岡本 真夜(おかもと まよ、1974年1月9日 - )は、日本の歌手、シンガーソングライター、作詞家、作曲家、編曲家。ピアニストとしての名義は、mayo(まよ)[1]。
高知県中村市(現在の四万十市)出身[3]。中村市立中村小学校、中村市立中村中学校を卒業後、高知県立中村高校[4]に入学したが、2年次に高知県立高知南高校に編入して、卒業した[5]。
略歴
1995年5月10日、シングル「TOMORROW」で徳間ジャパンからシンガー・ソングライターとしてデビュー[3]。同曲は、TBS系連続ドラマ『セカンド・チャンス』の主題歌に起用された[3]。また、その後オリコン集計の累計売上げが約177万枚まで伸び、出荷枚数は200万枚を突破[3]するヒットを記録し、第33回ゴールデン・アロー賞新人賞を受賞した。翌年には、第68回選抜高等学校野球大会の入場行進曲となるなど、岡本は一躍スターダムにのし上がった[3]。
デビュー当初はテレビやラジオ等のメディア露出やライブ活動をすることは一切なかったが、1995年の『第46回NHK紅白歌合戦』でメディア初出演を果たしている[3]。
その後、「FOREVER」、「Alone」(同曲はロングセラーとなり、以後も切ないラブソングの名手として才能を発揮していく[3])、「そのままの君でいて」「サヨナラ」などのヒット曲をリリースし、シンガー・ソングライターとして確固たる地位を確立した[3]。また、中山美穂や中森明菜、同郷の広末涼子、島崎和歌子などへの楽曲提供し、アニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマ「アララの呪文」の作曲や森永製菓『小枝』のCM曲なども手がけた。一方、エッセイの執筆や写真展の開催なども行い、活動は多方面に広がっている。
2000年1月にコンサートの美術スタッフの男性と結婚し、同年11月に第一子となる男児を出産した。ほどなくして音楽活動を休止したが、翌2001年に活動を再開した。
2010年頃にストレスによりメニエール病を発症し、同時に声が出なくなるという事態にも見舞われたため、一時は引退も考えたがその後完治した[3]。同年、中国・上海万博のPRソングが、岡本の『そのままの君でいて』[注 1]を盗作した疑惑が、日中で大きな騒動となった[3](詳しくは後述)。これにより思わぬ形で岡本が注目されることとなり、同曲はリリースから13年経ってシングルチャートのトップ10入りを果たすという珍しい快挙も達成した[3]。
2013年、卵巣に直径7cmの「チョコレートのう腫」が見つかり、翌年に手術した[3]。
2015年12月31日のブログで、2013年に離婚していたことを公表した[6][7]。
2016年にデビュー20周年を迎えた。それを記念して、3月2日に「mayo」(マヨ)名義でピアニストとしてデビューした[1]。
2022年11月1日、楽曲制作などで自分のスタンスを理解してくれる事務所とスタッフに出会い、岡本側(有限会社ノイ)と「ハップレコーズ合同会社」とのマネジメント業務委託という形で、新たなスタートを切った[8][3]。
2023年2月、自らプロデュースするアイドルグループ「milk&honey」を立ち上げ。民族ハッピー組のメンバーの多くが参加したが、「関わらせていただけない部分が多く、責任を持てない状況が続いており、当初、グループとしてこういうことはやらないといくつかお約束もさせていただきましたが、それも守ってもらえず」[9]として同年限りでの関係解消を明らかにした[10]。
2023年11月、デビュー翌年の1996年に発足しデジタル化以降も続いていた公式ファンクラブ「Sun&Moon」を閉鎖することを発表、同年12月31日をもって閉鎖となった[11]。これまでの公式ホームページ自体も2024年2月1日に閉鎖して新サイトに移行した[12]。
来歴
子供時代
名前の由来は真夜中に生まれたため。身長165cm。
