レコーディングはCBS・ソニー信濃町スタジオにて行われ、編曲は前作に引き続き西本明が担当している他、バックバンドとしてツアーに参加していたHeart Of Klaxonが尾崎と共に担当している。前作までに顕著であった大人や社会に対する反抗的なメッセージ性は希薄となり、内省的な自問自答を題材とした曲が多く収録されている。
先行シングルとして「DRIVING ALL NIGHT」がリリースされているが、シングルには同年8月25日の大阪球場公演時のライブバージョンが収録されており、スタジオ録音バージョンは本作にて初収録となった。また、本作リリースから16年後に映画『LOVE SONG』(2001年)の主題歌として使用された「Forget-me-not」がリカットとしてリリースされた。本作はオリコンアルバムチャートにて最高位第5位となった他、1991年の再リリース盤は売り上げ枚数40万枚を超え日本レコード協会からプラチナ認定を受けている。批評家たちからはバンドサウンドを目指した音楽性に対しては肯定的な意見が多かったものの、内省的となった歌詞やメッセージ性に対しては賛否両論となった。
背景
前作『回帰線』がオリコンチャート第1位を獲得、続くコンサートツアー「TROPIC OF GRADUATION TOUR」は1985年5月7日の立川市民会館を皮切りに39都市全39公演が行われ、前回のツアー「FIRST LIVE CONCERT TOUR」の2倍もの規模になっていた[4]。ツアー最終日である8月25日に実施された大阪球場では2万6000人を動員する[5]。当時日本のロックミュージシャンで球場でのコンサートを実現させたのは、1978年に後楽園球場公演を行った矢沢永吉など極少数であったが、尾崎はデビューからわずか1年8か月でスタジアムライブを実現する事となった[5]。またツアーにおいて1曲目には当時未発表であったバラードソング「米軍キャンプ」を演奏、また未完成であった「Freeze Moon」は演奏時間が30分におよぶなど挑戦的なコンサートツアーとなった[6]。
本作は尾崎の提案により、バックバンドである「Heart Of Klaxon」を中心に制作する事が企画された[10]。しかし前作までのプロデューサーであった須藤晃はその意向に対し、入念なリハーサルと充分なレコーディングスタジオでの作業時間が必要であると訴えた[10]。レコーディングはコンサートツアーである「TROPIC OF GRADUATION TOUR」の最中、8月25日の大阪球場公演のリハーサルと同時に開始された[11]。レコーディングスタジオはCBS・ソニー信濃町スタジオが使用され、過去作と同様に全曲の作詞および作曲を尾崎が行っており、編曲に関しては基本的に前2作に参加していた西本明が仕切り、一部の曲で尾崎自身がバックバンドとともにアレンジを行っている[12]。またプライベートでの合意事項として、尾崎にとって10代最後の日となる11月28日にリリースする事も決定した[10]。10代の内に3枚目のアルバムをリリースする事に関して当初尾崎は反発しており、須藤にリリースの意義を問いただす事が何度もあったが、須藤による「あとになっておまえにとっては、意味を持つだろう」と諭された事から条件を飲む事となった[9]。また尾崎は条件を飲んだ理由として、「スタッフの裏側の気持ちが、痛いほどボクに伝わってきたからって気がしてる」と述べている[13]。
「路上のルール」や「失くした1/2」など、一部の曲タイトルは須藤が名付けている[9]。またそれらの曲は過去のコンサートでは演奏されていない曲であり、アルバム制作時には未完成であったため、曲の完成後も作詞面で難航していた[9]。本作のレコーディング開始前にすでにコンサートで披露していた曲は「Driving All Night」「彼」「Freeze Moon」「ドーナツ・ショップ」の4曲であり、それ以外の曲はレコーディング開始後に制作された[9][注釈 2]。「Freeze Moon」は本作以前のライブ演奏時には「バーガー・ショップ」というタイトルであったが、「ドーナツ・ショップ」が制作されたためにタイトルが変更された[14]。またその4曲はツアーに帯同していたHeart Of Klaxonによる演奏でレコーディングされ、「Freeze Moon」は一発録りでレコーディングされた[15]。「彼」に関しては歌詞が理解できないという理由から、須藤は書き直しを命じたが尾崎はこれに従わずそのままレコーディングされた[16]。須藤は本作に関しては尾崎に適切なアドバイスを送る事がほとんど出来ない状態であったと述べ、一部の曲タイトルを考案する事しかしていないと述べている[9]。
