辻谷 耕史(つじたに こうじ[注 2]、1962年4月26日[4][5][6] - 2018年10月17日[8])は、日本の男性俳優、声優、音響監督[9][10]、ナレーター[11]。東京都小平市出身[4]。妻は声優の渡辺久美子[12]。
生涯
生い立ち
子供の頃から運動が得意で、運動会では花形であり、小学6年生の運動会では100m走とマラソンで学年1位で、共に学校新記録を樹立していた[4][13]。昔は野球少年だったが、小学生の頃に野球で指を骨折[14][15]。当時は国語の授業の音読が苦手であったという[16]。その後も活字を音読することにプレッシャーを感じ、ひたすら練習していた[16]。辻谷は諸々器用な人物だと語るが、音読は人生最初で最大のコンプレックスであったという[16]。
小学4年生の時に音楽の授業でヨハン・ゼバスティアン・バッハの『G線上のアリア』を聴いて最初に芸能の世界に興味を持つ[14]。
その後ピアノを習い始めたが、前述の通り野球でよく突き指をしたりしていたため、ピアノは1年で断念した[15]。
小学5年生の夏休みに新聞配達をし、手軽に弾けるギターを買った[15]。
小学6年生の時に初めてバンドを組んだ[15]。中高時代はサッカー部に入りながらもバンド活動は続けており、将来の夢はバンドマンだった[15]。その時は前述の指を骨折した影響で、左手の中指が少し曲がっていたが、日常生活には全く問題なかった[14]。ギターを弾き始めてから指の動きが気になるようになり、「どんなに頑張っても仕事としてやっていくのは無理だろう」と思っていたという[14]。あまり記憶が確かではないが、小学6年生くらいの時に声変わりしたという[17]。
千葉県立我孫子高等学校[9]時代の高校2年生の時、文化祭でのクラス演劇で初めて舞台を体験[15]。その頃にアル・パチーノの映画で吹き替えをしていた野沢那智を知って初めて声優を意識したが、当時は声優になろうと思ったことはなかったという[16]。
同じ声優のこおろぎさとみと阪神タイガース元選手、元監督の和田豊とは同級生であった[4][15][18]。こおろぎとは2年生の時に、和田とは3年生の時にそれぞれ同じクラスだった[15]。
高校3年生の時に大学受験をするために予備校に通っていた[14]。しかし皆が同じ方向を向いていることに、一瞬「なにか違うぞ」という違和感を覚え、その日のうちに「受験やめた!」と決める[14]。
しかし大学に行かないならほかにやることを探さなくてはならず、両親も説得しなくてはならなかった[14]。今後のことを改めて考える時間が欲しかったため、自転車に乗り3日間くらい家出をしていた[14]。そして思いついたのが職業としての役者だったが、高校でクラス演劇をしていた時に大変面白かったため、「だったら役者になろうかな」というような、かなりアバウトな感じだったという[14]。ただし、それまで音楽をしていたこともあり、楽器を通してではなく体そのものを使ってなにかを伝えるということがストレートに感じ、「面白かった」というのはあると語っていた[14]。
両親は2人で演劇も見に行っていたりもしたため、辻谷が「役者になる」という決断に対して反対はしなかった[14]。その時、宇野重吉、滝沢修のことを聞かれ、「知らない」と言ったところ笑われていた[14]。それでも、「大学に行かせたつもりで4年間くらいは遊ばせておいてもいいだろう」という感じで自由にさせてくれたが、内心は、「やれるものならやってみろ」、「役者になったところで、どうせ食っていけないだろう」と思っていたらしいという[14]。
通っていた高校はアルバイト禁止だったが、「卒業後に東京で生活して演劇学校に通う資金を貯めなければいけない」と教師を説得[14]。その時にむりやり認めてもらい、高校3年生の夏に「受験をやめる」と決めてから、アルバイトを始める[14]。
早稲田大学出身で演劇サークルに所属しており、演劇部の顧問もしているなどその方面に詳しかった担任の教師から薦められてパンフレットで見た舞台芸術学院に進学し、1981年から1983年の2年間学ぶ[4][14]。
キャリア
舞台俳優・声優として