両親の離婚により、生まれて間もない頃に母方の祖父母に引き取られ、養女として育つ[3]。祖父(養父)は警察官、祖母(養母)は教師で、しつけや勉強に厳しかったが愛情を持って育てられた[3]。幼少期に好きだったテレビ番組は『キャンディ・キャンディ』。
小・中学校時代は人見知りする性格だった[3]。小学校高学年の頃、岡本の学校の書類に「養女」と書かれているのを隣の席の男子に見られたことが発端で、家庭環境を理由に中学生頃までいじめを受けた[16]。小学5・6年生の時はバスケットボール部に所属。中学2年生から吹奏楽部に所属した。
小学3年生の頃に祖父母が中古のピアノを買ってくれたのを機に[3]、以後高校1年生の時までピアノ教室に通った。当時は、ショパンやリストでレッスンを積んだ。また、ピアノを弾いている間は嫌なことを忘れることができたため、いじめも乗り越えた[注 2]。中学生の頃まで、将来は音大に進んでピアニストになるのが夢だった[3]。
歌に興味を持った高校時代
高校1年生の時にラジオでDREAMS COME TRUEの「未来予想図II」を聴き、ボーカル・吉田美和の歌に憧れを持つようになる[3]。それまで歌が嫌いだったが、密かにシンガーになる夢を抱くようになる[20]。これを機にピアノから歌に興味が移り、週に何度もカラオケボックスに通って歌うようになった[注 3]。
高校2年生時に祖父の仕事の関係で高知市への転居にともない、高知県立高知南高校へ編入する。この転校は岡本にとって大きな転機となり、尊敬する多くの友人と出会うことになる。友人の中には、後に「そのままの君でいて」のモチーフとなる親友もおり、彼女とはお互いに背格好や性格などが似ており、双子や姉妹に間違われるほどであった。ビーグル38の能勢ヒロシも高校2年生からの同級生で、上京後も友人として交流が続いている。
高校3年生の時に[3]親友らの支えや、また親友の母親から「つては有るけど、送ってみる?」と紹介されたこともあり、自身の歌を録音したカセットを、現在も所属する芸能事務所へ送る。その後、返信が来て「高校卒業後に東京に来ないか」とスカウトされ、後年のデビューにつながる。スカウトの後、祖父母から芸能界に行くことを猛反対されたがアーティストを目指し、高校卒業後に家出同然で上京した[3]。その後祖父母は、デビュー曲「TOMORROW」がテレビなどで流れるようになったことで、ようやく歌手として生きることに納得してくれたという[16]。
上京後にデビュー
上京後、事務所に所属するとアルバイト生活をしながら、ボイストレーニングを受けてデビューのチャンスを探った。事務所から「作詞・作曲を100曲出来たらデビューさせる」という条件を出されたが、それまで作詞・作曲は未経験だった[3]。また、アルバイト生活で楽器を購入する経済的余裕が無かった[注 4]ことから、頭に浮かんだメロディの鼻歌をカセットテープに録音[3](及び自宅の留守番電話への録音)という方法を思いついた。それらのメロディをパズルみたいに組み合わせるやり方で、自作曲を作り続ける日々を送った[3]。この時期(18歳)に、後のデビュー曲「TOMORROW」とB面曲「BLUE STAR」が作られている。
結局、100曲には満たないものの40曲の作曲を成し遂げ、プロデューサーから楽曲を絶賛された[3]。その際、「キャリアがある者が作れないような曲をあっさり出してくる。非常に幅の広い、しかも新鮮な曲です」と、当時のプロデューサーに言わしめたという。これにより、作詞・作曲に徐々に自信を持てるようになる。一方、デビューから5年目のコメントで「初期の作品は未熟で恥ずかしいものが多い」とも語っている。
上京後からデビューまで2年半ぐらいかかったが、実はその間にデビューが3回ぐらい延びて[16]、1995年5月頃にようやくデビューとなった。元々デビュー曲には5曲候補があり、岡本としては「TOMORROW」とは別の曲をイチオシと考えていたが、プロデューサーの意向により同曲でのデビューが決まった[3]。本人にとって「TOMORROW」がデビュー曲に決まったことや発売後に大ヒットしたことは予想外だったという[3]。
新人時代の葛藤
