呂号第六十六潜水艦(ろごうだいろくじゅうろくせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂六十型潜水艦(L4型)の7番艦。
艦歴
- 1925年(大正14年)12月1日 - 三菱神戸造船所で起工。
- 1926年(大正15年)10月25日 - 進水
- 1927年(昭和2年)7月28日 - 竣工。第27潜水隊に編入[2]。
- 1930年(昭和5年)11月15日 - 予備艦となる[2]。
- 1933年(昭和8年)11月15日 - 予備艦となる[2]。
- 1938年(昭和13年)6月1日 - 艦型名を呂六十型に改正[3]。
1941年(昭和16年)12月4日、第七潜水戦隊第27潜水隊(呂65、呂66、呂67)として、クェゼリンを出航[4]。本艦は第27潜水隊司令潜水艦(潜水隊司令深谷惣吉大佐)[4]。ウェーク島攻略作戦に参戦のためウェーク島方面の配備に就く[5][6]。僚艦と共に第一次ウェーク島攻略部隊(指揮官梶岡定道第六水雷戦隊司令官)を誘導[6]。
12月13日、第一次ウェーク島攻略作戦失敗により、第七潜水戦隊司令官大西新蔵少将(旗艦「迅鯨」)は第27潜水隊に対しクェゼリンへの帰投を命令[4]。僚艦2隻は了解したが、本艦は通信故障のため受信が届かず、そのまま哨戒に従事。
12月17日20時34分、ウェーク島南西252度25浬地点において[7]、哨戒のためウェーク島に派遣された呂62と衝突して沈没した(両艦とも水上航行状態)[4]。呂62側は呂66の存在を知らず、スコールの中で突如現れた呂66を回避できなかった[8]。この事故で第27潜水隊司令深谷大佐、潜水艦長黒川英幸中佐以下65名が殉職し[4]、呂66号潜水艦艦橋にて当直の3名が救助された[2][5]。この沈没事故により第四艦隊司令長官井上成美中将は、第七潜水戦隊司令官大西新蔵少将を誡告した[4]。
歴代艦長
※『艦長たちの軍艦史』466-467頁による。階級は就任時のもの。
艤装員長
艦長
- 平野六三 少佐:1927年7月28日 - 1928年12月10日
- 奥島章三郎 少佐:1928年12月10日 - 1930年4月22日[10]
- 久米幾次 大尉:1930年4月22日[10] - 1931年4月1日[11]
- (兼)堤道三 大尉:1931年4月1日[11] - 1931年5月1日[12]
- 鳥居威美 大尉:1931年5月1日 - 1931年11月2日[13]
- 溝畠定一 少佐:1931年11月2日 - 1933年11月15日[14]
- (兼)浜野元一 少佐:1933年11月15日[14] - 1934年7月16日[15]
- 都築登 少佐:1934年7月16日[15] - 1934年11月15日[16]
- 栢原保親 少佐:1934年11月15日 - 1935年2月28日
- 揚田清猪 大尉:1935年2月28日[17] - 1936年2月15日[18]
- 柴田源一 大尉:1936年2月15日 - 1937年3月20日[19]
- 川崎陸郎 少佐:1937年3月20日 - 1937年7月31日[20]
- 松村寛治 少佐:1937年7月31日 - 1937年12月1日[21]
- 井上規矩 少佐:1937年12月1日 - 1938年3月19日[22]
- 中村省三 大尉:1938年3月19日 - 1938年7月30日[23]
- 稲田洋 少佐:1938年7月30日 - 1939年3月20日[24]
- 田岡清 少佐:1939年3月20日 - 1939年7月27日[25]
- 小比賀勝 少佐:1939年7月27日 - 1941年1月22日[26]
- 黒川英幸 少佐:1941年1月22日[26] - 1941年12月17日殉職
慰霊碑
長崎県佐世保市にある佐世保東山海軍墓地に、「佐世保鎮守府潜水艦合同慰霊碑」がある。佐世保鎮守府所属の潜水艦として合同慰霊されている[27]。
脚注
参考文献
- 大西新蔵『海軍生活放談 日記と共に六十五年』原書房、1979年6月。ISBN 9784562008902。 大西は太平洋戦争開戦時の第七潜水戦隊司令官
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
関連項目