同芸術学院を卒業後、1983年に劇団東演に所属[4][14]。教務は「劇団3○○に行ったほうがいい。豊川悦司の向こうを張れるような役者になれ」と薦めてくれた[14]。当時、劇団3○○が注目されだしていた頃で、劇団員の豊川悦司は辻谷と同じ歳で、主宰の渡辺えりが卒業生だということもあり薦めていたのだろうという[14]。それで劇団3○○の芝居を見に行ったが、自分には合わないような気がして断念した[14]。教務に言われるがままに3○○に入団していたら、声優をしていなかったと語る[14]。
1990年に退団するまでの7年間ほど劇団活動を続けたが、25歳の時、劇団に映画放送部が設立され、テレビやラジオなどのマスコミ出演への窓口が出来たという[4][15]。当時は俳優志願だったことから、声の仕事をするとは全く考えておらず、テレビドラマや映画に出演できると思っていた[15]。
この映画放送部設立にあたり「声のサンプル」を取り、この「声のサンプルテープ」が好評で、1ヶ月後位にキャスティング会社の指名で『アルバイトニュース』のテレビCMのナレーションの仕事が舞い込んだ[15]。当時は無名の新人にいきなり指名で仕事が入るとは珍しいことのため、この時はマネージャーも驚いていたという[15]。
仕事は30分ほどで終えたが、「これで何千円かギャラが入ればアルバイトの足しになる」と思い、数ヶ月後入金を見て「数字が一桁違う!」、「こんな仕事があるんだ」と驚いていた[15]。当時、深夜までしてたバイトの時給が700円くらいだったため、30分で何十倍も稼げる形となった[15]。その時に「どうせアルバイトをするなら、こちらの声の仕事の方がはるかに効率が良い」と思ったのが、声優の仕事に興味を抱いたきっかけである[15]。
同劇団に所属していた近石真介の仕事に付いていくうちに、声優を始めるようになる[14]。当時は声優特有のマイクワークのような技術はまったく学んでおらず、全て現場に出るようになっていから覚えていった[14]。声の仕事をするとは考えてもいなかったため、声優を認識してなかった[14]。アニメを見て「絵がしゃべってる」と思うレベルではなかったが、役者の仕事と声の演技というのが結びついておらず、アニメを見ていたのも小学6年くらいまでで、『巨人の星』、『タイガーマスク』止まりであったという[14][16]。
シグマ・セブン(1991年 - )[4]、クレイジーボックス(2005年 - )[4]、deux-plus(2008年 - )[4]、マック・ミック[5]を経て、2018年3月から亡くなるまでフリー。
『あいつとララバイ』でアニメデビュー[7]。
『あいつとララバイ』に出演後、その時の音響監督の浅梨なおこの師匠の音響監督の斯波重治が音響演出を務めていた『めぞん一刻』の収録に呼ばれ、渕崎ゆり子が演じていた八神いぶきにプロポーズする役を演じていた[7][19]。その時のセリフが「僕、貯金が趣味なんです」で、普通に演じていたところ、あまりに普通だったことが面白く、共演者の皆がどっと笑っていた[19]。斯波も、あまり色づけされてないナチュラルな演技が好きだということもあり、その後は月に2、3回程『めぞん一刻』の端役に出演していた[7][19]。
3ヶ月ほどたった頃、「収録の後もスタジオに残ってくれ」と言われたため、居残りをしていたところ、いきなりセリフの書かれた紙を渡され、「読んでみて」と言われた[7][19]。それがOVA『沙羅曼蛇』のオーティションで、主人公のダーン役に抜擢[7][19]。その時に「君のような素直な声の人はなかなか居ないんだ、ガンバレよ」と励まされていたと同時に、厳しく怒られたこともあったという[7]。
その後はアニメの仕事が継続するようになったという感じで、これがほんの1年あまりの間の出来事であったことから、何も考える時間がなかったという[19]。
テレビアニメでの初レギュラーは『F-エフ』の雄馬役だが、活躍する前に1年で放送終了してしまったという[20]。当時、東京現像所でアルバイトしており『F-エフ』の監督でのちに『無責任艦長タイラー』の監督も務めることになる真下耕一とバッタリ会ったが、「あれ?」と誰だか気づかなかったようであったという[20]。真下に後日その時の事を話していたところ、覚えてなかったという[20]。
『沙羅曼蛇』の音楽制作のキングレコードに所属していたプロデューサーの大月俊倫と話していた時、「『沙羅曼陀』の試写の後、斯波さんと電話で話したんだよ。お前のことを誉めててさ。こいつはいつか使えると思ったんだ」と言っていたという[7]。