実は元々バラードを歌いたくてシンガー・ソングライターを目指していたため、「TOMORROW」も当初ミディアムバラードとして制作したが、ドラマ『セカンド・チャンス』側の要望を受けてアップテンポで曲調も変えての完成となった[3]。同曲のヒットにより岡本の名前が一気に広まったが、本人が思う“岡本真夜”のイメージとは異なるアップテンポの曲調で持て囃され、この違和感を受け入れるのに数年かかったという[注 5]。
「TOMORROW」の大ヒットを受け、事務所やレコード会社から、セカンドシングルも応援歌的な曲を作るよう指示された[3]。“本当はバラードを歌いたいのにな”との思いもあり、事務所の意向に沿う曲作りに苦労しながら「FOREVER」を発表[3]。しかし、その間にアーティストとして活動したい岡本と、ヒット路線を狙う事務所との間で溝が深まってしまったという[3]。
このため事務所に契約解除を申し出たが、後日裁判にまで発展するトラブルとなった[注 6]。その後レコード会社社長が守ってくれたおかげで事務所側となんとか和解することができた。ほどなくして個人事務所を設立したが、その後“岡本真夜”の名前を利用したい人やお金儲けのために寄ってくる人などが何人か現れたため、しばらくの間人間不信になったこともあるという[注 7]。1996年にようやく、サードシングル「Alone」で念願のバラードを制作することができた[注 8]。
盗作被害騒動とその影響
上海万博のPRソング「2010等你来」Right Here Waiting for You 2010が、岡本の「そのままの君でいて」に酷似しているとして話題となった[22]。台湾より盗作疑惑が始まり、その後、中国国内にも広がり非難の声があがった。世界各国のマスコミでも報道されている。日本国内でニュース等で盗作疑惑が報道されてから数日後の2010年4月19日、岡本自身が「上海万博」実行委員会からの当該楽曲の条件付き使用申請を受諾し、一段落したとの一部報道があったが[23]、その後、「2010等你来」を作曲したとする繆森が盗作を否定し膠着状態になった。
岡本本人の気持ちは問題が発生してから公に語られていなかったが、2010年6月18日放送分の『中居正広の金曜日のスマたちへ』で、本当の自分の気持ちをファンの皆に伝えるために「そのままの君でいての本当の真実」として初めて語った。
また、この騒動の影響で岡本への注目が高まり、2010年5月14日には『ミュージックステーション』に騒動以来初めて登場し、「そのままの君でいて」を歌った。この後にも、他の音楽番組に出演して同曲のほか「TOMORROW」「I believe」等を歌っている。
遡って、同曲は高校時代の親友を励ますために作った曲だが、その親友は26歳で死去した[3]。その後2010年頃に発症したメニエール病で岡本が引退を考えていたちょうどその頃に、上記の盗作被害騒動が起きた[3]。2つの時期が重なったことを受けて本人は、「親友が『そのままの君でいて』を通じ、天国から応援してくれているに違いない」と感じて引退を思いとどまった[3]。
ピアノ
2011年の東日本大震災後の被災地でのイベントライブに参加したところ、「もっとピアノを弾きたい」と思うようになった[注 9]。これをきっかけにピアニストとしての活動を目指すが、それまで長年ピアノから離れていた。技術的に自信がなかったため、ピアノの先生にレッスンを受けた上で、2016年のピアニストデビューとなった[3]。ピアノ曲の制作について、本人は譜面を書くのも読むのも苦手なため、基本的に自分の中に浮かんだメロディを頭の中で弾き、自信がない所は自分にだけ分かる記号でメモ書きをするというスタイルで作曲している[3]。国府弘子からは、「本当に心のあるピアノを弾く人。作詞作曲のセンスもすごい」と評されている。[3]。
人物
私生活
祖父母、実の両親
