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艦歴
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計画 |
大正6年度計画[1]
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起工 |
1919年11月1日[1]
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進水 |
1920年11月13日[1]
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就役 |
1921年9月10日[1]
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除籍 |
1940年4月1日[1]
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その後 |
1940年4月1日廃潜第12号と仮称[1]
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性能諸元
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排水量 |
基準:893トン 常備:886.2トン 水中:1,075.2トン
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全長 |
70.59m
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全幅 |
7.16m
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吃水 |
3.90m
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機関 |
ヴィッカース式ディーゼル2基2軸 水上:2,400馬力 水中:1,600馬力
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速力 |
水上:17kt 水中:10.2kt
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航続距離 |
水上:10ktで5,500海里 水中:4ktで80海里
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燃料 |
重油
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乗員 |
45名
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兵装 |
短8cm高角砲1門 45cm魚雷発射管 艦首4門、舷側2門 魚雷10本
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備考 |
安全潜航深度:60m
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呂号第五十四潜水艦(ろごうだいごじゅうよんせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂五十三型潜水艦(L2型)の2番艦。竣工時の艦名は第二十八潜水艦。
艦歴
1919年(大正8年)11月1日、三菱神戸造船所で起工。1920年(大正9年)11月13日進水。1921年(大正10年)9月10日竣工。竣工時の艦名は第二十八潜水艦[2]、二等潜水艦に類別[1]。 1924年(大正13年)11月1日、呂号第五十四潜水艦に改称。1938年(昭和13年)6月1日、艦型名を呂五十三型に改正[3]。1940年(昭和15年)4月1日に除籍され、廃潜第12号と仮称。
呂五十一型潜水艦に比べて、主機、電池などの国産化を進めた[4]。
歴代艦長
※艦長等は『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
艤装員長
- 松野省三 少佐:1921年3月1日 - 1921年9月10日
艦長
- 松野省三 少佐:1921年9月10日 - 1922年12月1日
- (心得)佐藤勉 大尉:1922年12月1日 - 1923年12月1日
- (心得)舛岡誠太郎 大尉:不詳 - 1924年3月4日[5]
- (心得)寺垣敬三 大尉:1924年3月4日 - 1924年12月1日
- 香宗我部譲 少佐:1924年12月1日[6] - 1925年12月1日[7]
- 大倉留三郎 大尉:1925年12月1日 - 1927年4月1日
- (兼)佐藤四郎 大尉:1927年4月1日 - 11月15日
- 福田勇 大尉:1927年11月15日[8] - 1928年11月1日[9]
- 岩上英寿 大尉:1928年11月1日 - 1931年3月1日
- (兼)長井満 少佐:1931年3月1日 - 4月1日
- 加藤良之助 大尉:1931年4月1日[10] - 1932年12月1日[11]
- 間直顕 少佐:1932年12月1日[11] - 1933年10月10日[12]
- (兼)秋山勝三 中佐:1933年10月10日 - 11月15日
- (兼)山本皓 大尉:1933年11月15日[13] - 1934年11月15日[14]
- 殿塚謹三 大尉:1934年11月15日[14] - 12月15日[15]
脚注
- ^ a b c d e f g 『日本海軍史』第7巻、370頁。
- ^ 大正13年11月1日付 海軍大臣官房 官房第3305号。
- ^ 昭和13年6月1日付、内令第421号。
- ^ 『日本海軍の潜水艦』28頁。
- ^ 『官報』第3457号、大正13年3月5日。
- ^ 『官報』第3684号、大正13年12月2日。
- ^ 『官報』第3982号、大正14年12月2日。
- ^ 『官報』第266号、昭和2年11月16日。
- ^ 『官報』第558号、昭和3年11月2日。
- ^ 『官報』第1275号、昭和6年4月2日。
- ^ a b 『官報』第1778号、昭和7年12月2日。
- ^ 『官報』第2035号、昭和8年10月11日。
- ^ 『官報』第2064号、昭和8年11月16日。
- ^ a b 『官報』第2364号、昭和9年11月16日。
- ^ 『官報』第2389号、昭和9年12月17日。
参考文献
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0462-8
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。