その半年後に来たオーディションで抜擢されたOVA『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』のバーナード・ワイズマン〈バーニィ〉役を演じていたが、その時は「ガンダムってなんですか?」と聞き、プロデューサーをがっかりさせてしまったという[7][14]。作品名は知ってたが、テレビの『ガンダム』も全然見ておらず、俳優志願だったことからアニメはアルバイトぐらいの感覚であった[7]。その時はメチャクチャ生意気で『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』で初めて共演した林原めぐみも、「新人なのにすっごく偉そうにしてた!」と言っていた[7]。バーナード・ワイズマン〈バーニィ〉役はその当時の辻谷の想いと重なるところもあり、役作りには燃えて、画の口パクに合わせるのがやっとだったことから、セリフは全部覚え、自宅近くの多摩川で声を出し、動きながら芝居の練習をしていた[7]。
当時、『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』のビデオパッケージだったかポスターの画を描いたのが漫画家の高田裕三で、その依頼に関わったのが大月であった[7]。高田の漫画『3×3 EYES』のCDドラマ制作の際に大月と高田がキャスト選考し、その時に『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』のメインキャラクターを演じていた林原と辻谷のコンビを起用したという[7]。
1991年公開の映画『機動戦士ガンダムF91』の主人公・シーブック・アノー以来、多くの分野で主要な役柄を演じるようになる。舞台活動も行っていた。
『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』に出演していたことから『機動戦士ガンダムF91』の出演はオーディションでは無く、指名で決まった[2]。シーブック役は、少年隊だった錦織一清が演じることにほぼ決まっていた[7]。しかし急遽白紙になり、後に候補に上がっていた緒形直人の当時所属していた事務所が「声優出演はまだ考えてない」ということでキャスティングは暗礁に乗り上げ、制作は進行していたが、主役が決まらない事態となっていた[7]。その後、製作者サイドのミーティングで出てきた名前が辻谷であり、ここでも推したのは大月であったという[7]。
1993年に、『無責任艦長タイラー』で、主人公のジャスティ・ウエキ・タイラーを演じたことが声優としての最初の転機となる[19]。その頃に所属していた劇団が解散することになり、舞台俳優の仕事をしながら声の仕事をするというスタンスを取っていたが、将来に悩み宮崎県出身の女性[21]と結婚し子供もいたので役者稼業を辞めて、普通の会社に就職しようか考えていた[19]。その時、演じていたタイラーがアニメキャラのファン投票人気ランキングで1位となったので辞めるわけにもいかなくなり、10年は舞台の仕事は中断して声優の仕事に専念しようと決意[19]。シグマ・セブンに所属する[19]。
音響監督として
2001年から音響演出の勉強を始めて、2003年放送のテレビアニメ『ダイバージェンス・イヴ』以降、音響監督業も務める[4][22]。音響監督をするようになった最初のきっかけは、ものを作りたいという欲があり、このシステムが家にあったら、芝居ができる人物は周囲にたくさんおり、作曲ができる人物もおり、「ドラマCDみたいなものだったら自分たちで自由に作れるな」と思い、Pro Toolsのプライベート・スタジオ用の廉価版を買った[22]。しかし取扱説明書(英語)を見てもよく分からず、仲良かったミキサーを家に連れてきて、使いかたを教えてくれていた[22]。その時、「辻谷がPro Toolsを買って勉強しているらしい」という話が広がってしまい、「なら音響監督をやってみない?」と誘われた[22]。辻谷は「やってみない?」と言われたら、挑戦してしまう性格のため、そんな経緯で始めたという[22]。辻谷としては、「今後も音響監督の仕事を続けていこう」という意識はまったくなかった[22]。しかし『ダイバージェンス・イヴ』の各話演出を担当していた山口祐司が、『ヤミと帽子と本の旅人』で監督をすることになったため、音響監督をお願い出来るように声をかけてくれて、立て続けに担当することになった[22]。音響監督についても声優になった経緯と一緒で、いつの間にかその道に入っていたという感じで、このことは、不思議なもだと語っていた[22]。劇団在籍当時から、演出を担当することもあったため、音響監督としての作業に違和感は全くなかったという[22]。