祖父は警察官を退職した後、事業に失敗したり人に騙されるなど色んな人生経験をした[16]。祖母からもらった言葉で一番嬉しかったのは、デビュー10周年の時に電話で「よく頑張ってきたね」と言われたこと[16]。その後祖父は2007年に死去し、祖母は2022年に100歳で死去した[注 10]。岡本によると、祖母は岡本を教師にさせたかったらしく、子供の頃に直接勉強を教えてくれたが、本人は勉強は苦手だった[16]。祖母は90歳を過ぎた頃から入退院を繰り返したこともあり、おばに面倒を診てもらっていた[16]。2018年に[注 11]発売した曲『Mother ~あなたに花束を~』は、当時存命だった“おかあさん”(祖母)を想って作曲した[16]。祖母の誕生日が10月15日であることから、2018年の夏から毎月15日に花を贈るようになった[16]。祖母は花を贈られたことを喜び1日中持っており、枯れた花をおばが捨てようとしても拒否するほど大事にしていたという[16]。
実の両親とは幼い頃に年に1回会っていたが、その後実母は音信不通となった[3]。実父とは、以後も年に1度、誕生日の時だけメールを送る仲とのこと(2023年7月現在)[3]。
息子などとの生活
前述の通り、2000年に長男が誕生したが2013年に離婚し[注 12]、以後一児のシングルマザーとして息子を育てた[3]。息子との親子関係は友だちに近く、岡本は帰宅後に仕事のことも含めて「今日こういうことがあって…」と友だちみたいに何でも話していた[16]。元夫とは、長男が20歳になるまでは年に1回は3人で食事に行く関係を保っており[3]、現在(2015年時点)も元夫の両親も岡本のライブに毎回顔出している[6]。長男は2019年4月に大学進学のため家を出ており[16]、現在はひとり暮らしをしている。チワワの"シド"、マンチカンの"こしあん"を飼っている。長男とシドは仲が良く、彼が家を出る時も連れて行きたいと思っていたほどで、毎日のようにシドの写真を送っているとのこと。
過去には、1998年から雌のヨークシャーテリア"のん"、その息子の"ぷー"を飼っていた。奇しくも、のん・ぷー共に名古屋でのライブの前日に岡本の腕の中で息を引き取っている。その為、現在も名古屋でのライブの際は2匹のことを思い出すと述べている。
長年犬派であったが、2017年にウィリアムス浩子の自宅を訪れた際、初対面の岡本の手に顎を乗っけて眠るほど人懐っこいロシアンブルーと出逢ったことで、それまで抱いていた「自由気ままでわがまま」という猫へのイメージが一変した。それ以降「猫も良いな」と考えるようになり、猫ブリーダーのサイトを毎晩眺めるうち、前述のこしあんの写真を見て一目惚れし、息子に無断で連れて返ってきたという。
性格
性格について本人は、「とにかくマイペースなところか私の長所であり短所。どちらかと言うと男っぽい性格だと思います」と自己評価している。また、「世間からは“レースのカーテンのある部屋で紅茶を飲んでいそう”とか“フランス映画ばかり見ていそう”とかよく言われますが、全くそんなことないです(笑)」と語っている[3]。
飲み仲間の島崎和歌子からは、「真夜ちゃんはまさに“はちきん”(土佐弁で『自立心の強い女性』の意味)。肝っ玉があるというか、大変なことがあっても全然めげずに自分の好きな道を行く所は、やっぱり高知の女性だなと思います」と語っている。さらに「最初会うまでは大人しい人なのかなと思っていたのですが、実際に会ってみたら明るくて社交的で、それまで見ていたアーティスト“岡本真夜”のイメージと普段の彼女とのギャップが結構ありました」と回想している[3]。
親交があるジャズピアニストの国府弘子は、岡本の人柄について以下のように語っている。「物静かで聞き上手なんですけど、決断力と行動力に至っては私の想像を遥かに超えるぐらいあります。また、真夜さんは人生を素敵に楽しむコツを知っている人。私の方が年上なのに、いつも彼女を頼りにしています」[3]。
