ゼネラルモーターズ General Motors Company
GM本社(2005年)
種類
株式会社 市場情報
NYSE : GM 業種
自動車 設立
1908年9月16日 (116年前) (1908-09-16 ) 創業者
ウィリアム・C・デュラント チャールズ・スチュワート・モット 本社
主要人物
メアリー・バーラ(会長兼CEO) マーク・ロイス(社長) ポールA.ジェイコブソン(CFO) 製品
自動車 自動車部品商用車 売上高
US$ 127.04 billion (2021) 営業利益
US$ 9.324 billion (2021) 利益
9,934,000,000 アメリカ合衆国ドル (2022年) 総資産
US$ 244.71 billion (2021) 純資産
US$ 43.836 billion (2021) 従業員数
157,000人 (2021) 部門
ビュイック キャデラック シボレー GMC 子会社
FAW-GM (50%)
Holden
HSV
SAIC-GM-Wuling Automobile (44%)
GM Financial
GM Certified Service
ACDelco
DMAX
GM Components Holdings
General Motors América do Sul
General Motors do Brasil
GM Colmotores (Colombia)
General Motors Canada
General Motors China
General Motors de Mexico
General Motors India
GM Korea Company
Chevrolet Europe
GM Vietnam
GM Uzbekistan
General Motors Egypt
General Motors South Africa
General Motors Japan ウェブサイト
www .gm .com
ゼネラルモーターズ (英語 : General Motors Company )は、アメリカ合衆国 の自動車 メーカーである[ 1] 。本社はミシガン州 デトロイト [ 1] 。略称は「GM 」[ 1] 。
20世紀初頭にミシガン州で創業。1930年代 から第二次大戦後にかけてアメリカ最大の市場シェアを握り、特に1950年代 から60年代 には世界最大の自動車メーカーとして繁栄した。70年代 以降は輸入車との競争に苦しみ低迷、2009年 6月1日 に連邦倒産法第11章 の適用を申請し倒産、国有化された。2013年 12月9日 にアメリカ合衆国財務省 が保有するGMの株式全ての売却が完了し、国有化が解消された。
歴史
かつてのゼネラルモーターズ本社。1923年 に竣工した当時は世界で二番目に巨大なオフィスビルだった。1996年 に本社移転した後はキャディラック・プレイス と改称されミシガン州などの庁舎が入っている。アメリカ合衆国国定歴史建造物 指定
創成期~第二次世界大戦まで
1908年 9月16日 に、ウィリアム・C・デュラント がミシガン州 フリント で組織した持株会社 がゼネラルモーターズである。ビュイック・モーター (1903年 創業)の経営を1904年 に任されたデュラントは、社長としてビュイックを全米有数の自動車メーカーに育て上げた。デュラントはゼネラルモーターズ創設後、1908年末にオールズモビル を買収し、翌年にはキャディラック 、エルモア 、オークランド(後のポンティアック )などを買収してGMの一部とした。その後もGMはミシガン州周辺のトラックメーカーを次々買収するが、買収費用がかさんだことにより100万ドル の負債を抱えるはめになった。1910年 、デュラントはGMの支配権を失い、バンカーズ・トラスト が会社の支配権を握った。
デュラントはその後シボレー の創立(1911年 )に関わり、GMの株を買い戻して1916年 には社長に返り咲き、シボレーを翌年GMの一部とした。彼の復活の背後には、1914年 に最初の投資を行って以降、1950年代までGMに関与し続けたデュポン 社の社長ピエール・S・デュポン (英語版 ) がいた。
