岡倉 天心(おかくら てんしん、文久2年12月26日〈1863年2月14日〉 - 大正2年〈1913年〉9月2日)は、日本の思想家、文人。本名は岡倉 覚三(おかくら かくぞう)。幼名は岡倉 角蔵(読み同じ)。
横浜の本町5丁目(現在の同市中区本町1丁目、横浜開港記念会館付近)で生まれる。福井藩出身の武家で、1871年に家族で東京に移転[1]。東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)の設立に大きく貢献し、後年に日本美術院を創設した。近代日本における美術史学研究の開拓者で、英文による著作での美術史家、美術評論家としての活動、美術家の養成、ボストン美術館中国・日本美術部長といった多岐に亘る啓発活動を行い、明治以降における日本美術概念の成立に寄与した。「天心」は岡倉が詩作などの際に用いた号であるが、生前には「岡倉天心」と呼ばれることはほとんどなく、本人はアメリカでも本名の岡倉 覚三(Okakura Kakuzo)で通していた[2]。
福井藩の下級藩士の父・岡倉勘右衛門は、藩命で武士の身分を捨て、福井藩が横浜に開いた商館「石川屋」(現在の横浜市開港記念会館)の貿易商となり、その商店の角倉で生まれたことから、覚三は当初「角蔵」と名付けられた。9歳の時、妹・てふを出産した母・このが産褥熱で死去する。その葬儀が行われた長延寺(後のオランダ領事館)に預けられ、そこで漢籍を学び、横浜居留地に宣教師ジェームス・バラが開いた英語塾で英語も学んだ。弟の岡倉由三郎は英語学者。1873年(明治6年)に東京外国語学校(現東京外国語大学)に入学。その後、東京開成所(後の官立東京開成学校、現在の東京大学)に入所し、政治学・理財学を学ぶ。英語が得意だったことから同校講師のアーネスト・フェノロサの助手となり、フェノロサの美術品収集を手伝った。16歳のとき、大岡忠相の末裔でもある13歳の基子と結婚する。1882年(明治15年)に専修学校(現在の専修大学)の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献し学生達を鼓舞した。専修学校での活躍は、文部省専門学務局内記課に勤めていたころである。また専修学校の師弟関係で浦敬一も岡倉と出会い、その指導により生涯に決定的な影響を受けた。
1890年(明治23年)から3年間、東京美術学校でおこなった講義「日本美術史」は、叙述の嚆矢(初の日本人自らの通史での美術史)とされる。
1942年(昭和17年)、晩年を過ごした茨城県の五浦に天心翁肖像碑(亜細亜ハ一な里石碑)が竣工。同年11月8日には横山大観、斎藤隆三、石井鶴三などが参列して除幕式が行われた[3]。
1967年(昭和42年)には東京都台東区に岡倉天心記念公園(旧邸・日本美術院跡)が開園。1997年(平成9年)には北茨城市の五浦に日本美術院第一部を移転させて活動した岡倉天心らの業績を記念して、茨城県天心記念五浦美術館が設立された[4]。
ニューヨークで自身の英語で「茶の本」を出版し100年にあたる2006年の10月9日に、岡倉が心のふるさととしてこよなく愛した福井県の永平寺(曹洞宗の大本山)で、関係者による“岡倉天心「茶の本」出版100周年記念座談会”が行われた。そして岡倉の生誕150年、没後100年を記念し2013年11月1日から12月1日まで、福井県立美術館で「空前絶後の岡倉天心展」を開催した。
父:岡倉勘右衛門(1820-1896)は、越前福井藩の下級武士ながら商才に長けていたことから、福井藩の横浜商館「石川屋」の手代務に命じられ、石川屋善右衛門と名を改め、商人となった。廃藩置県により石川屋が廃業となると、東京・蛎殻町にあった福井藩の下屋敷跡で旅館「岡倉旅館」を開業。[5]なお岡倉家の祖先は、越前朝倉家。
母:この(1834-1870、旧姓:野畑(濃畑))も福井出身で、165cmの長身だったという[27]。勘右衛門の前妻(藤田みせ)は4人の娘を残して亡くなっており、このは29歳の時に後妻として岡倉家に入る。長男・港一郎(1861-1875)、次男・角蔵(天心)、三男・玄三(夭折)、四男・由三郎(よしさぶろう、1868-1936)、五女・蝶子(1870-1943)を産むが、産褥熱のため37歳で死亡。兄の港一郎が脊椎カリエスで手がかかったため、角蔵は橋本左内の遠縁にあたる乳母に育てられた[5]。弟の岡倉由三郎は、東京帝国大学文化大学選科に学び、1891年に朝鮮で日本語学校の教師となり、府立一中、鹿児島造士館の教師を経て、1901年に英国留学、帰国後東京高等師範学校教授を務め、研究社の「英文学叢書」等の主幹を務め、「新英和大辞典」等を編纂した[28][29]。妹の蝶子は福井出身の木彫家の山田鬼斎(1864-1901、本名常吉、東京美術学校彫刻科教授)と結婚した[30][31]。このが没した後、勘右衛門は3人目の妻・大野しづを迎えるが、子はなかった[32]。
妻の基子(表記は基、元、重戶あり、1865-1922)は大岡定雄の娘で、赤坂の茶会(茶店とも)で天心と知り合い、岡倉旅館で働きはじめ、1879年に結婚した[33]。天心と九鬼波津子の恋愛中は別居した。高橋健三の妻を先達として、大谷木備一郎の妻(のち小川一真妻)、藤田隆三郎の妻、山田喜之助の妻らとともに十数人で日本風の婦道を勉める婦人団体「清迎会(清遊会)」を作り、全員で大奥風に髪を結い、揃いの小袖で遊山に出かけるなどした[34]。
基子との間に生まれた長男の岡倉一雄(1881-1943)は朝日新聞記者で、岡倉覚三の伝記をまとめた。長女の高麗子(こまこ、1883-1955)は仏英和高等女学校(現・白百合学園中学校・高等学校)に学び、20歳で鉄道省に勤める米山辰夫に嫁ぎ、鉄道局長として各地に転勤した夫に伴って暮らし、隠棲した五浦で没した[28][35]。
庶子として腹違いの姉よしの子・八杉貞(1869-1915)との間に和田三郎(1895-1937)がいる。出産翌年貞は自殺未遂を起こしている[36]。三郎は生まれてすぐ他家に預けられ、5歳で和田政養の養子となり、1902年に和田が没すると、早崎稉吉と結婚した母親に引き取られ、中学進学からは剣持忠四郎に預けられた(和田、早坂、剣持はともに天心の部下)[37][38]。その後名古屋の第八高等学校 (旧制)から東京帝国大学医学部に進み、卒業後都立松沢病院に勤務し、熊本医科大学助教授を経て精神病神経科広島県立代用養神館病院長となった[39]。
孫(一雄の子)の岡倉古志郎は非同盟運動にも関わった国際政治学者、曾孫(古志郎の子)長男の岡倉徹志は中東研究者、他の曾孫岡倉登志は西洋史(アフリカ史)学者。玄孫(徹志の長男)の岡倉禎志は写真家、玄孫(徹志の次男)の岡倉宏志は人材開発コンサルタント、