大人しい若しくは優しいとのイメージがあるが、電話等は長電話する上、プライベートでは賑やかだと語っている。音楽に対しては、土佐っ子譲りの頑固で「音符や言葉の一つ一つが自分から生まれた子どもみたいなもの。我が子を世に送り出すのと同じで、ハンパなことはできません」と語っている。そのため、スタッフと意見が衝突する事もある。基本的に、自分の作品を他人に1文字1単語でも勝手に変えられるのは嫌いで「これを変えられたら岡本真夜の曲じゃなくなる、それならその曲は歌わない」とも述べている[20]。一方、2019年、岸谷香・森高千里と共にゲスト出演した「ミュージックフェア」で「今ではタイアップ先などの要望にも柔軟に対応できるようになった」と発言している。
カメラの被写体になることが苦手なこともあり、デビュー当初は本人の希望で顔出しNGにしていた。「TOMORROW」のCDジャケット写真は顔が分からないようになっており、テレビ番組への出演もしなかった。雑誌などの取材は受けていたが、掲載する写真はその場では撮らず、いつも事務所が事前に用意したアーティスト写真を使用していた[注 13]。
曲作りについて、曲は頭の中にパッと浮かんだものを形にしている。歌詞は日常生活や友達との何気ない会話から生まれることが多いが、実体験から詞が生まれることは少ないとのこと[3]。
ある日偶然、「大好きな彼が病気で天国に逝ってしまった」「愛する夫を病気で亡くした」という似た内容のファンレターが2通同時に届いた。岡本はこれらのファンレターを出してくれた人に何か出来ないかと思い、その内容を題材にした楽曲「この星空の彼方」を制作し、送り主であるファンへエールを送った[24]。
東日本大震災の被災者への義援金の案内やチャリティーコンサート等を長期的に行っている。アルバム「Tomorrow」は、売り上げの一部を義援金として寄付したいというコメントが岡本自身から発表された。他にも台風被害を受けた保育所に支援品を贈るなどしている[25]。
趣味
趣味は写真撮影。CDジャケットでカメラを持っているものがあるが、そのカメラは自前である。個展を開いた経験があるほか、ブログ等でも自身が撮影した写真等を公開している。デビューから1年ほど経った頃、ロケで行ったパリで、1組の外国人カップルが楽しそうにカフェで会話しているところを見つけ、カメラのシャッターを押した。「帰国後に現像した写真を見てびっくりしました。女性の顔が、まるで別れ際のように切ない表情だったからです」と感じ、写真を眺めているうちに頭の中でバラードのメロディーが浮かんできたという。瞬間を切り取った写真と、そこから生まれた歌もある事からカメラの面白さにハマり、常にカメラを持ち歩くようになった。カメラは十数台所持しており、その中でも一番気に入っているのは中古で購入したインスタントカメラで、モノクロフィルムで撮影することが多く、詞やメロディーが生まれるのも、モノクロ写真の方が「カラーよりも、自分の色やイメージに染めやすい」と語っている。基本的にはデジタルカメラは便利だがフィルムカメラの味わいが出ないと語り、撮りためた写真も岡本には宝物で「旅の思い出、友達との時間、生きてきた証し、そうしたものが写真1枚1枚に詰まっているんです」とも語っている。
雑貨作りが好きで[3]、アクセサリーやバッグやぬいぐるみ等を作る一面も持ち合わせている。自身の子のカバン等を手作りする際に生まれた楽曲も存在する。バッグやぬいぐるみは、ファンへプレゼントしたり、材料費同然の低価格で販売することもある[28]。趣味は雑貨作りで、作ったアクセサリーやポーチなどを時々販売している。
度々、映画も鑑賞するほか、サッカー観戦も好む。
故郷
デビュー当時は作曲や作詞に詰まる事があると高知に帰省し、友人と思う存分遊ぶことでリフレッシュしていた。帰省時は高校時代の同級生が集まり歓迎してくれるとのこと。デビュー当時は「いつか高知でもコンサートを」開催することも目標としていた[30]。2010年8月には地元高知の「よさこい祭り・前夜祭」でシークレットゲストとして凱旋ライブを決行した[31]。2018年12月、高知県観光特使に就任した[32]。
芸能界の友人
- 千秋
- 岡本の手料理を食べたり一緒に遊んだりしている。毎日のように遊んでた時期も存在するほど。性格はまったく違うが気が合う。2人でインテリア談義をするのが好きだと千秋はブログで書き込んでいる。
