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艦歴
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計画 |
昭和16年度計画(マル臨計画)[1]
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起工 |
1941年12月17日[1]
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進水 |
1942年5月30日[1]
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就役 |
1942年12月26日[1]
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その後 |
1943年7月6日消息不明[1]
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亡失認定 |
1943年8月1日[1]
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除籍 |
1943年9月1日[1]
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性能諸元
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排水量 |
基準:525トン 常備:601トン 水中:782トン
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全長 |
60.90m
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全幅 |
6.00m
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吃水 |
3.51m
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機関 |
艦本式24号6型ディーゼル2基2軸 水上:1,000馬力 水中:760馬力
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電池 |
1号15型120個[2]
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速力 |
水上:14.2kt 水中:8.0kt
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航続距離 |
水上:12ktで3,500海里 水中:3ktで60海里
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燃料 |
重油:50トン
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乗員 |
38名
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兵装 |
25mm機銃連装1基2挺 魚雷発射管 艦首4門 53cm魚雷8本
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備考 |
安全潜航深度:75m
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呂号第百七潜水艦(ろごうだいひゃくななせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂百型潜水艦(小型)の8番艦。
艦歴
1941年(昭和16年)の昭和16年度計画(マル臨計画)[1]により1941年12月17日、呉海軍工廠で起工。1942年(昭和17年)5月30日進水。1942年12月26日に竣工し、二等潜水艦に類別[1]。同日、佐世保鎮守府籍となり[3]、訓練部隊である呉鎮守府呉潜水戦隊に編入された。
1943年(昭和18年)3月15日、第八艦隊第7潜水戦隊に編入[3][4]。
3月31日、呂107は佐世保を出港し、4月12日にラバウルに到着[4]。15日、第7潜水戦隊は南東方面艦隊所属となる。
22日、呂107はラバウルを出港し、ガダルカナル島東方沖に進出し哨戒。5月14日、ラバウルに到着[4]。
27日、呂107はラバウルを出港し、ガダルカナル島東方沖に進出して哨戒。6月20日、ラバウルに到着。
30日、呂107はラバウルを出港し、レンドバ島近海に進出[4]。7月6日、レンドバ島東方沖からの連絡を最後に消息不明[1]。
アメリカ側記録にも記録はなく[注釈 1]、艦長の江木尚一大尉以下乗員42名全員行方不明(戦死認定)[5]。
8月1日、ソロモン諸島方面で亡失と認定され、9月1日に除籍された。
歴代艦長
艤装員長
艦長
- 江木尚一 大尉:1942年12月16日 - 1943年8月1日戦死認定[5]
脚注
注釈
- ^ 7月12日、コロンバンガラ島ベネット東方で米駆逐艦テイラー(USS Taylor, DD-468)の砲撃、爆雷攻撃を受けて沈没(『日本海軍史』第7巻、378頁、『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』160頁。)とあるが、実際に攻撃を受けたのは呂101である。
出典
- ^ a b c d e f g h i j 『日本海軍史』第7巻、378頁。
- ^ 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』73頁。
- ^ a b 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』97頁。
- ^ a b c d 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』160頁。
- ^ a b 『艦長たちの軍艦史』458頁、『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』160頁。
参考文献
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9