『ホーホケキョ となりの山田くん』(ホーホケキョ となりのやまだくん、英語: My Neighbors The Yamadas)は、1999年7月17日に公開されたスタジオジブリ制作の日本のアニメーション映画。監督は高畑勲。スタジオジブリではこの作品からセル画を用いないデジタルで制作されることになる。また、20世紀最後のスタジオジブリ作品である。キャッチコピーは「家内安全は、世界の願い。」(糸井重里)。
東宝による配給が続いたスタジオジブリ製作作品において唯一、松竹によって配給され、ジブリの事業提携先であるウォルト・ディズニー・ジャパン(後にジブリ社長となる星野康二が代表者)が製作委員会に正式参加し、『もののけ姫』を上回る出資を行った作品である。本作が松竹配給となった理由について、プロデューサーの鈴木敏夫は、ジブリの親会社である徳間書店社長だった徳間康快が東宝側と「ケンカ」してしまったため、松竹でやらざるを得なくなったと記している[2]。
作品内容は原作の4コマエピソードを繋ぎ合わせたオリジナルストーリーである。「家族」を描いたテーマの作品を模索していた高畑監督の目に留まり、長編作品として企画が動き始めた。まつ子たかし夫婦を軸に家族の物語が展開していき、のの子は前半の進行役として話が進めていく。前々作の『おもひでぽろぽろ』のように劇中さまざまな歌が挿入され、矢野顕子が主題歌を担当した。また、翌年逝去したミヤコ蝶々の最後の映画出演作となった[注釈 1]。現実にある作品や商標類(ダイドー、マイルドセブン、クロネコヤマト、月光仮面、ホンダ・ジョルノなど)が劇中にいくつか登場する。
元々は『となりの山田くん』の題で公開に向け準備が進められていたが、高畑の監督作にはタイトルに「ほ」の字が入っているほうが縁起が良いという話になり(「の」の法則も参照)、途中から半ば強引に「ホーホケキョ」という単語を足した[3]。いしいは、ジブリサイドからの改題要請に、朝日新聞『ののちゃん』の連載本編を通じてOKを出した[4](この時点で映画化については世間に公表されていなかった)[注釈 2]。
高畑監督の意向で、この映画はデジタル彩色[5]でありながら、水彩画のような手描き調の画面となっている。これを実現するために、実に通常の3倍もの作画(1コマにつき、実線、塗り、マスク処理用の線の合計3枚が必要となる)17万枚が動員され、製作途中の画風模索もあり制作費が膨れ上がったとされる。実はジブリ作品の中で一番枚数を使っているのは、同じ高畑監督の『かぐや姫の物語』が製作・公開されるまではこの作品であった。
音響面においては、映画用デジタル音響システムである、DTSデジタルサウンドを、ジブリ作品としては初めて採用した。ドルビーデジタルも併用し、その後の劇場版のジブリ作品においては、2つの音響フォーマットが常に採用されている。
PVでは、『となりのトトロ』のキャッチコピーを捩った「このへんな家族は まだ日本にいるのです。たぶん。」というフレーズが挿入されるというセルフパロディが行われている。
「ジブリがいっぱいCOLLECTION」シリーズで、初めてDVD版が発売された作品でもある。
後述の通り、日本での興行収入はふるわなかったが、日本テレビ会長だった氏家齊一郎は本作を非常に気に入り、大きな赤字を出しても高畑の監督作品をもう一度見たいとジブリの関係者に要請したことで、『かぐや姫の物語』が誕生することになった[6][7]。また、日本国外では高い評価を受けており、海外のクリエイターに大きな影響を与えることにもなった[8]。
およそ20億円の制作費用をかけ鳴り物入りで封切られたが、全体の売り上げを示す興行収入は15.6億円、映画館などの取り分を差し引いた配給収入は目標の60億円を大きく下回る7.9億円[9]に留まった。これはジブリが初期に制作した『天空の城ラピュタ』(興行収入11.6億円、配給収入5.8億円[9])や『となりのトトロ/火垂るの墓』(興行収入11.7億円、配給収入5.9億円[9])こそ上回るものの、『魔女の宅急便』(興行収入36.5億円、配給収入21.5億円[9])以降の平成期のスタジオジブリ制作作品としては最も興行収入が低い作品[注釈 3]となっている[注釈 4]。