- 能勢ヒロシ(ビーグル38)
- 高知県立高知南高等学校2年生からの同級生で、現在も東京で数人規模の同窓会を開催している。岡本には珍しく男性の友人。
- 島崎和歌子
- 同郷の縁で、お互いに20代前半の頃に出会ってすぐに友人となり、以降時々2人でお酒を飲みに行っている[3]。2009年1月28日に島崎がリリースした「Happy Life 〜明日に向かって〜」は、岡本による書下ろしである。1歳年上で年齢も近い事もあり、岡本の癖や行動を良い意味で指摘してくれる人物でもあるとのこと。
- 西村由紀江
- 共通の趣味友達で、サッカー観戦で意気投合した。以前からの知り合いである。
- 岩崎宏美
- 中山美穂
- 相川七瀬
- 岡本と同じ1995年にデビューしており、相川の誕生日パーティーにも招待される友人の1人である。2014年に「桜舞い降りる頃、涙色」で楽曲提供し、コラボレーションを果たしている。
- 華原朋美
- 国府弘子(ジャズピアニスト)
- 親しい友人の1人で、音楽活動で岡本とステージで共演したり、プライベートで女子会を開いたり、大晦日や誕生日を一緒に過ごしている[3]。
尊敬する人物・アーティスト
- DREAMS COME TRUE
- DREAMS COME TRUEに憧れて歌手になったと話している。吉田美和の前に立つと今でも緊張すると述べている。
- 竹内まりや
- 結婚後の理想のスタイルについて、「元々、理想のスタイルは例えば竹内まりやさんのように、家庭を大切にしつつの活動だったんです。私らしい速度で音楽を作り続けていけたらいいな」と岡本本人が語っている。
- 高知県立中村高等学校の担任教諭
- 岡本の恩師、岡本が進路相談をした時に「歌手になりたい」と話している。担任教諭は「この子は何を考えているんだ」と思ったと話している。TBS系ドラマ『セカンド・チャンス』を見た時「家族全員で正座して見た」とも語っている。現在も手紙や電話で時折連絡を取り合っている。
ディスコグラフィ
シングル
幻のシングル
ベストアルバム『MAYO OKAMOTO BEST RISE I』初回限定プレス盤封入のアンケート応募ハガキによると、2000年6月28日に、「KEEP ON GOING!」(c/w「キスよりも深く イチゴより甘く」)という12cmマキシシングルが発売されると明記されていた。実際には、販売に至っていない。
ファンクラブ入会記念シングル
かつて運営されていたファンクラブ「SUN & MOON」では入会特典として、限定シングルがプレゼントされていた。どちらも非売品で、一般販売されているCDには収録されていない音源である。
- ANNIVERSARY ~Acoustic Version~ (初期, 8cmCD)
- 明日へ ~Acoustic Version~ (12cmCD)
なお紙の会報廃止後のデジタルファンクラブ化以降は入会記念シングルの特典はなくなり、前述の通りファンクラブ自体も2023年12月31日をもって閉鎖となった。
スタジオ・アルバム
- mayo 名義
No. |
発売日 |
タイトル |
備考
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1 |
2016年3月2日 |
always love you |
収録曲「always love you」は映画『夢二〜愛のとばしり』主題歌[33]
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2
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2018年3月7日
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Good Time
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収録曲「Good Time」はTBS系列『ひるおび!』エンディングテーマ