晩年
以前、所属していたdeux-plusが運営していた演劇ワークショップで、2009年から声優ワークショップを開催したり[23][24][25]、2011年7月には主役声優育成塾を開講したりと[26][27]特別講師としても活動[28]。
2011年の第36回ホリプロタレントスカウトキャラバン次世代声優アーティストオーディションでは審査員&演技指導を担当し、その後は約1年に渡り、ホリプロの新人声優の育成に携わっていた[29][30]。
2012年7月、渡辺久美子が辻谷との入籍を発表した[12]。
2013年6月、生涯に渡り、広く芸能の世界に寄与できる人材の育成を目標に、辻谷自身を主宰とした新規声優養成所「キラ エンタテインメントカレッジ」を設立して代表・演技講師を務めていた[29][31][32][33][34]。同年に声優事務所「キラ エンタテインメント」も設立して2016年2月29日まで代表取締役を務めていた[32][34][35][36]。
演劇ワークショップ時代から2012年4月に開講した「辻谷塾」を運営していた[34][37][38][39][40][41][42]。
その後も定期的にワークショップを開催していた[43][44]。
急死
2018年10月17日に自宅で突然倒れ、そのまま同日に脳梗塞によって死去した[8]。56歳没[8]。晩年は声優業と並行してテレビアニメ『グラゼニ』で音響監督を務めたほか、立木文彦と「立木文彦とBLUSEED」を結成して死去3日前の同年10月14日に結成記念ライブを行うなど、声優業以外のさまざまな仕事を本格的かつ精力的に行っていた矢先の急逝であった[8]。葬儀と告別式は近親者のみで営まれた[8]。
死去を受け、当時に第2期が放送中だった『グラゼニ』では公式Twitterにて追悼コメントを発表し[45]、浅井長政役で出演していたテレビアニメ『学園BASARA』では公式Twitterと公式サイトにて追悼コメントを発表した[46][47]。また、同作の音響監督を務める岩浪美和は、辻谷の出演部分は最終話まで収録済みであることを明かしている[48]。同年10月24日にはお父さん役として出演していた『うちの3姉妹』の原作者・松本ぷりっつも、自身のTwitterにて追悼コメントを発表した[49]。『機動戦士ガンダムF91』の主題歌「ETERNAL WIND〜ほほえみは光る風の中〜」を務めた森口博子も10月23日に自身のTwitterにて追悼コメントを発表し[50]、前日に森口が他の出演者たちと共に辻谷の死去をまだ知らないまま同曲を歌う模様が放送された『Anison Days』の同年12月10日放送分[51]の終了時には、森口からの追悼テロップが表示された。
ORICON NEWSによれば、ファンからはバーナード・ワイズマン(バーニィ)役で出演していたOVA『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』第5話のサブタイトル「嘘だといってよ、バーニィ」を引用し、別れを惜しむ声が挙がったという[52]。
2019年5月14日には、スマートフォン用アプリ『戦国BASARA バトルパーティー』のプレゼントキャンペーンにて、生前に提供していたサイン色紙が公開された[53]。
人物
中学時代は不良だったという[4][注 3]。高校時代は3年間もクラス委員をしていた[4]。
安元洋貴は辻谷のことを恩師と語り、安元が『BLEACH』の茶渡泰虎役を獲得したのは、辻谷がマネージャーに言った「安元は面白いよ。アニメに使ってみなよ」という後押しでオーディションを受けたのがきっかけである[56]。
父は以前は詩人志望で趣味で文芸同人誌を出していた公務員であり、母は美術関係の学校出身である[14]。元妻との間に子供がいた[13]。
特色
どこかしら頼りないところのあるキャラクターを演じていた[57]。また声質は若いため、若い役が多かったが、辻谷本人の希望としては中年役を演じたかったという[17]。
