さくら ももこ(本名非公表、1965年〈昭和40年〉5月8日 - 2018年〈平成30年〉8月15日[1])は、日本の漫画家、イラストレーター、著述家、エッセイスト、作詞家、作曲家、脚本家。静岡県清水市(現・静岡市清水区)の中心部にある旧入江町地域出身。
自身の少女時代をモデルとしたコミック『ちびまる子ちゃん』が代表作で、「さくらももこ」は同作の主人公(まる子)の本名でもある(作中の人物については「ちびまる子ちゃんの登場人物」を参照)。単行本の売上は累計3000万部を超えるほか、エッセイストとしても独特の視点と語り口で人気が高く、初期エッセイ集三部作『もものかんづめ』『さるのこしかけ』『たいのおかしら』はいずれもミリオンセラーを記録した。
愛称は「ももちゃん」。エッセイの販促用の帯などでは、『ちびまる子ちゃん』のまる子と同一人物として扱われることもある[注 1]。
漫画は、「ヘタウマ」とも評される[53]素朴なタッチで描かれる場合が多い。投稿時代初期には正統派の少女漫画風タッチであったが、エッセイ漫画に舵を切った際、意図的な戦略としてタッチを変更した[54]ことに起因している。人物の場合は、身体のラインを極力出さない作画にしている[注 9]。一方、漫画版『ひとりずもう』をはじめ、時折少女漫画風のタッチを用いることもある。また、『ちびまる子ちゃん』『コジコジ』の扉絵は絵画風の凝ったデザインで描かれた事もあった。これは、さくらが一時期凝っていたインド美術や、敬愛するシンガポール生まれの絵本作家、エロール・ル・カインに影響を受けたものである[57]。
初期はエッセイ漫画を軸に学生時代の「あるあるネタ」やほのぼのとした作風を中心にしていたが、徐々にシニカル・ブラックユーモア・不条理ギャグ的な作風も色濃くなっていった[注 10]。後年~晩年にかけて発表した『4コマちびまる子ちゃん』『ちびしかくちゃん』ではその傾向が強く、読者の評価もはっきり割れる形となった[58][59]。これらはさくらが学生時代に愛読していた漫画雑誌の一つ『月刊漫画ガロ』の作風にも通じている[注 11]。さくらと交友のあった尾田栄一郎は、「さくらさんは少しいじわるな笑いが大好き。人が持っているムズがゆい部分をつつく。これができるのは、人間が大好きで鋭く見ていて、正直な人。」と彼女の没後に語っている[60]。エッセイも含めて、「〇〇って一体…(例:私って一体…)」「あたしゃ情けないよ」など、自虐的なフレーズもよく用いている。
『神のちから』『神のちからっ子新聞』では、『ちびまる子ちゃん』とは別系統の笑い[61]、ナンセンスさを追求した作風となった[62]。ナンセンスな部分は、漫画・アニメの『コジコジ』にも受け継がれている。
エッセイでは、家族や親しい友人相手でも歯に衣着せぬ物言いで綴っているほか、毒気を含んだ独特の比喩表現も多く用いている[注 12]。祖父の死を扱った「メルヘン翁」を『青春と読書』で発表した後に批判が寄せられた際、「私は自分の感想や事実に基づいた出来事をばからしくデフォルメする事はあるが美化して書く技術は持っていない。それを嫌う人がいても仕方ないし、好いてくれる人がいるのもありがたい事である」と自著で述べている[63]。
2000年代以降のエッセイは、過去の体験談よりも、直近の体験や仕事を基にしたものが主流となったほか、絵日記型式の割合も増えていった。初期のエッセイは自嘲的な表現もしばしば用いられたが[64]、後年のエッセイでは家族や他者に対しての恨み節が混ざった表現も見られるようになった[65]。エッセイの挿絵では、さくらの両親に関しては基本的に執筆当時の実年齢を無視して『ちびまる子ちゃん』時代の姿で描かれている。
ペンネームの由来は、花の「さくら」と「もも」から。経緯は、最初の漫画投稿が不発だったため、高校3年生の夏に漫才師か落語家を目指そうと考えていた時期に、同時に芸名も考えていたことによる。自身の好きな花から候補を挙げ、最終的に残った「すみれ」「さくら」「もも」の中から、「さくら」と「もも」を繋いで「さくらももこ」とした。後に漫画の投稿活動を再開したときから、このペンネームを使用している[66]。「すみれ」は、後に『ちびまる子ちゃん』での母親の名前に使用している[注 13]。