音楽誌『別冊宝島1009 音楽誌が書かないJポップ批評35 尾崎豊 FOREVER YOUNG』においてフリーライターの河田拓也は、前作までに存在したストレートな主張や反抗を思わせる歌詞はなくなり、また親や教師との摩擦を題材とした「場」を表現した曲が少なくなり、抽象的な表現や内省的な心情を綴った曲が多くなっていると述べ、また曲の大半がHeart Of Klaxonとの共同制作であるためバンドのような一体感が強調され、分厚くなったコーラスアレンジと共に80年代半ばの50年代リバイバルブームにも共通していると述べている[25]。音楽誌『別冊宝島2559 尾崎豊 Forget Me Not』において音楽評論家の遠藤利明は、卒業によって学校という存在が既に過去のものになっており、自身の進路に対する自問自答や街の情景描写が多くを占め、前作までにあった社会への反抗に対する表現は減少していると述べた他、「Freeze Moon」や「Driving All Night」は疾走するロックンロールでありライブ感のある仕上がり、「ドーナツ・ショップ」は穏やかな曲調、「誰かのクラクション」は「キーボード主体の柔らかいサウンドですべてを包み込むような優しさをみせる」とし、「失くした1/2」は「少女アイドルが歌ってもおかしくないほどポップな曲調」であると述べている[26]。
楽曲
SIDE A
「路上のルール」 - RULES ON THE STREET
尾崎は本曲に関して「ニューヨークのイメージが強い」と述べている[21]。前作がリリースされた時に尾崎は撮影のため3週間程度ニューヨークに滞在しており、そこで見た人種差別や経済格差からの影響が歌詞に描かれている[21]。須藤は本曲に関して、それまでのような単純な渇望ではなく複雑な願望や欲求が感じられたために1曲目にしたと述べている[21]。本作リリース前の1985年11月14日に行われた代々木オリンピックプール公演時に初披露された。トリビュート・アルバム『"BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』(2004年)には橘いずみによるカバーが収録されている[27]他、韓国の歌手であるメイダニによるカバーがアルバム『Respect of Yutaka Ozaki』(2013年)に収録されている[28]。
「失くした1/2」 - ALTERNATIVE
レコーディングの歌入れ時に物足りなさを感じた尾崎の要望により、町支寛二のアレンジによるコーラスが追加された[9]。しかし須藤はこのコーラスが裏目に出たとして、「すごく哀しい感じになってしまった」と述べている[9]。英題は「ALTERNATIVE」であるが、これには「獲得した半分、失くした半分」という意味が込められている[9]。ライブにおいては1986年の「LAST TEENAGE APPEARANCE TOUR」の最終日、1987年の「TREES LINING A STREET TOUR」のみで歌われており、キーを2つ下げて演奏された。トリビュート・アルバム『"GREEN" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』(2004年)にはYoung SSによるカバーが収録されている[27]。
尾崎は「彼」とは神の事であり自分の事であると述べている[16]。言葉を曖昧にしたいという尾崎の要望によりボーカルにはディレイが掛けられ、同じ言葉が反復するようなエコーとなっている[16]。須藤は本曲の歌詞が自家中毒を起こしていると判断し、尾崎に哲学者であるルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインを例に挙げて意味の分かる歌詞にするよう要請したが尾崎は書き直しを行わなかった[16]。須藤はプロデューサーでありながら自身が納得できない曲が収録された事に関して「非常に悔しい」と述べている[16]。ライブツアー「LAST TEENAGE APPEARANCE TOUR」、「TREES LINING A STREET TOUR」では、「Heart Of Klaxon」のサクソフォーン担当である阿部剛がコーラスを担当していた。
「米軍キャンプ」 - BASE CAMP
尾崎が練馬区で過ごした少年時代に存在した「グラントハイツ」と呼ばれていたアメリカ空軍の家族宿舎を背景にした曲[29]。尾崎が小学校在学中に米軍は同地を引き上げたが、その土地はそのまま放置された状態になっていた[29]。本曲に登場する女性は2枚目のアルバム『回帰線』(1985年)の収録曲「ダンスホール」に登場する女性と同一人物である[30]。須藤は尾崎がその少女に自身を投影しているのではないかと述べた他、過去の作品を反芻している事からこの時期すでに自身のパロディーを始めている気がするとも述べている[30]。ライブツアー「TROPIC OF GRADUATION TOUR」において既に演奏されていた。トリビュート・アルバム『"GREEN" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』には熊谷和徳のタップダンスによるカバーが収録されている[27]。
SIDE B
「Freeze Moon」
