春日 昭之介(春日 祥之輔)基本情報 |
---|
国籍 |
日本 |
---|
出身地 |
大分県中津市 |
---|
生年月日 |
(1953-11-17) 1953年11月17日(71歳) |
---|
身長 体重 |
170 cm 66 kg |
---|
選手情報 |
---|
投球・打席 |
右投左打 |
---|
ポジション |
内野手、外野手 |
---|
プロ入り |
1974年 ドラフト5位 |
---|
初出場 |
1979年8月22日 |
---|
最終出場 |
1983年9月1日 |
---|
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
---|
|
|
春日 昭之介(かすが しょうのすけ、1953年11月17日 - )は、大分県中津市[1]出身の元プロ野球選手(内野手)。1975年から1978年までの登録名および本名は「春日 祥之輔」。兄は元プロ野球選手の春日一平。
来歴・人物
中津工業高では、1番打者、捕手として同期のエース尾西和夫とバッテリーを組む。1971年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、中九州大会決勝に進出するが、鶴崎工業高の藤沢哲也投手にノーヒットノーランを喫し甲子園出場はならなかった。
高校卒業後は、社会人野球の鐘淵化学に入社。1974年の都市対抗野球に出場。2回戦では2番打者、中堅手として起用されるが、新日本製鐵八幡の萩野友康に抑えられ敗退[2]。
1974年のプロ野球ドラフト会議で太平洋クラブライオンズから5位指名を受け入団する[1]。
ベース一周13秒7の俊足だが打撃面が弱く、なかなか一軍に上がれなかった。プロ5年目の1979年に一軍初出場を果たし、二塁手として6試合に先発出場するが、やはり打率は低迷。1980年オフに自由契約となり、ロッテオリオンズに移籍した[1]。1983年には二塁手、外野手として17試合に先発出場、打率.254を記録するが、同年限りで引退した[1]。
引退後は、ロッテ球団の職員(渉外担当)としてヘンスリー・ミューレンスらを招へい、大阪近鉄バファローズの球団フロントを経て東北楽天ゴールデンイーグルスでは泉犬鷲の寮長などを務めていた。
詳細情報
年度別打撃成績
年
度 |
球
団 |
試
合 |
打
席 |
打
数 |
得
点 |
安
打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁
打 |
打
点 |
盗
塁 |
盗 塁 死 |
犠
打 |
犠
飛 |
四
球 |
敬
遠 |
死
球 |
三
振 |
併 殺 打 |
打
率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S
|
1979
|
西武
|
21 |
26 |
23 |
5 |
3 |
0 |
0 |
0 |
3 |
0 |
2 |
0 |
2 |
0 |
0 |
0 |
1 |
3 |
0 |
.130 |
.167 |
.130 |
.297
|
1981
|
ロッテ
|
3 |
1 |
1 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.000 |
.000 |
.000 |
.000
|
1982
|
12 |
12 |
10 |
1 |
1 |
0 |
0 |
0 |
1 |
1 |
0 |
1 |
1 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.100 |
.182 |
.100 |
.282
|
1983
|
40 |
70 |
59 |
17 |
15 |
2 |
0 |
1 |
20 |
5 |
0 |
0 |
4 |
0 |
6 |
0 |
1 |
10 |
0 |
.254 |
.333 |
.339 |
.672
|
通算:4年
|
76 |
109 |
93 |
24 |
19 |
2 |
0 |
1 |
24 |
6 |
2 |
1 |
7 |
0 |
7 |
0 |
2 |
13 |
0 |
.204 |
.275 |
.258 |
.533
|
記録
背番号
- 40 (1975年 - 1980年)
- 42 (1981年 - 1983年)
登録名
- 春日 祥之輔(かすが しょうのすけ、1975年 - 1978年)
- 春日 昭之介(かすが しょうのすけ、1979年 - 1983年)
脚注
- ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、143ページ
- ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
関連項目
外部リンク