1920年 にピエール・S・デュポンはデュラントを追い出してGMの実権を奪い、社長として擁立したアルフレッド・スローン の経営によって現在に繋がる経営基盤が確立され、政争に揺れたフォード を抜いて世界最大のメーカーとなった。商品方針は「どんな予算でも、どんな目的でも」。このために複数のブランド を所有し、北米では最下段にシボレー (1990年 からサターン がシボレーとは別にベーシックブランドとして登場した。また、ジオ というブランドが最下層として存在した時期があった)を、最上段にキャディラック を位置付け、シンプルでベーシックなフォード・モデルT しか作らなかったフォード車に対して、スタイリッシュで、パワフルで高級感のある商品を揃えるという巧妙なマーケティング 戦略や、1919年 に設立されたGMAC の金融サービスによるオートローン やクレジット で消費者を惹きつけ業界シェアナンバー1を維持し、フォードを突き放した。なおフォードは当初顧客にローンを組ませるという販売方法を拒み、1920年代 の後半にようやく似たようなクレジットサービスを提供したが、「フォード・クレジット」というGMACのような信販会社が設立されたのはずっと後の1959年 であった。
1920年代から1930年代 にかけてGMはバス 製造会社イエローコーチを買収し、グレイハウンド 社の創設を手助けした。またGMは1936年 に石油会社スタンダード・オイル・カリフォルニア(のちのシェブロン )やタイヤ会社ファイアストン と共同で「ナショナル・シティ・ラインズ」を創設し、1950年 までに全米各地の路面電車 会社や電鉄 会社を買収し、これをバス運送に置き換えていったが、これは後に自動車関連各社による鉄道縮小の陰謀として非難を浴びた(陰謀論の詳細と正確性についてはアメリカ路面電車スキャンダル 、パシフィック電鉄 を参照)。
初期のフォードは1つの車種(フォード・モデルT )だけを世界中で大量生産したが、一方でGMは初期から各々の地域毎に多種多様な車種を供給し、そのために南北アメリカ、ヨーロッパ 、アジア 、オーストラリア など世界中に生産拠点を設けた。1925年(大正 14年)のアジアを視野に入れたフォード社日本進出に続き、1927年 (昭和 2年)から1941年 (昭和16年)まで、大阪 (現在の大阪市 大正区 鶴町1丁目、大阪市営渡船 船町渡船場付近)に日本法人日本ゼネラル・モータース を設立。シボレー車のアジア向けノックダウン生産および、販売サービスをおこなった。昭和初期の日本国内は、GMのシボレー車とフォード車の独擅場だった。
同じく1925年 にはイギリスのボクスホール を買収、1929年 3月にはドイツのオペル を80%買収、3年後の1931年 には100%とし、さらにオーストラリアのホールデン も傘下に収める。オペル買収でドイツでの自動車製造を利益の大きな重要事業とみていたが、ナチス 台頭後オペルは一旦GMの支配を離れた。子会社ボクスホールなどを通じて戦車 など軍用車両を製造し、第二次世界大戦 下で連合軍を支えたが、一方でオペルはナチスの欧州侵攻を支えた。GM首脳グレアム・K・ハワードやジェームズ・D・ムーニーらはナチスに個人的に深くかかわり、ムーニーは戦争前にヒトラーから受勲するなどしている。1948年 11月GMは再びオペルを支配下に置く。
GMは航空機 製造にも関心を示し、1930年 にフォッカー の子会社アトランティック・エアクラフト・コーポレーション・オブ・アメリカ を買収しゼネラル・アビエーション部門とし、1933年 にはノースアメリカンを買収してノースアメリカン を存続企業としたが、1948年 に株を公開し、F4Fワイルドキャット戦闘機 のライセンス生産後は航空機には携わっていない。
第二次世界大戦中にはM3サブマシンガン やFP-45 などの銃器を製造していた。
第二次世界大戦後~1990年代
戦後、1950年代にはGMはアメリカ最大の会社となり、1953年 には社長チャールズ・E・ウィルソン はアイゼンハワー 政権の国防長官 となり、副社長のハーロー・カーティス が社長に就任した。カーティスの下で、1955年 12月末には、GMはアメリカで最初に年10億ドル以上を稼ぐ企業となった。