原題は「バーガー・ショップ」であったが、後に制作された「ドーナツ・ショップ」と区別するために「Freeze Moon」となった[14]。タイトルは「月を凍らせろ」という意味で尾崎が名付けた[15]。本曲は大阪球場公演においても最も盛り上がった曲となり、そのままの勢いで一発録りでレコーディングされたが「非常にうまくレコーディングできた」と須藤は述べている[15]。採用されたテイクでは冒頭部分で息が詰まっている箇所があり、尾崎は何度も「この歌、録りなおさせてください」と要望したが、結果として採用されたテイクを超えるものが出来なかったため最初のテイクが収録された[15]。本作リリース前からライブではたびたび演奏されていたが、一部の歌詞が異なっていた。この曲はほとんどのライブで演奏されており[注釈 3]、ライブではほとんど演奏中にMCが入ることが多く、また、ライブによって歌詞やMCは違うものとなっていることが多かった[注釈 4]。1992年に同名の写真集『FREEZE MOON』(角川書店ISBN 4048511009)が発売されている。トリビュート・アルバム『"GREEN" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』にはMAKOTOによるカバーが収録されている[27]。
「Driving All Night」
1985年10月21日に発売されたシングル版では「DRIVING ALL NIGHT」と大文字となっている。詳細は「Driving All Night」の項を参照。
「ドーナツ・ショップ」 - DONUTS SHOP
タイトルは尾崎が名付けた[31]。タイトルを聴いた須藤はミスタードーナツやダンキンドーナツが題材であるのかと尾崎に尋ねたが、尾崎はそれを否定しドーナツ・ショップとは「自分が生活している日常の場所みたいなもの」と回答している[31]。須藤は本曲が尾崎らしくないが良曲であると判断していたため、後にシングル「OH MY LITTLE GIRL」(1994年)のカップリング曲として収録する事となった[31]。アウトロ部分に尾崎による語りが入っている。トリビュート・アルバム『"GREEN" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』にはカン・ダヒョン(英語版)によるカバーが収録されている[27]。
本作は尾崎の20歳の誕生日となる1985年11月29日の前日に当たる11月28日にLPレコードとコンパクトカセットがリリースされた(CDのみ12月8日)[注釈 5]。須藤は後に、10代の内に3部作が完成した事は「意味があると言えばあるけど、ないと言えばない」と述べているが、「作り上げるには非常に苦労した」とも述べている[21]。本作からは同年10月21日に先行シングルとしてリリースされた「DRIVING ALL NIGHT」のみがシングルカットされているが、シングル盤はアルバム収録バージョンとは異なり同年8月25日に行われた大阪球場で演奏されたライブ・バージョンが収録されている。また同バージョンはアルバム・バージョンとは異なり、間奏が長くフェイドアウトしない構成となっている。
7月21日には尾崎として初となる映像作品であるミュージック・ビデオ集『6 PIECES OF STORY』がリリースされた[38]。同作には本作収録曲の内、「Driving All Night」「Freeze Moon」「路上のルール」のミュージック・ビデオが収録。「Freeze Moon」では尾崎が大量のペンキを掛けられる映像を逆回転した内容となっている。撮影は別の曲のMV撮影が終了し、シャワーを浴びて帰路につこうとした尾崎に対して、「悪いけど、ペンキかけていいかな」と佐藤輝が要望したため行われる事となった[40]。佐藤による演出は時に批判の対象となっていたが、佐藤は全く意に介さず称賛される事にこそ懐疑的であり、またラジオ出演していた尾崎に対してリスナーからMVに対する批判的な意見が寄せられた際、尾崎が怒りの反応を見せた事があったという[41]。
本作リリース前より十代最後のコンサートツアーとして、「LAST TEENAGE APPEARANCE TOUR」が1985年11月1日の四日市市民文化会館を皮切りに26都市27公演行われている[42]。バックバンドである「Heart Of Klaxon」のメンバーは、鴇田靖(ギター)、江口正祥(ギター)、樫原伸彦(ピアノ)、松原博(シンセサイザー)、田口政人(ベース)、吉浦芳一(ドラムス)、阿部剛(サックス)の7名[42]。前回のツアーに参加していたキーボード担当の井上敦夫がHeart Of Klaxonから脱退[43]。アルバムに参加したミュージシャンとライブを行いたいという尾崎の要望により、新たなキーボード担当として樫原が参加する事となった[43]。1曲めには10代の終結を意味して「卒業」が演奏された[44]。また本ツアーでは尾崎の要望により音色を厚くするという意図とひとつひとつのメロディーを丁寧に演奏するため、ピアノに加えてシンセサイザーが追加された[45]。