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艦歴
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計画 |
大正4年度計画[1]
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起工 |
1918年7月1日[1]
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進水 |
1919年11月22日[1]
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就役 |
1920年4月20日[1]
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除籍 |
1932年4月1日[1]
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性能諸元
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排水量 |
基準:689トン 常備:717トン 水中:1,047トン
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全長 |
65.58m
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全幅 |
6.07m
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吃水 |
4.19m
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機関 |
フィアット式ディーゼル2基2軸 水上:2,600馬力 水中:1,100馬力
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速力 |
水上:18kt 水中:8kt
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航続距離 |
水上:10ktで3,500海里 水中:4ktで75海里
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燃料 |
重油
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乗員 |
43名
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兵装 |
短7.5cm単装砲1門 45cm魚雷発射管 艦首3門、艦尾2門 魚雷8本
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備考 |
安全潜航深度:50m
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呂号第二潜水艦(ろごうだいにせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂一型潜水艦(F1型)の2番艦。竣工時の艦名は第二十一潜水艦。
艦歴
1918年(大正7年)7月1日、神戸川崎造船所で起工。1919年(大正8年)11月22日進水。1920年(大正9年)4月20日竣工。竣工時の艦名は第二十一潜水艦、二等潜水艦に類別[1]。1924年(大正13年)11月1日、呂号第二潜水艦に改称[1]。1932年(昭和7年)4月1日に除籍。1934年(昭和9年)10月、特務艦朝日の沈没潜水艦救難実験に使用された[1][2]。
船体構造の欠陥から潜航深度20mが限界で、実戦用潜水艦に適さないと判定された[3]。
歴代艦長
※艦長等は『日本海軍史』第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
艤装員長
- (心得)渡部徳四郎 大尉:1919年12月1日[4] -
艦長
- (心得)渡部徳四郎 大尉:1920年4月20日[5] - 10月16日[6]
- (心得)塹江乙矢 大尉:1920年12月1日[7] - 1921年4月1日[8]
- (心得)箕輪中五 大尉:1921年4月1日[8] - 1921年11月20日[9]
- (心得)岩高賢治 大尉:1921年11月20日[9] - 1922年12月1日[10]
- (心得)田村劉吉 大尉:1922年12月1日 - 1923年1月8日
- (心得)津田源助 大尉:1923年1月8日[11] -
脚注
- ^ a b c d e f g h 『日本海軍史』第7巻、366頁。
- ^ 『写真日本海軍全艦艇史』資料編「主要艦艇艦歴表」16頁。
- ^ 『日本海軍の潜水艦』22頁。
- ^ 『官報』第2199号、大正8年12月2日。
- ^ 『官報』第2313号、大正9年4月21日。
- ^ 『官報』第2465号、大正9年10月19日。
- ^ 『官報』第2501号、大正9年12月2日。
- ^ a b 『官報』第2598号、大正10年4月2日。
- ^ a b 『官報』第2793号、大正10年11月22日。
- ^ 『官報』第3102号、大正11年12月2日。
- ^ 『官報』第3129号、大正12年1月9日。
参考文献
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。