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三賢人の会(さんけんじんのかい)は、1970年代の自由民主党において衆議院議員であり自民党三賢人と呼ばれた椎名悦三郎、前尾繁三郎、灘尾弘吉による会合のこと。
概要
自民党三賢人
1971年4月に宏池会領袖を辞任して派閥を去った前尾に対して、戦争末期に灘尾とは次官仲間[注 1]で食事会を開いていた椎名が誘ったのがきっかけである。
椎名の誘いは1964年7月に第3次池田内閣の内閣改造人事において直前まで自民党幹事長であり宏池会幹部であった前尾が椎名を外務大臣に推薦したこともあったが、椎名の前尾への政治家への姿勢への理解や共感があったとされる。椎名から前尾も会合に誘うと事前に聞かされた灘尾も承諾していた。
3人は官僚出身(椎名は商工官僚出身、前尾は大蔵官僚出身、灘尾は内務官僚出身)であり見識も高く1970年4月までに数々の政権要職についていたが、寝業師的工作は苦手とするなどの共通点があった。
3人は月に一度は各々のお気に入りの料亭を輪番で廻り、料亭を指定した人間が費用を払うことで会うようになった[6]。3人だけの内輪の集いであり、会合が始まると秘書たちも締め出された。会合は普通は2時間であり時には4時間になることもあった。
この会合は政治部記者に知られるようになり、3人は「三賢人」と呼ばれ、会合は「三賢人の会」と呼ばれるようになった。政治部記者がこの会合について3人への取材を試みても、3人が会合の中身について直後に洩らすことはなく、「ただ飯を食ってバカ話をするだけ」と説明していた[7]。後に前尾によると、「昔話や四方山話が多かったが、政談や時局の話もした。3人とも野心がなく、口が堅いから何をしゃべっても洩れる心配がなかったため、何でも率直にありのままの話が出来た。」と述べている。
椎名は1972年8月の田中政権発足時に自民党副総裁に就任した。その後、1973年5月に前任者の失言問題で辞任した後任の衆議院議長に前尾を、1974年12月に三木政権が発足した時は灘尾を自民党総務会長に就任したが、これは自民党副総裁だった椎名による強い推薦によるものであった。三木政権が発足した1974年12月から三木政権が内閣改造した1976年9月まで椎名は自民党副総裁、前尾は衆議院議長、灘尾は自民党総務会長とそれぞれ要職についていた。この期間における1975年10月の三賢人の会合では三公社五現業のスト権ストについて意見交換を行ったと新聞記事が載る等して注目を集めた。
1976年12月に三木政権が退陣して福田政権が発足すると、椎名と前尾はそれぞれ自民党副総裁や衆議院議長といった要職を退いて無役となった。その後、1978年10月に椎名が引退を表明。1979年2月に灘尾が衆議院議長に就任した。
1981年7月に前尾が死去し、1983年11月に灘尾が政界を引退したことで会合は自然消滅した。
椎名と前尾と灘尾による三賢人の会合は1979年5月22日が最後となった。
その他
- 3人の年齢や官界入りという形での序列は椎名(1898年1月生、1923年官界入り)、灘尾(1899年12月生、1924年官界入り)、前尾(1905年12月生、1929年官界入り)である。だが、前尾は灘尾が自民党総務会長(1974年12月就任)や衆議院議長(1979年2月就任)に就任するより前に衆議院議長(1973年5月就任)に就任していたこと、灘尾より前に政界入りしていることもある一方で(前尾は1949年初当選、灘尾は1952年初当選、ちなみに椎名は1955年初当選)、前尾の衆議院議長就任や灘尾の自民党総務会長就任には椎名が自民党副総裁として強く推薦して実現したことの事情等もあって、書籍等では3人は椎名、前尾、灘尾の順で表記されることが多い。
- 1979年9月に椎名が死去し、同年10月に前尾が衆院選で落選するも、同月の衆院選では椎名の次男である椎名素夫(官僚にはならず、政界入りする前は物理学者や実業家をしていた)が初当選しており、1980年6月に衆院選で前尾が当選して復活した時に、灘尾が素夫を誘って3人で会合を開くようになった[6]。政治部記者からは「三賢人の会、復活か」と言われたが、素夫は「とんでもない。2.05ぐらい。」と謙遜していた。素夫によると、前尾と灘尾の話は「あの時の陸軍はひどかった」「そうだ、苦労したな」といった感じの会話であり、戦前から日本の政治や行政で起きたことをどう処理したかの昔話が多く、右に向いてたものをどうやって左に向けたのかというような話もあり、政治は人間がやることだから話が非常に参考になったという[6]。
- 作家の城山三郎は3人について小説中で、椎名は「仙人」、前尾は「学者」、灘尾は「詩人」又は「宗教家」の趣があるとしている。
- 一方で、政治評論家の三宅久之は金美齢との対談で3人について、共通項として「グズったれ」「無精者」を挙げ酷評し、城山の小説についても疑義を呈している。
脚注
注釈
- ^ 椎名は1941年9月から1945年10月まで一時的に局長級ポストに降格していた時期を除いて商工次官・軍需次官であり、灘尾は1945年4月から同年8月まで内務次官であった。なお、前尾は大蔵官僚としては大蔵省主税局長止まりであり、大蔵次官にならずに退官した。