1959年、GMの大型建設機械 部門であるユークリッド・トラックス (英語版 ) が生産するホウルトラック や造成 用機器が市場を独占し反トラストを疑われアメリカ合衆国司法省 長官ウィリアム・ピアース・ロジャース (英語版 ) の号令の下クレイトン法 違反で告発される。8年続いた裁判の末、GMはユークリッドブランドの売却に合意し、アメリカ国内での建設機械販売を1968年から1972年の4年間禁止された。この訴訟の裏でGMは新たに建設機械部門Terex を設立、判決に違反しない様、売却を免れていたカナダとスコットランドのユークリッドの工場でトラックの生産を行い、これらにテレックスのブランド名を付けて販売するバッジエンジニアリング の様な手法でこの4年間をしのいだ。
1970年代 以降、オイルショック によって小型車 の需要が高まると、それまでアメリカ国内で開発して来た小型車(コーヴェア、ヴェガ等)をオペル 、いすゞ 等の開発協力を得たモデル(『Tカー 』、『Jカー 』等)に代替するなどの販売戦略の転換が進められたが、品質と生産性の悪化が顕著となり、1981年 から1990年 まで会長職にあったロジャー・スミス の下、さまざまな取り組みが進められた。1984年 にはトヨタ自動車 との合弁会社『NUMMI 』を設立し、QC に関するノウハウの吸収に努めたほか、アメリカ国内の工場のリストラ 、労働条件 の引き下げといった生産性を向上する取り組みにも着手した。日本車やドイツ車のコンセプトを模倣したサターン や高度にロボット 化された工場の失敗などはあったものの、1990年代 初頭には一定の成果を見せるようになった。また、1990年代を通じたアメリカの好景気は、フルサイズ SUV ・ピックアップトラック などの需要を生み出し、アメリカ国内のシェア 低下には歯止めが掛からなかったものの、高い利益率 は好業績を維持することに貢献した。
1996年 にGMは、デトロイトのウォーターフロントに建つ再開発ビルであるルネサンス・センター を買収し、従来の本社ビルであったキャデラック・プレイスから世界本社を移転した。
2000年頃~2008年
2000年 頃からは環境保護 問題の高まりなどの外部環境の変化を受け、消費者 の嗜好は再び燃費の良いサブコンパクトカー やハイブリッドカー にシフトしたが、GMは時代の流れに逆行し高い利益率のフルサイズSUV・ピックアップトラックに集中し続け、むしろ小型車部門のジオ は整理・縮小させる方向にあった。
また2001年 のアメリカ同時多発テロ事件 直後に販売量が落ち込んだ際には、生産量を落とさない方針を採ったため次第に在庫 が増加。在庫を捌くために販売店へのインセンティブ の上乗せや値引き販売 を激化させる悪循環に陥り、2005年 までに企業収益 は一気に悪化した。過去の従業員の退職年金 や医療費 負担なども財務を圧迫し続け、格付け会社 からは社債 を「投資不適格」にランク付けされるに至り株価 は低迷、株式投資会社の介入を招く事態にもなった。部品調達で密接な関係を持つデルファイ・コーポレーション が経営危機を迎えた際にも、直接救済する体力は無かった。
2005年以降は、提携先の株式の処分も進められている。10月 には、資本提携していた富士重工業 (当時)株をトヨタ自動車 へ売却、2006年 にはいすゞ自動車 株を売却し資本提携を解消、2006年3月 には、スズキ 株の大半を売却し、2008年 11月18日 付で資本提携 を完全に解消した。こうした株式の処分は特別利益 となり経営体質の改善に直結するが、一方でGMの伝統である、地域毎に多種多様な車種を生産し融通し合うという特徴(サブコンパクトカーの開発・生産はスズキやいすゞが担った)を薄めることであり、今後の商品開発力低下を危惧する見方もある。
2006年7月 には、カーク・カーコリアン 率いる投資会社 ・トラシンダ から、ルノー=日産アライアンス との提携を推奨され協議に入ることが大々的に報じられたが、GM首脳部には提携の意志はなく、同年10月中に破談し交渉は終了している。
2007年 の自動車販売台数は、トヨタ自動車グループと僅差で世界一(937万台)であったが[ 2] 、ガソリン 価格の高騰、サブプライムローン 問題に端を発する世界金融危機 の影響で、北米 での売上が大きく落ち込んだ。その結果、2007年度決算で3兆円という途方もない額の赤字 を生むこととなった。また、2008年 上半期 には約77年間も守り続けた販売台数世界一の座 もトヨタに明け渡した[ 3] 。
GMは巨額の年金 ・退職者医療の債務を抱え、債務超過 に陥り、株主配当 も停止され、金融市場から債券 発行による資金調達 も困難な状態にあった。GMの純損失額は2005年105億6700万ドル、2006年19億7800万ドル、2007年387億3200万ドルであった。