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ミニ・アルバム
ベスト・アルバム
配信限定楽曲
- 君が笑顔でありますように(2009/05/01)
- 君が笑顔でありますように:『MUSIC TREE』応援ソング, 1ダウンロードにつき10円が森を守り育てる環境活動団体「more trees」に寄付された[35]。(現在は配信終了)
VHS・DVD
- Pureness '96(1996/8/21)
- Mayo Okamoto Smile Tour '97(VHS)(1997/9/19)
- Mayo Okamoto Smile Tour '97(DVD)(2000/6/28)
- Mayo Okamoto Hello Tour '98(VHS)(1998/10/21)
- Mayo Okamoto Hello Tour '98(DVD)(2000/6/28)
- Mayo Okamoto Tour '99 〜魔法のリングにkissをして(2000/4/5)
- Mayo Okamoto Tour 2000 〜RISE〜(2001/11/8)
- Mayo Okamoto Dear…2002 (DVD) (2002/10/30)
- Mayo Okamoto LIFE Tour 〜2003〜 (DVD) (2003/10/22)
- Mayo Okamoto Clip 1995〜1998(2002/4/3)
- Mayo Okamoto Clip 1998〜2002(2002/4/3)
- J:COM Presents 岡本真夜「Story&scene~時間旅行~」(2015/5/10)
- Mayo Okamoto 20th anniversary Tour~君だけのStoryがここに~(2016/3/2)
楽曲提供
参加作品
- 福田典之「シャンプーと君と恋する季節」(1995/11/25)
- 21世紀への贈りもの 〜OFF COURSE Melodies〜 (1999/11/10)
- 「愛を止めないで」 作詞・作曲:小田和正
- 「真夏の夜の夢」 作詞・作曲:松任谷由実、(稲垣潤一とのデュエット)
- 「桜舞い降りる頃、涙色 feat.nanase」 作詞:相川七瀬・作曲:岡本真夜
- 松本英子 - 祈り灯/おもいで(2015/3/21)
- 「おもいで」 ※ゲストピアニスト
- 「ほうき星」(mayo名義) ※松久淳、田中渉による小説「麻布ハレー」とのコラボレーションCD「AZABU HALLEY」に収録。
バックコーラスとして参加した曲
ユニット
- 成田有里恵と女性ヴォーカルユニット「Love Cupids」(ラブキューピッツ)を結成。1997年4月18日、シングル「春が来た[注 17]」をリリース。
他のアーティストによるカバー
- 4th Single「ラブリー♡キャッツアイ」(2006/11/1)に『TOMORROW』収録。
- 9th Single「また明日ね/code」(2008/10/22)に『TOMORROW』収録。
- カバーアルバム『君と歩いた時間』(2010/5/19)に『TOMORROW』収録。
- デュエットカバー・アルバム『男と女3 -TWO HEARTS TWO VOICES-』(2010/9/29)に『TOMORROW』収録。
- アルバム『THE IDOLM@STER ANIM@TION MASTER 生っすかSPECIAL 04』(2012/10/17)に『TOMORROW』収録。
- カバーアルバム『Color the Cover』(2013/2/27)に『Alone』収録。
- カバーアルバム『WOMAN 2 ~Love Song Covers~』(2014/11/26)に『Alone』収録。
出演
ラジオ
ドラマ
「パンダが街にやって来る」第5回出演(毎日放送:2008/12/1放送) 役:ラジオ出演の歌手「岡本真夜」役
NHK紅白歌合戦出場歴
