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中尾 明生(なかお あきお、1952年11月7日[1] - )は、愛媛県南宇和郡愛南町出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。
南宇和高では3年次の1970年に夏の甲子園県予選準々決勝へ進むが、新田高に敗退。卒業後は1971年に拓殖大学へ進学し、東都大学リーグでは二部4位が最高成績であった。
大学卒業後の1975年にドラフト外で広島東洋カープに入団[1]。3年目の1977年に一軍初出場を果たし、主に終盤の守備固め要員として活躍。1980年には近鉄との日本シリーズ第7戦に代走で出場した[2]。1983年オフに金銭トレードで南海ホークスへ移籍[1]し、1984年には遊撃手として25試合に先発出場。久保寺雄二・小川史とレギュラーを争い、その後も内野のユーティリティプレイヤーとして起用されるが、1988年オフに現役を引退。
引退後はダイエーで二軍守備・走塁コーチ(1989年 - 1991年, 1994年)、二軍守備・走塁兼トレーニングコーチ(1992年 - 1993年)、近鉄で一軍守備・走塁コーチ(1995年 - 1999年)→一軍外野守備コーチ(2000年 - 2002年)→二軍野手総合コーチ(2003年 - 2004年)、楽天で中国・四国担当スカウト(2005年 - 2012年[3])を歴任。
近鉄コーチ時代にはコーチながら寮に住み込み[4]、中村紀洋を付きっきりの指導で一流選手に育て上げ[5]、2001年のリーグ優勝に貢献。守備コーチでありながら、毎日、藤井寺の室内練習場で川口憲史の打撃投手を務め、室内練習場は薄暗く、ボールが見にくくなって「もうボールが見えません!」と言った川口に「アホ!心で読め!」と返すなど、2人の練習は日課となった[6]。
楽天退団後はNOMOベースボールクラブコーチ(2013年 - 2016年3月)→四国学院大学香川西高ヘッドコーチ[7](2016年4月 - 2018年2月)を経て、2018年3月から四国学院大学監督に就任し、水上由伸に「野球選手の価値はお金で決まるぞ」と言って送り出した[8]。その後、関メディベースボール学院中等部のコーチに就任。