また、配給元の松竹もシネマジャパネスク戦略の迷走や、度重なる興行収入の不振から2000年2月期決算において21億円の特別損失を計上した。鈴木敏夫は興行収入は「ふつうでいえばまあまあ」だが、「事前の期待値が高かったためによくない印象が残る」と記している[2]。また、当時の松竹は弱体の上に営業担当が初心者で、西日本には封切り映画館がほとんどないといった「とんでもない状況で勝負」しなければならず、「やる前から負け」だったとも述べている[2]。また、松竹は劇場公開に客席数の多い大型の劇場を用意し、それがかえって「ガラガラ」を印象づける結果となった(逆に東宝は、中小の劇場で公開し、行列を作り出すことによって「繁盛している」とアピールする戦術を取っている)[要出典]。
ゴシップ誌『噂の眞相』での映画会社社員による覆面座談会形式の取材を基にするとした記事[10]によれば、松竹は劇場の客数不入りを隠蔽するため、公開初日に社員約300人を丸の内ピカデリーに招集しサクラとして客席を埋めた。動員された社員には、前日に「劇場に顔見知りがいても、けっして挨拶しないように」との通達が出された。松竹は、スポーツ紙や週刊誌の記者に歌舞伎のチケット、スカーフなどを配布するなど、マスコミ対策を実施した。サンケイスポーツは「『となりの山田くん』も15億円の大ヒット、社内が明るくなってきたし、社員が活発になってきた」との大谷信義社長のコメントを掲載した。上記の通り、興行収入では15.6億円である(興行収入と配給収入の関係についてはそれぞれの記事を参照のこと)。
この興行不振について、「となりの山田くんより、うちの山田君(山田洋次監督)を使えば良かったのに」と週刊誌に揶揄されたほどだった(ただし、公開された1999年時点において山田洋次監督はアニメ作品の監督をしたことはなく、実写作品のみ手がけていた。それ以降でも2010年に一度舞台演出を行った以外は実写作品にのみ関わっており、実際にアニメ作品を監督したとしても結果は未知数である)。
ただし、ビデオ売上などによって『となりの山田くん』は最終的に黒字化を果たしており、鈴木敏夫は『もののけ姫』のヒット後現場がプレッシャーで萎縮するのを避けるため興行成績をあえて落としたと語ったうえで、この経験があったから翌々年に大ヒットした『千と千尋の神隠し』があると答えている[11]。また、2002年にスタジオジブリが徳間書店から刊行した『ナウシカの「新聞広告」って見たことありますか?』の本作の章での宣伝担当者による対談文章においては、作品の出来とは別に興行成績が奮わなかった点について『もののけ姫』のヒットと絡めて言及している。
一方、海外では高い評価を受けており、スタジオジブリ作品としてはニューヨーク近代美術館(MoMA)の永久収蔵品として、唯一選定されている。また、アメリカの脚本家であるマイケル・アーントやフランスの映画監督であるアマンディーヌ・フルドンなどにも多大なる影響を与えており、アーントは「この作品が無ければ、アカデミー賞受賞作品[注釈 5]である『リトル・ミス・サンシャイン』やピクサー作品の『トイ・ストーリー3』は誕生していなかった」と述べているほどである[8][12][13]。
地上波のテレビ放送は、日本テレビの『金曜ロードショー』枠で2000年10月13日に放送された1回のみであり、初回放送から22年以上も放送されていない。他のジブリ作品[14]と異なり、一度しか放送されていない理由が議論されることがあるが、興行的に失敗だったこと[15]、初回放送で早くも視聴率が10パーセント未満だったこと、などが理由として考えられている。また、従来のジブリ作品と異なり、原作に沿ったキャラクターデザインであるため、それがジブリらしくないという評価もある。これらのことから、実質的に封印作品と同等の扱いになっている。
たかし・まつ子の結婚から、のぼる・のの子の誕生と成長、山田家とそれを取り巻く人々の日常茶飯事やよしなしごとが、折々に松尾芭蕉や与謝蕪村、種田山頭火の俳句を挟んで歳時記としつつ、暖かく緩やかに描かれる。
レコーディング・スタジオ:Avatar Studios & Bovaland