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艦歴
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計画 |
昭和16年度計画(マル臨計画)[1]
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起工 |
1942年8月8日[1]
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進水 |
1943年3月6日[1]
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就役 |
1943年9月12日[1]
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その後 |
1944年2月2日爆雷攻撃で沈没[2]
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亡失認定 |
1944年3月5日[1]
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除籍 |
1944年4月30日[1]
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性能諸元
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排水量 |
基準:960トン 常備:1,109トン 水中:1,447トン
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全長 |
80.50m
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全幅 |
7.05m
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吃水 |
4.07m
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機関 |
艦本式22号10型ディーゼル2基 電動機、2軸 水上:4,200馬力 水中:1,200馬力
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電池 |
1号15型240コ[3]
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速力 |
水上:19.8kt 水中:8.0kt
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航続距離 |
水上:16ktで5,000海里 水中:5ktで45海里
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燃料 |
重油
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乗員 |
61名
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兵装 |
40口径8cm高角砲1門 25mm機銃連装1基2挺 53cm魚雷発射管 艦首4門 魚雷10本
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備考 |
安全潜航深度:80m
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呂号第三十九潜水艦(ろごうだいさんじゅうくせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂三十五型潜水艦(中型)の5番艦。
艦歴
1941年(昭和16年)の昭和16年度計画(マル臨計画)[1]により、1942年(昭和17年)8月8日、三菱重工業神戸造船所で起工。1943年(昭和18年)3月6日進水。1943年9月12日に竣工し、二等潜水艦に類別[1]。同日、舞鶴鎮守府籍となり[4]、訓練部隊である第一艦隊第11潜水戦隊に編入された。
11月25日、第11潜水戦隊は第六艦隊所属となる。
1943年12月25日、第34潜水隊に編入[4][5]。
12月28日、呂39は舞鶴を出港し[4][5]、1944年(昭和19年)1月6日にトラックに到着[5]。17日、特設潜水母艦平安丸(日本郵船、11,616トン)に横付けして補給を行ったのちトラックを出港し、ウォレアイ環礁周辺海域に進出[4][5]。
30日、ウオッゼ北東200浬地点に進出した米機動部隊の迎撃に向かうよう命ぜられる。2月1日、ウオッゼ環礁、マロエラップ環礁の航空機搭乗員の救助を命ぜられる[5]
[注釈 1]。2月2日、ウオッゼ付近で敵に発見されたとの緊急通信を最後に消息不明[1][5]。
アメリカ側記録によると、同日夜、ウオッゼ付近で米駆逐艦ウォーカー(英語版)(USS Walker, DD-517)がレーダーで浮上している潜水艦を探知し、照明弾を発射して潜水艦を照らし出した。すると潜水艦は緊急通信を発信した後急速潜航していった。ウォーカーは潜航した潜水艦をソナー探知して追尾し、その後爆雷攻撃を行い潜水艦を撃沈した。これが呂39の最期の瞬間であり、第34潜水隊司令・清水太郎大佐、艦長の館上陸太少佐以下乗員70名全員戦死[5]。沈没地点はウオッゼ付近、北緯09度24分 東経170度32分 / 北緯9.400度 東経170.533度 / 9.400; 170.533。
3月5日、ウオッゼ方面で亡失と認定され、4月30日に除籍された。
歴代艦長
艤装員長
艦長
- 館上陸太 少佐:1943年9月12日 - 1944年2月4日戦死[2]
脚注
注釈
- ^ 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』95頁では「1月22日」。
出典
- ^ a b c d e f g h i 『日本海軍史』第7巻、373-374頁。
- ^ a b 『艦長たちの軍艦史』450-451頁、『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』153頁。
- ^ 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』72頁。
- ^ a b c d 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』95頁。
- ^ a b c d e f g 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』153頁。
参考文献
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9