漫画家の夢については、高校3年生の夏に親友の穂波に明かすまでは誰にも語っていなかったが、一部の教師や友人にはそれ以前に気付かれていた[67]。また、最終的にはエッセイストになりたい、という夢を中学・高校以降の友人(浜崎憲孝が『ちびまる子ちゃん』の花輪和彦のモデルと評した女性)には明かしていた[68]。
少女時代から作文が得意で、短大の模擬試験の作文課題では採点者から「清少納言が現代に来て書いたようだ」と評価されるほどであった。このことが、エッセイ漫画へと舵を切るきっかけの一つとなった[69]。投稿時代は、何度も編集側からストーリーギャグ漫画への路線変更を提言されていたが、無視してエッセイ漫画での勝負を続けた。最終的には編集側も折れ、エッセイ漫画でのデビューを認めた[70]。
デビュー以降の自画像は、デビュー当初はおかっぱ頭、もしくはまる子そっくりな姿で描かれていた。『ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』の制作レポート(1992年)では二つ結びに変化、1993年ごろから[71]は、顔と前髪はまる子と同一・髪型は三つ編み、で定着するようになった。晩年は、三つ編み以外の自画像も使われた[72]。
活動初期(1990年代初期まで)はメディアに顔を出すこともあったが[73]、長男出産後あたりからは素顔がはっきり分かる状態での露出を避けるようになり[74]、雑誌『富士山』や『おめでとう』などで写真に写る際も、横顔や後ろからのカットなどで対処していた(変装時は除く)。なお、これらの誌面では自画像とは異なり、三つ編み以外の髪型になっていた。
小学校(「まる子」だった)時代は、『ちびまる子ちゃん』で描かれていたように怠け者かつ勉強に真面目に取り組まなかったことから、しょっちゅう母親に怒られていたという。怒られること自体への煩わしさは感じていたが、作者曰く「居眠りで他人に迷惑をかけているわけではない」「万引きや、家庭内暴力みたいに人や物を傷付けたりはしてないので、怒られる筋合いは無い」と、反省はしなかったと語っている[75]。17歳までは怠け者な生活習慣が直らず、母親に「苦労して産んだのに」と泣かれたこともある[76]。一方で、漫画・アニメで怠け者だった過去の自分を描いているため、息子が怠けていてもきつく叱れなくなった、とも自著で述べている[77]。
課外活動は、小学校ではそろばん塾、中学校では学習塾に通っていたが、いずれも先生が怖くて苦痛だったと語っている[78]。塾とは別に、小学校ではバトントワリングの教室や部活動にも参加していた[79][80]。
姉とは、幼少期は漫画やエッセイなどで描かれているようにケンカが絶えず(友人と遊んでいるときでも、ひょんなことからケンカを始めてしまうほど[81])、母親を困らせていたという[82]。成人後は、姉の厄年(1995年ごろ)に姉妹始まって以来の大ゲンカをして2年間絶縁状態に陥った[83]が、その後関係を持ち直した[84]ほか、2002年には姉妹共同でゲームソフトの制作にも携わった(後述)。姉も絵が好きだったこともあり、短大時代に高額な絵画を購入して親から咎められた際、姉がかばってくれたこともある、と自著で述べている[85]。
同級生として元サッカー日本代表の長谷川健太や放送作家の平岡秀章がいる[86]。「はまじ」のモデルとなった浜崎憲孝が自伝を出版した際にはさくらが表紙のイラストを書き下ろした[注 14]。浜崎によると、小学生時代はかなり内気な性格であり、穂波たまえのモデルとなった友人の方がより「まる子」に近いキャラクターだったと語っている[87]。さくら自身も、自著において自身を内向的な性格で[88]、華のないタイプ[89]であったと評している。前述の長谷川健太もさくらの小学生時代の事を「覚えていない」と語っている。『ひとりずもう』には未登場だが、元サッカー選手の半田悦子も高校時代の同級生である。なお、半田に関しては、親友の穂波の方が親交が深いとも述べている[90]。
子供の頃、「青島幸男みたいに偉くなりたい。歌を作りたい」と言ったが、父親に「青島幸男は国会議員だ、無理に決まっている」と一蹴された。そのさくらが青島を目標とし大人になって作詞した歌が「おどるポンポコリン」である[91]。また学生時代、春風亭小朝に弟子入りしようとしたこともある[92]。