2008年第1四半期から第3四半期までの財務データは、売上高1186億ドル、営業損失139億ドル、純損失213億ドルであり、第3四半期終了時点で、負債総額は1703億ドル、CDS 残高2000億ドル、債務超過額599億ドル、手元資金162億ドル(3ヵ月のうちに50億ドル減少)であった。2008年第3期の売上高は前年同期比13%減の379億4100万ドルであった。
2008年10月のGMの新車販売台数が前年同月比45%減になる状況の中[ 4] 、10月31日 に米国財務省はGMとクライスラー の合併に必要なリストラ費用100億ドルを、2008年に成立した緊急経済安定化法 から支出することを拒否し[ 5] 、GMはクライスラーとの合併協議を中断した。格付会社 S&P は、GMの格付けを「B-」から「CCC+」に格下げし、見通しもネガティブとした[ 6] 。
2008年11月11日 には株価が2.75ドルと1943年 以来65年ぶりの安値になった。11月のGMの新車販売は2ヶ月連続の4割減、-41.2%だった。
GMは、フォードとクライスラーと共に、アメリカ連邦政府に金融支援を含んだ自動車業界救済法案の採決を求めたが、金融支援をうけるのに必要な経営再建策に具体性がないことなどを理由として、議会は11月に採決を行わなかった。
そこで、GMら3社は、12月1日 に経営再建策を議会に送付し、上院 と下院 で公聴会 が開かれた。下院は自動車業界救済法案を12月10日 にまとめ本会議で可決したが、選挙前の勢力分布で伯仲していた上院では、修正案を採決にもっていくための投票で必要な60票がとれず、12月11日 に廃案となった。
議会での自動車業界救済法案の不成立を受けて、ついにブッシュ大統領 が介入し、12月19日 に、緊急経済安定化法の成立で運用が始まった不良資産救済プログラム(TARP)7000億ドル分のうち、議会承認済みの3500億ドルの中で未使用であった150億ドルを活用して、GMに134億ドル、クライスラーに40億ドルの合わせて174億ドルのつなぎ融資を実施することを決定した。実際に、GMには2008年12月31日 に40億ドル、2009年 1月21日 に54億ドル、2月17日 に40億ドルの3段階に分けた合計134億ドル、クライスラーには2009年1月2日 に40億ドルの、総額で174億ドルのつなぎ融資が実施された。
経営破綻と国有化
オバマ 政権発足後も危機は継続し、2009年2月20日 には、子会社のサーブ・オートモービル がスウェーデン 政府からの公的支援を拒否されたこともあって事実上の経営破綻 に追い込まれた。
2009年4月には、アメリカ政府 は新たにGMに50億ドル、クライスラー に5億ドルの合わせて55億ドルのつなぎ融資を実施することを決定し、実際に4月末にクライスラー への5億ドルの融資が実施された。
しかし会社側と債権者の債務削減交渉 が5月26日 深夜にまとまらず、翌27日に交渉の打ち切りが発表された。結果、米政府が支援を継続する条件を満たせなくなる見通しが強まり、この影響により29日のニューヨーク株式市場 ではGM株価が急落し0.75ドルで取引を終え、1933年 以来76年ぶりに1ドルを割り込む形となった[ 7] 。
2009年6月1日、GMは連邦倒産法第11章 (日本の民事再生手続きに相当する制度)の適用を申請した。負債総額は1728億ドル(約16兆4100億円)。この額は製造業 としては史上最大である[ 8] 。同時にアメリカ政府が60%、カナダ政府が12%の株式を保有する、事実上の国有企業 として再建を目指す事になった。
ニューヨーク証券取引所 は、GMの連邦倒産法第11章の申請を受け、2009年6月2日の取引開始前から同社株を売買停止・上場廃止とした。ティッカー を「GM」から「GMGMQ」に変更した[ 9] 。これを受けてダウ・ジョーンズ は、同社が算出・公表する「ダウ工業株30種平均 」構成銘柄からGMを除外した[ 10] 。同年6月3日には生産設備を含む「ハマー ブランド」の買収について中国 の騰中重工 と合意していたものの、中国政府 からの承認が得られずブランドは廃止となった[ 11] 。
新生GM