「原作のイメージより、実際に作られた脚本や絵で対応した方が良いのでは」と思っていたことから、スタイルとしてあまり原作を読まないようにしていた[16]。
様々な役を演じてきたが、特に意識して演じ分けをしているわけではなく、台本を読んだりキャラの絵を見たりしてイメージを作って、そのキャラと自分の中にある共通点を探して演じていた[19]。例えば悪役を演じるなら、嫉妬心や他人を憎いと思う心、怒りなどの中から、役に通じた部分を持ち出して演じていた[19]。しかし、どうしても共通点が見つからない時もあったという[19]。
出演作について
『ガンダム』は無知だったが、『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』のバーナード・ワイズマン役と『機動戦士ガンダムF91』のシーブック・アノー役を演じるにあたり、レンタルビデオ店に行き、劇場版『機動戦士ガンダム』と『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』を借りてきたが、よく分からなかった[19]。後で聞いたところ、『逆襲のシャア』は十数年後の設定で、話が繋がっておらず、台本から読み取れることをそのまま演じることしかできず、世界観などはまったく考えられなかった[19]。ゲーム『SDガンダム GGENERATION-F』ではキンケドゥ・ナウ役も演じていたが、その収録でも少し行き違いがあった[19]。台本から読み取れるキンケドゥ・ナウを演じていたつもりであったが、役のニュアンスについて何度もダメ出しが来て、「なにかおかしいな」と思いながらも言われたとおりに演じていた[19]。その時にキンケドゥ・ナウが、シーブック・アノーの10年後の姿で、偽名と言われ、初めて、今までのダメ出しの意味がようやく分かり、スタッフ側は当然知っているものと思っていたようであった[19]。しかしその時は無知で、「その設定を予め知っていれば、もっと違う読み込み方ができたんじゃないか」と語る[19]。
『無責任艦長タイラー』の出演までは繊細な役柄が多く、『無責任艦長タイラー』のジャスティ・ウエキ・タイラー役のようなおちゃらけた役柄は得意なタイプではないため、自分の中に共通点が見つからなかった[19][58]。タイラーの三枚目的な部分を出すのにはかなり苦労していたが、タイラーは植木等をモデルに作られたキャラということで、植木本人の笑い方や間の取りかたを自分に取り入れていった[19][58]。あくまで自分のイメージだが、台本を見て「植木さんだったらどう喋るだろう」と想像して作っていった[19]。しかしセリフを喋っていても気持ち悪くなるため、タイラーのセリフが自分の中から自然に出てくるようにしなくてはならなかったという[19]。
『犬夜叉』の弥勒役は、他者からの推薦によるもので、辻谷自身はオーディションには参加していなかった[58]。弥勒を演じていた時も、自分の中から自然にセリフが出てくるまでは、色々と試行錯誤していた[19]。弥勒は「エロ法師」といわれていが、「この人は普段はどういう風に過ごしているんだろう」と考え、アフレコ現場では「とにかく女性を褒めよう」と思った[19]。普段はそういうことはしなかったが、「常にしていたら弥勒のセリフが自然に出てくるんじゃないか」と思い、「今日の服はかわいいね」、「髪の毛切ったんだ、似合うね」という感じで、細かいポイントを探しては声をかけまくっていたという[19]。『犬夜叉』の時は長丁場になりそうなため、一応原作を読んだ上で、それぞれの構想を客観的に把握して、「作り上げるのが望ましいかな‥」と思いながら読んでいたという[16]。
「トイ・ストーリーシリーズ」では、ウッディ・プライド役を本編外の予告編と東京ディズニーリゾートのアトラクション、スピンオフなどの関連作品にて演じていた。
趣味・嗜好
趣味はフライフィッシング、ゴルフ、映画鑑賞、Scotch、スケボー[5]。特技は家事全般、料理、一輪車、トランプ&コイン手品[5]。
資格・ライセンスは普通自動車免許、自動二輪免許、衛生管理士[5]。
右利き[59]。
座右の銘は「行きあたりバッタリ‼︎」[5]。
後任
辻谷の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
出演
太字はメインキャラクター。
テレビアニメ
- 1987年
-
- 1988年
