河津 清三郎(かわづ せいざぶろう[1][注釈 1]、1908年〈明治41年〉8月30日[1][注釈 2] - 1983年〈昭和58年〉[1]2月20日[3])は、日本の俳優である。本名中島 誠一(なかじま せいいち)、旧芸名河津 精一(かわづ せいいち)、河津 史郎(かわづ しろう)[4]。
阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画で映画デビューし、マキノ・プロダクション移籍後は沢村國太郎に次ぐ若手時代劇スターとなった[5]。その後、新興キネマに入社して男優の看板スターとして多くの作品に主演し、戦後は個性派の脇役として活躍した[6][4]。主な出演作品に『首の座』『次郎長三国志』シリーズ、『用心棒』など。妻は女優の高津慶子[6]。
1908年(明治41年)8月31日、東京府東京市[1]日本橋区蠣殻町に生まれる[6]。浜町で待合を営んでいた父・嘉一と母・はまの養子である[6]。
東華小学校を卒業後、正則英語学校に入学。俳優を志すが養父母に反対されて家出をし、地方巡業の一座に入る[6]。その後、吉野二郎を知って連鎖劇に出演したのち新派の村田正雄の門下となる[6]。1925年(大正14年)6月、村田が亡くなったため剣劇の明石潮一座に加入[6]。翌1926年(大正15年)5月に太秦の阪東妻三郎プロダクションに入社、同年9月に阪妻プロは阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画として新発足し、その現代劇部に所属する[6]。河津精一を芸名とし、1927年(昭和2年)に同社第3作の『青蛾』で映画デビュー。『雲雀』『勤王と血』などに出演するが、同年5月に阪妻プロがユニヴァーサル社と提携を解消し現代劇部は解散、そのため1928年(昭和3年)に発足間もない河合映画製作社に同社撮影所次長の沼井春信に招かれて入社する[6]。このとき芸名も河津史郎に改名し、『黒髪草紙』『運命流転』などに出演する[5][6]。
同年6月、川浪良太の仲介でマキノ・プロダクションに入社、河津清三郎と改名する[6]。マキノ・プロは前月に片岡千恵蔵、嵐寛寿郎ら筆頭スターが相次いで脱退し、その補強に大わらわであった[5]。同社での第1回主演作は稲葉蛟児監督の『傴僂の兄貴』で、続いて『旗本五人男』などに出演して主演スターの地位を確保した[5]。さらにマキノ正博監督の『浪人街 第一話 美しき獲物』『首の座』で大役に起用され、後者では殺人事件の犯人にされながらも無実で罪が晴れるのを待ち続け、ついには冷酷な官憲に処刑される不幸な庶民を演じてスターの座を確立、作品もキネマ旬報ベスト・テン第1位に選ばれた[6]。
1930年(昭和5年)9月、帝国キネマ時代劇部へ転じ、『赤垣源蔵』『地雷火組』など多くの時代劇に主演[6]。1931年(昭和6年)8月に帝キネが新興キネマと改組されてからも『三人の相馬大作』『元禄奴太平記』のほか、『青島から来た女』『十二階下の少年達』などの現代劇にも出演する。やがて新興キネマに岡田時彦、高田稔、小杉勇、月形龍之介らのスター俳優が相次いで入社すると主演作が極端に減るが、1935年(昭和10年)に現代劇部が太秦から東京撮影所に移転すると筆頭俳優として参加し、高田稔に次ぐ新興キネマの現代劇スターとなる[5][6]。1937年(昭和12年)に高田がP.C.L.へ移ってからは男優陣の一枚看板となり、看板女優の山路ふみ子とのコンビで溝口健二監督の『愛怨峡』『あゝ故郷』などに主演する[6]。
1940年(昭和15年)、現代劇の革新を叫んで菅井一郎、清水将夫、田中春男らと新興キネマを退社して第一協団を結成、フリーランサーとして南旺映画の『南風交響楽』や松竹の『元禄忠臣蔵 後篇』などに出演する[6][7]。1942年(昭和17年)、第一協団ごと東宝映画と契約を結び、『南海の花束』『翼の凱歌』などに重要な役どころで出演[6]。この間に4か月間軍務につく[6]。
戦後は1948年(昭和23年)に菅井、藤原釜足らと第一協団を再結成し、フリーとして各社の作品に出演する[6][8]。佐分利信監督の『執行猶予』、吉村公三郎監督の『偽れる盛装』、黒澤明監督の『用心棒』など、戦後の出演作のほとんどは助演だが、マキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズでは主役格の大政役で全シリーズに登場、東映の『魚河岸の石松』では石松役で主演してその滑稽な演技で好評を受け、河津主演で計6本のシリーズが作られた[1]。1954年(昭和29年)には製作再開した日活に男優陣の筆頭俳優として迎えられ[5]、『志津野一平』シリーズに主演した。50年代後半からは脇役へとシフト。娯楽映画への出演も多く、岡本喜八監督の『暗黒街』シリーズ、東映任侠映画、テレビの時代劇・刑事ドラマでは黒幕的な巨悪や敵対するヤクザ組織の大親分など、大物悪役として存在感を見せた[1]。特撮映画では、政府関係者の役も多い[2]。
1983年(昭和58年)2月20日午前11時55分、喉頭癌のため入院先の東京医科大学病院で死去[9]74歳没[10]。
阪東妻三郎プロダクションには「三羽がらす」とか「四天王」、「十剣士」などと呼ばれた「からみ役」がおり、河津は妻三郎のからみの中で最も多く用いられた一人だった[11]。
1929年(昭和4年)の『首の座』では、なかなか役の感じがつかめず苦しんでいた。立ち回りは素晴らしくうまかったのだが、演技的芝居をつけるとどうしていいか分からなくなるらしかった。「恋人が激しく止めたのに自殺してしまい、途方に暮れる」という場面だったが、マキノ正博監督の「芝居するな」との指示にもかかわらず、力んでしまってどうにもならない。前に仕出しが入ったところで、河津がぐっと息を詰めるので、マキノ監督が「違う! 気張るな!」と怒鳴った途端、緊張した河津は一発、屁をしてしまった。「役を下ろされる」と思った河津は「あァ……」とマキノ曰く「何んとも情けない、阿呆みたいな顔」をしたのだが、三木稔はこの機を逃さずキャメラを回し続け、河津のこの表情をすっかり撮影してしまい、さっさと次のセットに移っていった。このとき、屁の音は聞こえていたがスタッフは一所懸命で誰も笑わず、「うまいこと芝居しよんな」と思ったくらいだった。が、河津はマキノと三木を追いかけ、屁を詫びながら撮り直しを頼んできた。マキノ監督が「阿呆んだれ! お前、もういっぺん屁出るか、よし出たとてあんないい芝居出来へんて! よかったなァ、おおきに、おおきに」とねぎらうと、呆然とした後河津は泣き出してしまった。あとで三木キャメラマンはマキノ監督に「大きい屁こきやがってなァ。屁ェこいたらええ芝居になったちゅうのは、ちょっと珍しい役者やで」と感心していた。河津は後年までこれを憶えていて、マキノと「あんたみたいに意地の悪い恰好のつかん監督はなかった」、「いや、そやない、お前ほど下手な役者はないで、屁ェこいたら芝居が出来た。けったいな屁みたいな役者やったぜ!」と、互いに冗談めかした会話を交わしている。完成後、この映画で河津は、「演技賞もんだ」と高く評価され、その後大スタアとなったのである[12]。
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