2009年 7月10日 、アメリカ政府が61%、残りを全米自動車労働組合 (United Auto Workers、UAW)やカナダ政府などが保有する新会社が設立され、旧GMは社名を「モーターズ・リキデーション・カンパニー」に改称すると共に、新会社に優良資産等を売却する手続(新旧分離 )を完了。「新生GM」が正式に発足した。これを受けモーターズ・リキデーション(ティッカー:GMGMQ)の株価は37%急騰し、40日ぶりに1ドルを超えて終えた。なおモーターズ・リキデーションは7月15日にティッカーを「GMGMQ」から「MTLQQ」に変更している(2011年 3月31日 、「MTLQU」に再変更)。
2010年 11月18日、新生GMは旧GM破綻前のティッカー「GM」を引き継ぎ、ニューヨーク証券取引所に上場を果たした。
2013年 12月9日にアメリカ財務省 は、これまで保有してきたGMの全ての株の売却を完了してGMの国有化を解消した。公的資金として投入した500億ドルのうち、390億ドルは株式の売却で回収し、残りはGMの資産の売却で回収した[ 12] 。
2014年 1月、大手自動車メーカーでは初めての女性のメアリー・バーラ がCEOに就任
[ 13] 。
2014年2月、GMは大規模なリコール を発表[ 14] 。その後、このリコールに関してリコール隠しの疑惑が表面化した。バーラCEOは同年4月1日に下院エネルギー・商業委員会の公聴会に出席し、破綻以前の2001年の段階で不具合を把握したことを認めて陳謝した[ 15] 。
これは、エンジンが停止してハンドルが動かなくなったり、エアバッグ が作動しなくなったりして死亡事故にもつながった欠陥が存在すると知りながら、10年以上も放置していたという悪質なもので、2014年5月16日、運輸省 は、制裁金3500万ドル を科した[ 16] 。
この欠陥が原因で13人が死亡しているとゼネラルモーターズは発表している。しかし、ロイター の調査などによると、少なくとも74人が死亡した疑いがあるとされる。ただ、ロイターの調査は、交通事故分析報告システムで、疑わしい事故を調べるという方法のため、正確なものとはならないという指摘されている[ 17] 。ゼネラルモーターズは、この欠陥について経営陣は把握してなかったとして、組織的隠蔽については否定している[ 18] 。2014年6月16日時点で、既に2014年内のリコールだけで30回以上、リコールした台数は2000万台を超えた[ 19] 。
2015年 9月17日、リコール問題についてゼネラルモーターズは、9億ドルの罰金を支払うことで司法当局と和解した[ 20] 。
2017年 に、ドイツのオペル とイギリスのボクスホール をグループPSA に売却し、欧州市場から撤退した。
2018年 9月1日、ディビア・スリヤデバラ 副社長が最高財務責任者(CFO)に昇格.GMでは初の女性CFO[ 21] 。
2019年 9月16日 、全米自動車労働組合はストライキ に突入。10月25日までの6週間にわたり約4万8000人がアメリカ各地の約50拠点でストライキを行った[ 22] 。
2020年 2月17日、ゼネラルモーターズは2020年限りでタイ王国 でのシボレー 車の製造・販売を終了し[ 23] 、また、オーストラリア 、ニュージーランド 市場で展開していたホールデン ブランド車の販売を2021年 に終了して[ 24] 、右ハンドル車の市場から完全に撤退することを発表した。タイのラヨーン にあるシボレー の工場は長城汽車 が買収することで合意に達したことも併せて発表された[ 25] 。
2020年3月27日、ドナルド・トランプ 大統領は、国内に広がる2019新型コロナウイルスによる急性呼吸器疾患 への対策として国防生産法 を発動、ゼネラルモーターズに人工呼吸器 の製造を命じた[ 26] 。
無視された警告
GM北米乗用車・トラック部門担当副社長(旗艦ブランドのシボレー事業部長から昇進。日本風に言えば専務)に48歳でなったジョン・デロリアン (英語版 ) (彼が作ったデロリアン・DMC-12 は、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー 」にも登場している)は財務部門との内部抗争に敗れ退社し、「晴れた日にはGMが見える」(原題:ON A CLEAR DAY YOU CAN SEE GENERAL MOTORS:1979)というインタビュー記録(本人不承認)が出版された。その中で特に強調されているのは外部や内部からの忠告・提言をたとえどんなものであっても拒絶する姿である。
