水原 浩一(みずはら こういち、1909年4月1日 - 1969年5月7日)は、日本の俳優である[1][2][3][4]。出生名岩水 剣二(いわみ けんじ)、のちに本名を土肥 剣二(どい けんじ)とした[1][2][4]。旧芸名水原 洋一(みずはら よういち)のほか、名乗った芸名が多数である[1][2][3][4]。⇒ #芸名
人物・来歴
1909年(明治42年)4月1日、広島県呉市に生まれる[1][2][4]。
長じて東京に移り、1924年(大正13年)12月、数え16歳(満15歳)で澤田正二郎らの新国劇に参加して剣劇(剣戟舞台)を始め、「土肥 了平」の名で舞台に立つ[1][2]。1926年(大正15年)には、高松豊次郎のタカマツ・アズマプロダクションに入社、「土肥 一成」の名で映画界にデビュー、河原侃二や草間実の主演映画に助演する[1][2][3]。翌1927年(昭和2年)には河原侃二とともに松竹蒲田撮影所に移籍している[1][5]。
京都に移ってマキノ・プロダクションを経て1927年(昭和2年)7月、同年に甲陽撮影所を閉鎖して等持院の京都撮影所(所長小笹正人)を製作拠点とした東亜キネマに移籍、「土肥 了治」と改名する[1][2][3]。この時期、同社の経営から八千代生命が撤退し高村正次が撮影所長に就任、1931年(昭和6年)4月15日に公開された現代劇『都会を縫ふ針』で歌川絹枝、岡田静江の相手役に抜擢されたのを機に「水原 洋一」と改名する[1][2][3]。同年9月、同撮影所は東活映画等持院撮影所(所長安倍辰五郎)となって高村が退陣、水原は高村が直木三十五と設立した大衆文芸映画社に移籍し、翌1932年(昭和7年)3月10日に新興キネマが配給して公開された『遙かなる風』に助演している[3]。同年11月、東活映画社の急速な崩壊・解散を受けて、マキノ・プロダクション跡地である御室撮影所に高村が設立した宝塚キネマ興行に移籍した[1][3]。翌年の1933年(昭和8年)正月に封切られた『涙の天使』を初めとして、同社では主演俳優として活躍したが、同社も同年末には解散している[1][3]。1934年(昭和9年)6月に御室撮影所に田中伊助が設立したエトナ映画社に参加、主力俳優となったが、同社も設立半年後の1935年(昭和10年)4月には解散した[1][3][6]。同撮影所は引き続き、同年2月に設立された極東映画が使用し、水原は同社に入社、同社でのみ「水原 宏二」を名乗り、羅門光三郎が主演するサイレントの剣戟映画に助演する[7]。
同年12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)にマキノ正博が新しく撮影所を建設・設立したマキノトーキー製作所に、翌1936年(昭和11年)に第二期入社で参加する[1][3][8]。当初、「水原 洋一」あるいは「水原 庸一」と名乗っていたが[9][10]、「水原 蛟一郎」と改名して定着する[1][3]。同社は1937年(昭和12年)4月に解散し、マキノ正博、澤村國太郎、光岡龍三郎、同期の田村邦男、團徳麿、志村喬、大倉千代子、大久保清子らとともに、日活京都撮影所に移籍した[1][3][8]。
1938年(昭和13年)には日活を退社、満29歳になる同年4月にはに東京に戻って大都映画に移籍、芸名を「水原 洋一」に戻して現代劇を中心としたスター俳優となった[1][2][3]。1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、大都映画は合併して撮影所は閉鎖されたが、水原は同社に継続入社する[1][2][3]。