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- 1989年
-
- 1990年
-
- 1991年
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- 1992年
-
- 1993年
-
- 1994年
-
- 1995年
-
- 1996年
-
- 1997年
-
- 1998年
-
- 1999年
-
- 2000年
-
- 2001年
-
- 2002年
-
- 2003年
-
- 2004年
-
- 2005年
-
- 2006年
-
- 2007年
-
- 2008年
-
- 2009年
-
- 2010年
-
- 2012年
-
- 2013年
-
- 2018年
-
劇場アニメ
- 1987年
-
- 1989年
-
- 1990年
-
- 1991年
-
- 2000年
-
- 2001年
-
- 2011年
-
- 2012年
-
- 2014年
-
- 2017年
-
OVA
- 1986年
-
- 1988年
-
- 1989年
-
- 1990年
-
- 1991年
-
- 1992年
-
- 1993年
-
- 1994年
-
- 1995年
-
- 1996年
-
- 1997年
-
- 1998年
-
- 1999年
-
- 2004年
-
- 2005年
-
- 2006年
-
- ストラトス・フォー アドヴァンス 完結編(岩崎和馬)
- 2007年
-
- 2008年
-
ゲーム
2019年以降の出演作品は、生前の収録音声を使用したライブラリ出演。
- 1992年
-
- 1993年
-
- 1994年
-
- 1995年
-
- 1996年
-
- 1997年
-
- 1998年
-
- 1999年
-
- 2000年
-
- 2001年
-
- 2002年
-
- 2003年
-
- 2004年
-
- 2005年
-
- 2006年
-
- 2007年
-
- 2008年
-
- 2009年
-
- 2010年
-
- 2012年
-
- Kinect ラッシュ: ディズニー/ピクサー アドベンチャー(ウッディ)
- 2013年
-
- 2014年
-
- 2015年
-
- 2017年
-
- 2018年
-
- 2019年
-
- 2021年
-
- 2022年
-
- 2023年
-
- 時期未定
-
- 時の冒険者 The true translation「紅き閃光の黙示録」(シモン・フェルナンデス)
吹き替え
映画(吹き替え)
ドラマ
- 宮 -Love in Palace-(現皇帝〈イ・ヒョン〉)
- 名探偵ポワロ ※NHK版
- 「クラブのキング」(ロニー・オグランダー)
- 「あなたの庭はどんな庭?」(ニコライ)
- 「なぞの遺言書」(ロバート・シダウェイ)
- 「ヒッコリー・ロードの殺人」(レナード・ベイトソン)
- その他「ベールをかけた女」・「コーンワルの毒殺事件」
アニメ
映画
ナレーション
CD
ドラマCD・キャラクターソング
BLCD
- 間の契(ガイ)
- お金シリーズ
- お金シリーズ3 可愛げないっ(久芳操)
- お金シリーズ4 お金じゃ買えないっ(久芳誉)
- 神様はイジワルじゃない(星野友哉)
- こいきな男らシリーズ(瀬尾瑞紀)
- 星陵最恐物語(早川寛崇)
- タクミくん シリーズ(赤池章三)
- 1 FAREWELL
- 2 CANON
- 3 恋文
- 4 Shincerely
- 5 春風にささやいて
- 6 June Pride〜6月の自尊心〜
- ツーリング・エクスプレス シリーズ
- 透&貴文シリーズ(東城貴文)
- 大人と子供の境界線
- 好きと嫌いの境界線
- 日常(ふつう)と特別の境界線
- パールシリーズ(松宮友明)
- よくばりなパール
- わがままなパール
- きまぐれなパール
- 炎の蜃気楼 断章 最愛のあなたへ(直江信綱〈橘義明〉)
その他CD
舞台
- ブロンクスはどこだ(劇団東演)
- フィラデルフィアへやってきた(劇団東演)
- 翔べ! イカロスの翼(劇団東演)
- その男顔のない(劇団一跡二跳:客演)
- 平面になる(劇団一跡二跳:客演)
- アラブ・イスラエル・クック・ブック(劇団一跡二跳:客演)
- 貴婦人の帰還(ガイアデイズファンクションバンド:客演)
その他