強く印象に残る内容は経営学者 ・ピーター・ドラッカー がGMを研究した好意的な著書「会社という概念」(1946年)で書かれた「戦後期には組織・事業・目標を見直す必要がある」という穏健な記述に対して起こったGM内部の憤激である。「GMは世界一なのだから、批判はもってのほか」という理屈である。また最上層部(「十四階」)には自動車産業運営の知識と経験と能力がないとも書いている。
ジャーナリスト のデビッド・ハルバースタム は『覇者の驕り―自動車・男たちの産業史』(原著、1986年 )で、GMをはじめとするビッグスリー が驕り高ぶり、その結果として日本車 の攻勢に徐々に破れるも改革を拒む姿勢を描いている。
消費者運動 家・ラルフ・ネーダー が『どんなスピードでも自動車は危険だ』(Unsafe at Any Speed )というシボレー・コルヴェア の欠陥を告発した本を出版したときGMから探偵の尾行を付けられ、GMは議会で謝罪する事態になった。あとで分かったのは、この活動は最上層部の承認なしに自動的に行われたということである。GMは批判を色々な手段で抑圧する会社と見られた(ネーダーは極めて禁欲的な人間であり、全く弱みを見つけることはできなかった)。
現在のGMは「それらは昔のGMであり、今のGMとは異なる」という立場をとっている。しかし、2014年に発覚した大規模なリコール隠し により、税金によって救済されてもゼネラルモーターズの隠蔽体質は変わっていないと批判されている[ 27] 。
研究開発
GMテクニカルセンター
GMの研究開発 は各部門でも行われるなど様々であったが、1949年からミシガン州 デトロイト 近郊のウォーレン (北緯42度30分48秒 西経83度2分16秒 / 北緯42.51333度 西経83.03778度 / 42.51333; -83.03778 座標 : 北緯42度30分48秒 西経83度2分16秒 / 北緯42.51333度 西経83.03778度 / 42.51333; -83.03778 )にエーロ・サーリネン 設計の「GMテクニカルセンター 」(General Motors Technical Center )の建設を始めて、1955年にアイゼンハウアー大統領 も臨席のもとに開所した。[ 28]
この「テックセンター」は710エーカー (287ヘクタール )の広大な土地にビル38棟があり、2万1000人が働いている。各棟には研究開発(冶金 、事務所&展示)、デザイン センター、ザ・レイク(湖)、技術センター、中央カフェテリア 、生産技術 (A&B)部門などがある。GM研究開発はここを中心に、他のGM研究 施設6か所、科学 関係施設6か所、世界の大学 、政府関連機関、サプライヤー 、パートナー などとの連携で進めている。
ブランド一覧
キャデラック・プレジデンシャル・リムジン(アメリカ大統領専用車仕様)
シボレー・サバーバン
現行のブランド
廃止されたブランド
売却されたブランド
主なプラットフォームと使用車
これまで1970年代からの「Tカー」「Jカー」の様なグローバル・プロジェクトがあったものの、基本的には北米・欧州の2(オーストラリア を含めると3)極体制でそれぞれの市場に向けた車種の開発・生産・販売を行い棲み分けを図ってきた。近年ではここに韓国が加わり、全世界・全ブランドにおけるプラットフォームレベルでの融合が加速している。
更に、これまでは北米・欧州由来のGM車を生産していたに過ぎなかった第三世界 における拠点(ブラジル や中国 など)や、車両開発能力がありながら国内(あるいはオセアニア地域)限定の展開に留まっていたオーストラリア(ホールデン)の主導で開発されたプラットフォームやモデルがグローバル市場向けに輸出されるなど、これまでになかった新しい展開も見られる。
アルファ・プラットフォーム
デルタ・プラットフォーム
デルタ
デルタII
イプシロン・プラットフォーム
イプシロン
イプシロンII
ガンマ・プラットフォーム
ガンマ/GM4300
ガンマII
シータ・プラットフォーム
ラムダ・プラットフォーム
カッパ・プラットフォーム
ジータ・プラットフォーム
W プラットフォーム
Y プラットフォーム
モータースポーツ