満34歳で第二次世界大戦の終戦を迎え、戦後も引き続き、大映京都撮影所(かつての日活京都撮影所)に所属し、時代劇の脇役を務めた[1][2][3][4]。一時は「映画界の暴れん坊」の異名をもち逸話の多い人物であったが、戦後は円熟味を得て温厚な人物として信頼を受けた[1]。『日本映画俳優全集・男優編』には1955年(昭和30年)7月12日に公開された『銭形平次捕物控 どくろ駕籠』をもって「水原 浩一」と改名、とあるが[1]、同年6月25日に公開された『踊り子行状記』のほうが公開日が早い[3]。大映東京撮影所が製作し、1967年(昭和43年)7月15日に公開された『女賭博師』(監督弓削太郎)に始まる同シリーズでは、任侠の世界に詳しかった水原が、指導にあたっている[1]。
1969年(昭和44年)5月7日、肝臓がんのため京都市右京区桂(現在の同市西京区桂)の京都桂病院で死去した[1][2]。満60歳没。
芸名
- 岩水 剣二 (いわみ けんじ) - 出生名
- 土肥 剣二 (どい けんじ) - のちの本名
フィルモグラフィ
すべてクレジットは「出演」である[3][4]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[11][12]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。
タカマツ・アズマプロダクション
すべて製作・配給は「タカマツ・アズマプロダクション」である[3]。すべて「土肥一成」名義[3]。
- 『銅銭会事変』 : 監督横田豊秋(宇留木浩)、1926年7月1日公開 - 紫組丹左衛門
- 『黄門漫遊記』 : 監督高松操、1926年10月3日公開 - 関守市川重内
- 『流転地獄』 : 監督高松操、1926年製作・公開 - まむしの仁三
- 『愛染手網 前後篇』 : 監督高松操、1927年製作・公開 - 槇田兵衛(友人)
- 『辻切縦横組』 : 監督荒川清、1927年3月25日公開 - 目明し伝吉
東亜キネマ京都撮影所
すべて製作は「東亜キネマ京都撮影所」、配給は「東亜キネマ」である[3]。特筆以外すべて「土肥了治」名義[3]。
宝塚キネマ興行
特筆以外すべて製作・配給は「宝塚キネマ興行」である[3]。すべて「水原洋一」名義[3]。
極東映画
すべて製作・配給は「極東映画」である[7]。すべて「水原宏二」名義[7]。
マキノトーキー製作所
初期の特筆以外すべて製作・配給は「マキノトーキー製作所」である[3][14]。特筆以外すべて「水原蛟一郎」名義[3]。
日活京都撮影所
すべて製作は「日活京都撮影所」、配給は「日活」である[3][16]。特筆以外すべて「水原洋一」名義[3]。
- 『薫風一騎』 : 監督菅沼完二、「水原蛟一郎」名義、1937年7月8日公開 - 侍・宮金次郎
- 『女賊変化』 : 監督倉谷勇、1937年10月7日公開 - 番頭・忠助
- 『水戸黄門廻国記』 : 監督池田富保、1937年10月14日公開 - 甚兵衛
- 『国定忠治』 : 監督マキノ正博、1937年10月18日公開 - 常吉
- 『江戸の荒鷲』 : 監督マキノ正博、1937年11月4日公開 - 飯飼五郎太夫
- 『続浮名三味線』 : 監督衣笠十四三、1937年12月1日公開 - 猫脚の三八
- 『自来也』(戦後改題『忍術三妖伝』) : 監督マキノ正博、1937年12月31日公開 - 天眼磯兵衛、現存(NFC所蔵[11])
- 『白浪五人男』 : 監督荒井良平、1938年1月7日公開 - 鳶の者松公
- 『無法者銀平』 : 監督稲垣浩、1938年1月14日公開 - 飛田龍太郎
大都映画
すべて製作・配給は「大都映画」である[3]。すべて「水原洋一」名義[3]。
大映京都撮影所
特筆以外すべて製作は「大映京都撮影所」、配給は「大映」である[17]。すべて「水原洋一」あるいは「水原浩一」名義[3]。
- 水原洋一
- 水原浩一
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク