『越前竹人形』(えちぜんたけにんぎょう)は、1963年(昭和38年)に発表された水上勉の小説。同年に映画化、翌年に舞台化され、その後ドラマ化された。
この作品をきっかけに生まれた同名の郷土玩具「越前竹人形」は、1994年に福井県の郷土工芸品に指定された。(後節参照)
主人公喜助の父、氏家喜左衛門のモデルは著者水上の父親[1]と告白している。大工職人だった水上の父は、仕事の合間に煤竹を使って鳥籠や尺八を家で細工していて、子供の頃それらの作業を飽きずに眺めていた[1]という。
また、喜左衛門の恋人・玉枝についても多少のモデルがあり、水上が21歳当時通った小浜市三丁町の遊女が、水上の父のことを知っていた思い出を玉枝に重ねて人物を創造してみた[2]と話す。
越前や若狭の村々には、農閑期の手職として竹細工を楽しむ人がいくらでもいたが[3]、この小説執筆当時、越前に今のような竹人形はなく、水上が当地で目にしたものも、どこかの応接間に飾られていた媼翁の置人形(尾崎欽一作)くらいだった[4]。髪は染めた糸だったが、胴体と足に竹を用い、袂にふくらみをもたせた衣は、竹の皮の紋様を使うなどして巧みに表現されていた[4]。その後、東京に戻ってから、置人形とは別の太夫人形や雪人形を空想した水上は[5]、竹を使ってどうにか人形ができないかと考え[2]、竹工関係の古書に当ってみたところ、あらゆる竹工芸が紹介された冊子にも人形の記載だけがなかった[2]。そこで、花籠・笛・鳥籠の製作工程を読みながら、父親の作業ぶりを思い出し、頭の中で「竹人形」を案出した[2]、と述べている。「勝手な空想だから、文章の上で、その製品のしあがりを、読者にたんのうして貰えばいい、と信じたのである。」(水上)[2]。
小説『越前竹人形』が芝居や映画になって以降、郷里の越前では小説に登場する姿の竹人形が出回るようになった[2]。「それまで、そう有名でもなかった細工師たちが、競って竹人形を発表した」(水上)[2]のである。先述した尾崎欽一が、まず精巧な作品を次々と発表して「越前竹人形」はさらに知名度を上げ、福井県下のホテルや土産物店に並ぶようになった[6]。水上が指摘するところでは、それらはみな、小説に登場する「玉枝人形であった」(水上)[7]という。
その後、当地で多産されるようになった竹人形は、「越前竹人形」の名称で福井県の郷土工芸品に指定された。(後節参照)
連載(三回)完結後、吉田健一(英文学者)が読売新聞紙上にて賞讃した[8]。
次いで、若い人の作品をめったに読まないという作家の谷崎潤一郎が[9]、「越前竹人形を読む」と題する長い文章を1963年9月12日から毎日新聞紙上で三回にわたって発表した[8]。「私は近頃これほど深い興味を以て読み終つたものはなかつた」[9]、「深沢七郎君の「楢山節考」を読んで以来の感激…」[10]、「西洋臭いところがなく、純然たる日本の田舎の世界である」、「筋に少しの無理がなく自然に運ばれてゐるのもいゝ。玉枝を竹の精に喩へてあるせゐか、何の関係もない竹取物語の世界までが連想に浮んで来るのである」などの感想が寄せられた[10][11]。これに対し水上は「原稿十枚以上もの過褒のことばは身に染みてありがたかった」、「大きな勲章をもらったような気がした」と恐縮している。ただ、この寄稿の中で谷崎は、物語の眼目となっている終盤の二章にいくつかの注文を付け[12]、宇治川での出来事からあとの章は「省略した方が余韻がありはしないだろうか」などと問うており、後年水上は「なるほどと思った」「小説の芸を考える上で大きな教訓となった」[8]と当時の心境を綴っている。
1963年10月5日公開。大映(現・角川映画)製作・配給。
1964年に日本テレビで毎週月曜日 - 金曜日7:30 - 7:40(JST)枠にて放送された。
1973年1月4日 - 2月23日にTBS「花王 愛の劇場」枠にて放送された。
越前竹人形(えちぜんたけにんぎょう)は、福井県の郷土玩具[13]にして、県指定の郷土工芸品[14]。おもな産地は福井市(1994年指定)、坂井市丸岡町(1994年指定)、あわら市(2018年指定)[14]。
福井県は郷土玩具が少ない[15]、あるいは郷土玩具不毛の地とされてきたが[13]、その隙間を縫って登場したのが越前竹人形である[13]。水上勉の小説『越前竹人形』にヒントを得た新しい郷土玩具で[13]、能楽や歌舞伎などに題材を取り、勧進帳や虚無僧などがある[13]。衣服・胴体・髪など人形のすべての部位が竹や竹の皮の素材を活かして作られている[13]。
ひそかに竹人形に熱中してきた人物が尾崎欽一で[16]、竹の美点をいかして巧緻な独自の人形を完成させた[16]。それまで、媼翁の能人形や嫁おどしの般若の面を使った竹人形などを作っていたが、小説『越前竹人形』が発表されて以降は遊女をモデルとした太夫人形を作り始めた[16]。東京芸術座で舞台『越前竹人形』が上演された際に初めて上京し、自身の太夫人形を世に問うて絶賛された[16]。その後に越前地方のドライブインやホテルで売られた越前竹人形は、みな尾崎の作品の「イミテーション」(水上)[17]とも評された。現在は子息が工房を継いでいる[18]。
昭和20年代、師田保隆・三四郎兄弟は竹籠・花器を作った際の廃材を再利用し、遊び心で人形を作り始めた。1955年の富山博覧会への出展をきっかけに、それまでの竹籠作りを止め、人形を中心に製作し現在に至る[19]。
2007年、坂井市及びその周辺地域で作ったものが地域団体商標として登録された[20][19]。坂井市丸岡町の越前竹人形の里で展示・販売されている[21]。
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