主にツーリングカー ・スポーツカーレース を中心に活動している。特にシボレーブランドを用いたものが多い。
アメリカ国内最高峰のNASCAR カップ戦では旧くからオールズモビル 、ビュイック 、キャデラック 、ポンティアック 、シボレー など多くのGMブランド車が勝利・タイトルを獲得しており、中でもシボレー はデイトナ500 ・カップ戦 でフォード を大きく引き離して歴代最多チャンピオンブランドとして君臨している。日系人4世のカイル・ラーソン もシボレーでチャンピオンとなった。2018年現在はヘンドリック・モータースポーツ 、チップ・ガナッシ・レーシング といった強豪チームがシボレーで参戦している。なお同レースのシボレーエンジンはヘンドリック・モータースポーツとECR(リチャード・チルドレス・レーシングのエンジン部門)が開発を担当している。
プロトタイプレーシングカー では、1965年にセブリング12時間 、1969年にデイトナ24時間 をシボレーエンジン搭載車が制したのが最も古い記録である。その後は欧州勢の躍進により鳴りを潜めたが、グループC 終焉以後に復活。アメリカン・ル・マン・シリーズ にキャデラック・ノーススターLMPで参戦した他、2012年からグランダム・シリーズ にコルベットを模したデイトナ・プロトタイプ (コルベットDP)で参戦、USCC(ユナイテッド・スポーツカー選手権 )も含めて2016年まで選手権を6連覇した。2017年にDPi 規定が導入されると、ブランドをシボレーからキャデラック へとスイッチ。シャシーは規則によりダラーラ との共同開発で、エンジンはDPiの4メーカー中唯一大排気量自然吸気エンジンを搭載する[ 29] 。このマシンはコルベットDP時代と全く変わらぬ圧倒的な速さでデイトナ24時間 ・セブリング12時間 ・選手権の全てを制覇した。小林可夢偉 も2019・2020年と、キャデラックDPiをドライブしてデイトナ24時間を連覇している。また2017年まで存在していたオレカ・FLM09のワンメイクであるLMPCクラスに、シボレー のV8自然吸気エンジンを供給していた。
GTカーでは1999年にコルベット・レーシングを組織して、シボレー・コルベット でルマン・デイトナ・セブリングに毎年参戦し続けている。コルベット・レーシングはフェラーリ ・ポルシェ 相手に全く譲らず、これまでに8度ル・マンでクラス優勝を飾った。またPWC(ピレリ・ワールド・チャレンジ)にはシボレー・カマロ の他、キャデラック やポンティアック のマシンで参戦している。
世界各地のツーリングカーレースにも参戦しており、英BTCC にはシボレー・ボクスホール ・オペル (後2社は2017年にPSAに売却)、旧ドイツツーリングカー選手権 (DTM一期)にはオペル、ストックカー・ブラジル とアルゼンチン のスーパーTC2000 、豪州スーパーカーシリーズ(旧V8スーパーカー はホールデン ブランド)はシボレーブランドがそれぞれ活躍し、数多のタイトルを獲得している。ストックカー・ブラジルは、当地のシボレーディーラー協会をルーツに持つため、歴史のほとんどがシボレー車のワンメイクである。世界選手権のWTCC にも2005年にシボレーブランドを欧州に復活させた際に参戦を開始、イヴァン・ミュラー とロバート・ハフ により、2010~2012年にドライバー・マニュファクチャラー三連覇を達成した。2013年以降はマニュファクチャラーとしての参戦からは撤退したが、プライベーターのRMLがシボレー・クルーズ を開発・供給することで存続し続け、2013年はワークス勢を差し置いてミュラーがドライバーズタイトルを獲得している。
北米オープンホイール の最高峰インディカー・シリーズ にたびたび参戦し、1986~1993年にはインディ500 で6連勝を飾り、同期間のCART でも1993年を除いて5連覇を達成している。その後シボレーからオールズモビル (オーロラ)へとブランドをスイッチし、こちらでも1997年から2002年の間インディ500を5連覇している。2005年に撤退したが、V8自然吸気からV6ターボへ切り替わった2012年に復帰。復帰後のチャンピオンシップ獲得数ではホンダを上回っている。過去にはフォーミュラ5000 にエンジン供給していたほか、ジュニアカテゴリのフォーミュラ・シボレー(ブラジル)やフォーミュラ・オペル、フォーミュラ・ボクスホールJr.(ともに欧州)なども運営していた。日本人で初めてマカオグランプリF3優勝・インディ500制覇を果たした佐藤琢磨 も、フォーミュラ・オペルとフォーミュラ・ボクスホールJr.の出身である。