出典
参考文献
関連項目
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前身: 自由党・日本民主党 |
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保守本流 |
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宏池会(池田派 → 前尾派 → 大平派 → 鈴木派 → 宮澤派) → 木曜研究会(加藤派 → 小里派 → 谷垣派 → 古賀派に合流×) 、※新財政研究会(堀内派 → 丹羽・古賀派) → 宏池政策研究会(古賀派 → 岸田派 → ×)、※大勇会(河野派) → 為公会(麻生派) → 志公会(麻生派)、※有隣会(谷垣グループ → ×)
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木曜研究会(佐藤派) → 周山会(佐藤派) → 周山クラブ(保利グループ → 福田派に合流×)、※七日会(田中派) → 政治同友会(田中派) → 木曜クラブ(田中派 → 二階堂派 → ×)、※経世会(竹下(登)派 → 小渕派) → 平成政治研究会(小渕派) → 平成研究会(小渕派 → 橋本派 → 津島派 → 額賀派 → 竹下(亘)派 → 茂木派)、※改革フォーラム21(羽田・小沢派 → 新生党に合流×)
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白政会(大野派) → 睦政会(大野派) → 一新会(船田派 → ×)、※一陽会(村上派) → 巽会(水田派 → ×)
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保守傍流 |
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十日会(岸派 → ×)、※党風刷新懇話会 → 党風刷新連盟 → 紀尾井会(福田派) → 八日会(福田派) → 清和会(福田派 → 安倍(晋太郎)派 → 三塚派) → 21世紀を考える会・新政策研究会(三塚派 → 森派) → 清和政策研究会(森派 → 町村派 → 細田派 → 安倍(晋三)派 → ×)、※政眞会(加藤派 → 新生党に合流×)、※愛正会(藤山派 → 水田派に合流×)、※(南条・平井派 → 福田派に合流×)、※交友クラブ(川島派 → 椎名派 → ×)、※(亀井グループ → 村上・亀井派に合流×)
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春秋会(河野派 → 森派 → 園田派 → 福田派に合流×)、※新政同志会(中曽根派) → 政策科学研究所(中曽根派 → 渡辺派 → 旧渡辺派 → 村上派 → 村上・亀井派に合流×) → 志帥会(村上・亀井派 → 江藤・亀井派 → 亀井派 → 伊吹派 → 二階派 → ×)、※近未来政治研究会(山崎派 → 石原派 → 森山派 → ×)、※さいこう日本(甘利グループ)、※国益と国民の生活を守る会(平沼グループ → 日本のこころに合流×)
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政策研究会(松村・三木派) → 政策同志会(松村・三木派) → 政策懇談会(松村・三木派 → ) → 政策懇談会(三木派) → 新政策研究会(河本派) → 番町政策研究所(河本派 → 高村派 → 大島派 → 山東派 → 麻生派に合流×)、※(松村派 → ×)、※(早川派 → 福田派に合流×)
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火曜会(石橋派)、二日会(石田派 → 三木派に合流×)
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青嵐会 |
青嵐会、自由革新同友会(中川グループ → 石原グループ → 福田派に合流×)
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保守新党 |
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83会 |
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水月会 |
さわらび会(石破グループ) → 水月会(石破派 → 石破グループ)
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無派閥 |
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※は派閥離脱、太字は現在への系譜、括弧内矢印は派閥継承。 |
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