最初のダービー開催となった1947年の東京優駿などに優勝した。しかし1949年に自身が引き起こしたミナトクヰン事件を境に斜陽となり、1955年に調教師に転身。1989年に勇退[1]するまで、それぞれ宝塚記念に優勝したエイトクラウン、ナオキ母子などを手掛けた。
1915年、東京府南多摩郡忠生村(現:東京都町田市)に生まれる。尋常小学校卒業後、1933年9月に東京競馬場の北郷五郎厩舎に騎手見習いとして入門した[2]。
1935年3月に騎手免許を取得、1940年に北郷が死去したことに伴い、弟弟子の前田長吉とともに尾形景造(尾形藤吉)厩舎に移籍した[3]。尾形厩舎ではエステイツで1941年秋の天皇賞に優勝するなど活躍したが、第二次世界大戦の激化により競馬開催の規模は徐々に縮小され、1944年の開催をもっていったん休止となった。休止期間中は尾形に伴って岩手県盛岡市に赴き、輓馬機動隊に編入されて馬の育成調教に従事した[3]。
1946年の競馬再開に伴って騎手に復帰、秋季のみの短い開催であったが、39戦12勝の成績を挙げてリーディングジョッキーとなった。通年開催となった翌1947年には、マツミドリに騎乗して戦後最初の東京優駿(日本ダービー)を制した。以後数年間を有力騎手として活躍、ファンからも「康さん」の愛称で親しまれた[4]。しかし、1949年に起こしたミナトクヰン事件(別節にて詳述)を境に成績が落ち込み[5]、1955年に騎手を引退、調教師に転身した。
開業当初は東京競馬場に厩舎を構え、2年目にヒデホマレで中山改築記念を制し、調教師として重賞初勝利を挙げた。1959年、中京馬主協会長を務めていた山口昇(愛知トヨタ自動車社長)の誘いを受け、厩舎を中京競馬場に移した[6]。1966年には山口の所有馬エイトクラウンで宝塚記念に優勝(牝馬初)。1969年栗東トレーニングセンターに移ったあと、1975年にエイトクラウンの子ナオキでふたたび宝塚記念を制した。
以後も数頭の重賞勝利馬を管理し、1989年2月をもって調教師を勇退[1]。同年6月18日、病気により74歳で死去。晩年は長く病床に臥せ、調教師活動はできていなかった[7]。
1949年10月23日、中山競馬場で行われた第7競走「3歳優勝」において1番人気のミナトクヰンに騎乗していた田中は、スタートで同馬が躓いたあと、競走を放棄してコースから引き揚げた[8]。場内の観客はスタートのやり直しや馬券の買い戻しを要求したが主催者側はこれに応じず[9]、不満を持った観客2000人あまりが[10]コース内に乱入した[10][11]。コースは約2時間にわたって占拠され[11]、最終的には千葉県警が14名を検挙[11]した末に観客を退去させた[11]。事件後田中は一開催の間騎乗を自粛した[12]ものの、ミナトクヰンの関係者および国営競馬関係者が処分を受けることはなかった[11]。
※括弧内は田中騎乗時の優勝重賞競走
※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。