2026年 からキャデラック のブランド名(キャデラックF1チーム )でF1 に参戦し、2028年 からパワーユニット も自製するフルワークスチーム とする予定である[ 30] 。
ラリーではグループ4およびグループB 時代にオペル がWRC に参戦し、1982年にヴァルター・ロール がドライバーズタイトル、1993年に下位クラスのFIA 2リッターカップを獲得しているが、それ以外はほとんど記録は無く、地域ラリーでもGM車を見ることは滅多にない。他方北米のラリーレイド やオフロードレースではGM製ピックアップトラック がよく見られる。
日本のレースカテゴリでは、JTCC (全日本ツーリングカー選手権)やJGTC (全日本GT選手権)にボクスホール・ベクトラ とオペル・アストラ が、SUPER GT にコルベットが参戦していたが、いずれも大きな戦果を残せずに終わっている。またシボレー・キャバリエ のOEMであるトヨタ・キャバリエ も、FF車ながらN1耐久(後のスーパー耐久 )やJGTCに参戦していた。
インディカーのダラーラ・シボレー(2015年)
グランダムのコルベットDP(2012年)
ル・マンとデイトナに参戦するシボレー・コルベットC.7R(2014年)
キャデラック・ノーススターLMP(2002年)
シボレーエンジンを搭載するオレカFLM09(2010年)
オペル・アスコナ400(1982年型)
BTCCのボクスホール・アストラ(2006年)
V8スーパーカーのホールデン・コモドア(2012年)
日本での販売と日本法人
1915年 (大正 4年)創業の梁瀬自動車(現ヤナセ )が輸入代理店としてGMのビュイック、キャディラックの販売を開始。当時の表記は、ビュイックは『ビウイク号』、キャディラックは『カデラツク号』だった。のちシボレー号も販売開始。
1925年 (大正14年)、フォードが日本に進出し、神奈川県 横浜市 に組立工場を開業した。GMは1927年 、大阪市 港区 (現・大正区 )鶴町 一丁目(現在の大阪市営渡船船町渡船場付近)に日本法人の「日本ゼネラル・モータース 」を設立し、組立工場でのシボレー車の完全ノックダウン生産 と販売を行う。フォード同様、日本だけでなく中華民国 や満洲国 などアジア全体を視野に入れての進出だった。
日本における影響は大きく、全国に渡る自動車販売サービス (販売・整備)網を構築し、以後の自動車販売業界はここから発展したものである。昭和初期の日本国内の中型車市場は、GMのシボレー車とフォード車の独擅場だった。
しかし1930年代 中盤には日米間の関係が悪化、1936年 (昭和 11年)の自動車製造事業法 施行により日産自動車 や豊田自動織機 などの国産メーカーのみに大量生産が許され、発展の余地がなくなり、さらに1941年 (昭和16年、大東亜戦争 開戦の年)に日本から撤退した。
第二次世界大戦 後、再びヤナセが日本市場の販売代理店を長期間つとめる一方、車種によっては西武自動車販売 、日英自動車 、東邦モーターズ 、三井物産 オートモーティブもGM車販売に参入していた。
近年の日本法人は日本ゼネラルモーターズ (GMJ)とゼネラルモーターズ・アジア・パシフィック・ジャパン(GMAPJ)の2社体制であったが、2011年 (平成 23年)に両社は合併し、「ゼネラルモーターズ・ジャパン株式会社 」となった。現在はキャデラックとシボレーブランドを販売している。
提携関係
脚注
注釈
^ 販売をシボレーや「SUZUKI」ブランドで行う。販売は引き続き各国現地のシボレーディーラーを通じて行われる。
出典
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外部リンク
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ジョンソン・エンド・ジョンソンと台湾積体電路製造は同率45位。
プロクター・アンド・ギャンブルとステランティスは同率59位。
ゼネラルモーターズと日本電信電話は同率71位。
中国海洋石油と興業銀行は同率82位。
チャブ・リミテッドとイタウ・ウニバンコは同率88位。
コストコ・ホールセールとミュンヘン再保険は同率96位。