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艦歴
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計画 |
昭和17年度計画(マル急計画)[1]
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起工 |
1942年3月17日[1]
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進水 |
1943年10月15日[1]
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就役 |
1944年3月31日[1]
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その後 |
1944年7月14日以降消息不明[1]
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亡失認定 |
1944年7月15日[1]
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除籍 |
1944年10月10日[1]
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性能諸元
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排水量 |
基準:960トン 常備:1,109トン 水中:1,447トン
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全長 |
80.50m
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全幅 |
7.05m
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吃水 |
4.07m
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機関 |
艦本式22号10型ディーゼル2基 電動機、2軸 水上:4,200馬力 水中:1,200馬力
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電池 |
1号15型240コ[2]
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速力 |
水上:19.8kt 水中:8.0kt
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航続距離 |
水上:16ktで5,000海里 水中:5ktで45海里
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燃料 |
重油
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乗員 |
61名
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兵装 |
40口径8cm高角砲1門 25mm機銃連装1基2挺 53cm魚雷発射管 艦首4門 魚雷10本
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備考 |
安全潜航深度:80m
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呂号第四十八潜水艦(ろごうだいよんじゅうはちせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂三十五型潜水艦(中型)の14番艦。
艦歴
1942年(昭和17年)の昭和17年度計画(マル急計画)[1]により、1942年3月17日、三菱重工業神戸造船所で起工。1943年(昭和18年)10月15日進水。1944年(昭和19年)3月31日に竣工し[注釈 1]、二等潜水艦に類別[1]。同日、舞鶴鎮守府籍となり[3]、訓練部隊である第六艦隊第11潜水戦隊に編入された。
7月3日、第34潜水隊に編入[3][4]。
5日、呂48は呉を出港し、サイパン周辺海域に進出[4]。12日、テニアン島の残留搭乗員を救出するよう命ぜられる。14日2130、サイパン北方30浬地点付近で、敵艦を発見したため急速潜航し、移動中との報告を最後に消息不明[注釈 2][1]。
アメリカ側にも記録はなく[注釈 3]艦長の一富清太大尉以下乗員76名全員行方不明(戦死認定)[1][4][5]。
7月15日、サイパン方面で亡失と認定され、10月10日に除籍された。
歴代艦長
艤装員長
艦長
- 一富清太 大尉:1944年3月31日 - 7月15日戦死認定[1][5]
脚注
注釈
- ^ RO-48では建造中にレーダーに反応されにくいように司令塔が設計変更されたため、建造期間が長くなっているとされる。
- ^ RO-48では19日、激しい爆雷攻撃を受けて移動したとの報告があったとする。
- ^ 14日、米高速輸送艦ギルマー(英語版)(USS Gilmer, DD-233/APD-11)と米護衛駆逐艦ウィリアム・C・ミラー(英語版)(USS William C. Miller, DE-259)の2隻の爆雷攻撃により撃沈されたとあるが、実際に撃沈されたのは伊55である。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l 『日本海軍史』第7巻、375頁。
- ^ 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』72頁。
- ^ a b 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』96頁。
- ^ a b c 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』156頁。
- ^ a b 『艦長たちの軍艦史』453頁、『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』156頁。
参考文献
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9