小川 一眞(おがわ いっしん/かずまさ/かずま、万延元年8月15日(1860年9月29日) - 昭和4年(1929年)9月6日[2])は、日本の写真家(写真師)、写真出版者。写真撮影・印刷のほか、写真乾板の国産化を試みるなど、日本の写真文化の発展に影響を与えた。写真技術者・印刷技術者の小林忠治郎(1869-1951年)は実弟。
幕末の万延元年(1860年)、武蔵国埼玉郡忍藩(現・埼玉県行田市)に生まれる[2]。忍藩の藩校「培根堂」で学んだのち[3]、明治6年(1873年)に旧藩主松平忠敬から学費の支給を受けて、有馬頼咸が開設した東京の報国学舎(有馬学校)へ入学して土木工学を学んだ[2][3][4]。一眞は同校在学中に写真術に興味を持ったという[2]。明治8年(1875年)に同校を卒業して帰郷し、熊谷の写真師吉原秀雄の下で働きながら写真湿板撮影法を学び、群馬県富岡町で自身の写真館を開いた[3]。同地では古沢福吉と親交を深め、彼の支援を受けている[3]。明治13年(1880年)に築地大学校(バラ学校)へ入学して英語を習得し[5] 、翌明治14年(1881年)には横浜の外国人居留地で警察の通詞を勤めるほどとなった[2]。
明治15年(1882年)、前年の第2回内国勧業博覧会に出品した作品が評価されないことに衝撃を受けた一眞は[3]、更に進んだ写真術を会得するべくアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンへと渡り、同地のハウスティング写真館に住み込んで働きつつ、明治16年(1883年)、欧州からもたらされた当時の最新写真技術やコロタイプ印刷などを体得して明治17年(1884年)1月に帰国した[2]。帰国した一眞は東京飯田町(現在の飯田橋)に写真館玉潤館を開業して評判を得、企業家としても活動した[2]。一眞の起ち上げた写真乾板製造会社は失敗に終わったが、明治18年(1885年)にはカーボン印画法の材料を販売する会社も起こしている[2]。
一眞の写真技術の評判は明治政府の耳目を集め、明治20年(1887年)、内務省の委嘱により皆既日食のコロナ撮影を行い、明治21年(1888年)には図書頭である九鬼隆一による近畿地方での古美術文化財調査に帯同し、文化財の調査撮影を行った[2]。これをきっかけにフェノロサの日光の美術史調査にも帯同し、岡倉天心らと国華社を設立して明治22年(1889年)にはコロタイプ印刷による図版入りの美術雑誌『国華』の創刊へと繋がった[2]。また、一眞は同年に休刊していた雑誌『写真新報』を編集人兼発行人として復刊して刊行を重ねた[2]。一眞は数々の名所や風俗・文化財をはじめ、日清・日露戦争、明治天皇の大喪の礼、濃尾地震やアイヌ民族の生活調査など数多くの題材を写真に収めた[2]。明治43年(1910年)、帝室技芸員として顕彰され、東京写真師組合を組織し同初代会長に任ぜられた[6][7]。
「小川一真写真店(小川写真製版所)」 小川一真(1860 - 1929)はボストンで写真術を修業し、明治18年(1885)、飯田町に写真館「玉潤館」を開業すると、東京有数の写真家として知られるようになった。21年(1888)、日本初のコロタイプ写真製版、印刷を開始。翌年、京橋区日吉町に小川写真製版所を開き、27年(1894)、写真銅板の製版、印刷に着手した。43年(1910)、帝室技芸員を拝命。写真の産業化、写真文化の発展に大きな足跡を残した。写真撮影に使われた用具の一部が描かれている。「小川一真写真店は当今写真界の冠にして東京名物の一也」と記載あり。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「小川一真写真店(小川写真製版所)」より抜粋[8]
小川は、小川写真製版所として多くの写真集(写真帖)を刊行している。以下に例を挙げる。