田中 徳三(たなか とくぞう、1920年9月15日 - 2007年12月20日)は、日本の映画監督。関西学院大学文学部卒業[1]。大阪市東区(現・中央区)船場出身[1]。
生涯
1920年9月15日、大阪市東区(現・中央区)船場にある帯問屋の息子として生まれる[1]。
関西学院大学文学部在学中に徴兵(大学は繰り上げ卒業)され、スマトラ島で終戦を迎えた。1年間捕虜生活を送った後、1946年に帰国。
1948年、朝日新聞記者だった兄(『週刊朝日』の編集長をつとめた田中利一)のすすめで、助監督として大映京都撮影所に入社[2]。溝口健二、黒澤明、市川崑、吉村公三郎、伊藤大輔、森一生らの下でチーフ助監督を務めた[3]、1958年に『化け猫御用だ』で監督デビュー[2]。助監督時代の作品がいくつかの映画祭で賞を受賞したことから、「グランプリ助監督」とのあだ名もあった[1]。この時、市川崑が新人監督のために台本を書いていることを知った田中は自分に回ってくることを期待したが回ってきたのが『化け猫御用だ』と知り、落胆したという。
1960年、長谷川一夫主演『疵千両』で監督新人協会作品賞を受賞した[1]。1961年、勝新太郎主演の『悪名』を監督し、この作品で日本映画監督協会特別賞、京都市民映画祭監督賞を受賞した[1]。田中は悪名シリーズ全16作のうち半分を監督した。1963年に監督した、座頭市シリーズ第四弾、『座頭市兇状旅』は、配収1億5000万円を超える当時のメガヒット作品となった[4]。
『眠狂四郎』を市川雷蔵で映像化したいとの、田中の企画により[5]「眠狂四郎」シリーズがスタートした。また『兵隊やくざ』シリーズでも全9作のうち6作の監督を務め、田宮二郎主演の「犬」シリーズなどの大映を代表する人気作品でメガホンを取った。大映時代の監督作品にはプログラムピクチャーが多く、監督を務めた作品の数は49本を数える。1969年、『秘録怪猫伝』を監督したのが大映製作映画での最後の監督作品となった。大映の倒産後はフリーとなり、萩原健一主演の『祭ばやしが聞こえる』などの現代劇、『必殺シリーズ』などテレビドラマ時代劇の監督を多数務めた[2][3]。
2007年12月20日、脳出血のため奈良県橿原市の病院で死去。87歳没。同年に撮影した『少年河内音頭取り物語』(河内家菊水丸の少年期の実話)が遺作となった[6]。2008年2月2日、母校の関西学院で「お別れ会」が開かれた。
その他
- 三隅研次とは同期で、井上昭によると、「お互いどこかライバル視していたのではないか」としている[7]。
- 市川雷蔵から「徳三という名前はよくない。改名したほうがいい」と言われたことがあった。田中が断ると、「いい名前を考えていたんだが」と残念そうであったという[8]。
監督作
映画
テレビドラマ
受賞歴
- 監督新人協会作品賞 (映画『疵千両』により)[9]
- 監督新人協会特別賞 (映画『悪名』により)[9]
- 京都市民映画祭監督賞 (映画『悪名』により)[9]
- 日本批評家大賞プラチナ大賞 (1996年)[9]
著書
- 『映画が幸福だった頃 [田中徳三映画術] 』 (1994年、株式会社JDC)
脚注
参考文献
外部リンク