■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート
宮城 弘明(みやぎ ひろあき、1962年6月16日 - )は、神奈川県横浜市鶴見区出身[1]の元プロ野球選手(投手)、政治活動家。
横浜市でラーメン店を営む家庭に生まれ、野球好きの父によって左投げに矯正される[2]。鶴見中学校3年生の時に2人のプロ野球選手から三振を奪い、10校以上の野球部から勧誘を受けて横浜商業高へ進学[2]。
高校進学後は基礎体力作りに努め、高校2年生の1979年には、夏の甲子園県予選決勝で横浜高の愛甲猛との投げ合いを制し、同校を41年ぶりの夏の選手権出場へ導いた[2]。しかし試合後に左肩に激痛を感じ、香川伸行とともに大会を代表する選手に挙げられていた本大会では、変化球主体の投球で準決勝まで勝ち進むも、石井毅、嶋田宗彦のバッテリーを擁する箕島高に惜敗[3]。同年の秋季関東大会県予選準決勝でも横浜高の愛甲に投げ勝つが、関東大会1回戦で八千代松陰高に敗退し春の選抜出場を逸する。翌1980年夏の県予選では4回戦で桐蔭学園に敗れ、自身の登板は13イニングにとどまっている[4]。
プロ入り志望を表明すると地元に近いロッテオリオンズなど11球団のスカウトが実家に訪れ[4]、1980年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズから3位指名を受け入団。193cmの長身から「ジャンボ」の愛称で親しまれた。
1983年には開幕一軍入りを果たしている[4]が、翌年春より左ひじに水がたまる症状が現れるも、ごまかしながら投げ続けた結果、さらに翌年1985年、両手で顔が洗えないほど状態が悪化した[4]。
1987年オフにヤクルトを自由契約になり、横浜大洋ホエールズの入団テストを受けたが不合格となる[4]。
渡韓に反対する親戚を説得して韓国球界に挑戦し[5]、当時の韓国球界はコーチを除き在日コリアンでなければ入団することができなかったため[6]、スカウトが在日コリアンと偽り[1]、ピングレ・イーグルスに入団した。実質、初の「在日コリアンではない日本人選手」となった[7]。 韓国での登録名は金弘明(キム・ホンミョン、김홍명)[1]。すぐに主戦となって二戦目で勝利を挙げると、同年は先発ローテーションに一年間定着して156イニングを投げて自身初の体験に充実感を得たという[5]。ハングルを覚えるなど韓国での生活に徐々になじんでいったが成績が上がらないこともあり、帰国を決めた1992年に現役を引退した[5]。
帰国後は知人の紹介で江本孟紀の私設秘書となり[5]、1996年4月に地元選出の石渡清元の秘書となっている。その後小林温の秘書などを歴任。
2003年、横浜市議会議員選挙に鶴見区選挙区から自民党公認で出馬するも落選。
2007年からは社会人野球クラブチーム『千葉熱血MAKING』のヘッドコーチに就任。また、これと並行する形でNPO法人「つばめスポーツ振興協会」(ヤクルト球団OB会)での野球教室の講師も担当している。