音響監督
- 2003年
-
- 2004年
-
- 2006年
-
- 2007年
-
- 2010年
-
- 2011年
-
- 2012年
-
- 2013年
-
- 2014年
-
- 2015年
-
- 2016年
-
- 2017年
-
- 2018年
-
論文
脚注
注釈
- ^ 親に「歴史を耕す」という意味合いで名付けられたという[2][3]。耕史を(やすふみ)と正確に読めた人物は中学時代の国語の教師ただ1人だけで、皆「こうじ」または「こうし」と読んでしまったという[2]。
- ^ この芸名はアルバイトをしていた飲食関係の店では「姓」ではなく「名」で皆を呼び合うという慣例があり、「(やすふみ)は言いづらいから(こうじ)にしよう!」ということになった[2]。3年間毎日アルバイトで「耕史(こうじ)」と言われているうちに慣れてしまったことや、今後も正確に「耕史(やすふみ)」と読む人は少なく、一々訂正することも何だからと「耕史(こうじ)」にしたという[2]。
- ^ その時は4人の仲間がいたという[54]。更生のキッカケは夏祭りの日の神社で隣町の中学校の「番長」と称する男性に呼び止められて「お前、2年坊のくせに生意気らしいな!」と頬を殴られた[55]。数日後、仕返しに仲間達と出かけて、その男性を袋叩きにした[55]。翌日の放課後、3年生の先輩が呼びにきて、「何か様子がおかしい」と後をついていくと、「お前もこれでオシマイだな…」などと訳のわからないことを言っていた[55]。5分ほど歩いた公園には20人ほどの不良たちが集まり、噂を聞きつけ仲間たちも駆けつけるも、ボコボコに殴られているところに中華料理屋の出前が通り、警察に通報されてお縄を頂戴された[55]。翌朝の学校はその話で持ちきり、辻谷たちは生活指導の教師に取り調べを受けた上、一週間職員室の前に立たされてしまった[55]。授業の休み時間になると目線を合わせようとせず、小走りに走り去っていく女性教師、ただ鼻で笑い、軽蔑したような眼差しを向ける教師、説教をたれながらもビビり足の震えている若い新任の教師など色々な教師が辻谷たちの前を通りすぎていた[55]。しかし担任の教師は休み時間の度に辻谷の前に現れ、 色々ことを話していた[55]。何を話したかは覚えてなかったが、「俺はお前を信じている」と言って去っていったという[55]。その後「期待を裏切ってはいけない」と思い、自分も根っからの不良ではなかったと感じたという[55]。その年の秋、当時の辻谷の素行に呆れていた父は家族の引越しを決意していたが、辻谷の中に更生の心は既に芽生えていたという[55]。2001年時点では、その教師は元々専門の陶芸であり、随分前に教師をやめ、窯を作り地元で陶芸教室を開いていたという[55]。2001年時点もこの教師のことをすばらしい教師であったと思っていたという[55]。
- ^ 藤原はテレビシリーズではデューイの弟であるホランド・ノヴァク役を演じていた(「ハイエボリューション」では藤原の休業のため、ホランド役は森川智之に交代していた)。藤原も2020年4月12日に死去し、続編の『EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』では山寺宏一に引き継がれた[61]。
- ^ 辻谷の死後、しばらくの間は映画本編と同じく唐沢寿明が予告編、テレビCMも担当。スマートフォンゲームアプリ『トイ・ストーリードロップ』から松本が後任となった。
- ^ クレジットではでは辻󠄀谷耕司と誤表記。
シリーズ一覧
- ^ 『GGENERATION』(1998年)、『ZERO』(1999年)、『F』(2000年)、『F.I.F』(2001年)、『NEO』(2002年)、『SEED』(2004年)、『PORTABLE』(2006年)、『SPIRITS』(2007年)、『WARS』(2009年)、『WORLD』『3D』(2011年)、『OVER WORLD』(2012年)、『GENESIS』(2016年)、
- ^ 『エクストリームバーサス』(2010年)、『フルブースト』(2012年)、『マキシブースト』(2014年)、『フォース』(2015年)、『マキシブースト ON』(2016年)
- ^ 『エクストリームバーサス2』(2018年)、『クロスブースト』(2021年)、『オーバーブースト』(2023年)
出典
外部リンク