『仮面ライダー』で一文字隼人=仮面ライダー2号を演じた佐々木剛のファンだった。一文字のカード欲しさに仮面ライダースナックを買ったこともある。中高生時代は、『ドカベン』に傾倒しており、中でも里中智の大ファンであった。当時、単行本の購入費を工面するために親戚から贈られた『ベルサイユのばら』の単行本を勝手に売り捌いてしまい家庭内で問題になったほか、前述の怠け癖に怒った母親に単行本を窓から投げ捨てられ、泣きながら回収する羽目になったとも自著で述べている[76]。
西城秀樹のファンで、『ちびまる子ちゃん』の作中では、まる子の姉がファンという設定で何度か登場させており、西城は1991年から1992年にかけて使われたエンディングテーマ曲「走れ正直者」の歌唱も担当した。2018年5月に西城が死去した際には、さくらは自身のブログで追悼のコメントを述べた[93]。
高校時代にアマチュア無線技士の免許を取得しており、アマチュア無線家の月刊誌『CQ ham radio』1998年1月号の表紙では、ちびまる子ちゃんのイラストを寄稿したこともある。自伝的エッセイの「ひとりずもう」によると、さくらは高校に入学して部活を決める際に、なるべく早く家に帰りたいという理由で最も楽そうな物理部を選んだが、この物理部ではアマチュア無線の免許を取得することが義務付けられており、そのために彼女は1回2時間・週2回の講習会へ2か月間通わなければならず、それについて非常に煩わしい思いをしたと語っている。高校時代には、一部の後輩から「米虫の先輩」との異名が付けられていた[94][注 15]。
健康の研究を日々行い、飲尿療法、茶葉による水虫治療、ドクダミによる痔の治療など多くの民間療法を実践していた。30代の時には『ももこのおもしろ健康手帖』(幻冬舎刊)と題するエッセイ本を出版したこともある。その一方で大のヘビースモーカーでもあり、自著では「私は大の愛煙家だ。朝起きてまずタバコを吸い、昼間から夕方まで仕事をしている間もずっと吸い、夜眠る直前までタバコを吸う」「タバコが健康をもたらしてくれる。タバコをガンガンに吸っているからこそ、吸っていない人の20倍は、健康に気をつける」「タバコは私に健康の大切さを考えさせ、吸うからにはまず健康を確保しろということに気づかせてくれた」などと語っていた[95]。エッセイ等の挿絵では、ごく稀に喫煙する姿が描かれたこともある[96]。
さくらと交流があった和田アキ子は芸能界でも有名な酒豪として知られるが、その和田がさくらの死後に語った証言によると、さくらは和田を上回る酒豪であったという[97]。さくら自身は、父と祖父が酒豪だったのを見て育っており、その影響で酒に興味を持つようになったと述べている[98]。妊娠時において一瞥体験のような経験を自著に残している。
さくらの書籍の装丁を多数手がけたデザイナーの祖父江慎は、彼女の没後のインタビューにおいて「まる子がそのまま大人になったような人物」「面倒臭がり」と評していた[24]。祖父江曰く「楽しいことにはノリノリだが、義務っぽい雰囲気が出るとすぐ消極的になる」とのことで、彼女を乗り気にさせるための作戦を考えるのが大変であり、一方で楽しみでもあったと語っている[99]。友人の吉本ばななは、普段はまる子そのものな人物である一方、時折全ての感情を超越して俯瞰しているような、コジコジにも通じるような状態を見せることがあった、と評している[100]。長男の陽一郎は、理屈よりも直感で動くタイプの人で、それが作品にも現れているのではないか、と評している[101]。
宝石商の岡本憲将が記した『宝石の常識』を読んで以降、宝石に興味を持つようになり、彼を頼って宝石の収集を行ったこともある。そのときの経験をもとに、『ももこの宝石物語』『ももこのおもしろ宝石手帖』を出版している。
同級生の浜崎憲孝と同様「はまじ」とあだ名される人物として、モデルの浜島直子とも接点がある。浜島とは『MOMOKO TIMES』の仕事で同行したこともある。このとき、さくらプロダクションのスタッフが浜崎憲孝と勘違いして少し混乱したという[102]。
絶滅危惧種であるビルマホシガメのメス「カメミ」を飼っていた。さくらの没後は伊豆にある体感型動物園iZooに引き取られ、現在も飼育展示されている[103]。
※表記はジャケットデザインも担当。
『ちびまる子ちゃん』関連作品で演じた人物