- 注意点
脚注
注釈
- ^ 1997年発売、2005年に12cmシングル化。
- ^ 本人は、「辛い時はピアノを一日中、何時間も弾いていましたね。ピアノは私にとっては空気のような存在で、なくてはならないものでした。ピアノに助けられてきたので、奏でる立場になった今は、私のピアノの音が誰かの救いになればいいなと思って弾いています」と語っている[3]。
- ^ 本人は、「それまで人前で歌うことは苦手でしたが、ドリカムを聴いて歌うことの素晴らしさを知ったんです」と述懐している[3]。
- ^ 本人によると、「とりあえず作曲入門の本を買いましたがコード(和音)のことしか書いていなくて、結局作曲のことはよく分かりませんでした」とのこと。
- ^ 本人は、「デビュー当時は“私らしい曲ではないのに”と思っていたので、代表曲として捉えられることに何年も葛藤がありました。でも、今はこの曲がなければ今の私はなかったと思っています」と述懐している[3]。
- ^ 本人は、(若かったこともあって上手く立ち回れず、契約解除について事務所スタッフからは叱咤されたり、親族からは『面倒を見てもらったのに今辞めようとするなんて』などと責められました。ほどなくしてトラブルを知った週刊誌の記者が自宅前に張られたので、当時のレコード会社の社長が用意して下さったホテルでしばらくの間暮らしました。孤独でしたね」と述懐している[3]。
- ^ 本人は、「音楽を売っていく以上、自分が商品という立場でもあることは理解しています。でも私は操り人形ではないですし、自分で生み出した作品は自分で守りたいと思う。人に流された人生は後悔しか残らないので」と語っている[3]。
- ^ 本人は後に、「『Alone』をリリースしてから数え切れないくらいのファンレターをいただき、シンガー・ソングライターとしてやっと認められたと安堵しました。私にとっては、『Alone』が本当のデビュー曲という感覚です」と述懐している[3]。
- ^ 本人によると、「被災者の皆さんを励ますためにイベントライブに参加しましたが、ある人から『まだ歌を受け入れられない人もいる』との言葉を聞きました。複雑な思いのまま自宅に戻ったのですが、数日後ピアノを弾いた時に、『被災者の方に歌ではなくピアノの優しい音色なら癒やしを届けられるのかもしれない』と思い、ピアノの曲も作るようになりました」と語っている[3]。
- ^ 本人はその後、「私は学生時代に養女ということが嫌で、一時は祖父母に反抗していた時期もあります。でも小学校の運動会などにも来てくれたし、愛情をたくさん注いで育ててくれたので、今は本当に感謝でいっぱいです」と語っている[3]。
- ^ 同年発売のアルバム「Happy Days」に収録。
- ^ 本人によると、「離婚の原因はいくつかありますが、一つは当時私が仕事を優先しすぎたことにあると思います。ちょうどピアニストとして活動を始めた頃で、夫婦間でのお互いの愛情のバランスが取れなくなってしまって」と回想している。
- ^ 本人は後に、「カメラやテレビが苦手だったのと、当時は楽曲だけで勝負したいと思っていたので、メディアには出ないという約束でデビューさせてもらったんです。でも『TOMORROW』が大ヒットしたことで『生で歌っているのを聴きたい』という声が大きくなり、周りの大人たちに巻き込まれて顔出しすることになって(笑)。それで仕方なく、その年の紅白歌合戦で初めて顔出しをしたんです。ライブをするのは好きなのですが、今(2023年)もテレビに出るのは苦手ですね」と回想している[3]。
- ^ 相川七瀬のシングルであるが、カップリングとして岡本が歌唱したセルフカバーバージョンが収録されている。
- ^ タイトルは「Will…~未来へのプレゼント」で、歌詞も一部書き改められている。
- ^ フジテレビ系『志村屋です。』2009年7月度エンディングテーマ、フジテレビ系『なべあちっ!』2009年7月度エンディングテーマ
- ^ 正確な曲名では、タイトルの末尾にハートマークが描かれている。
出典
外部リンク