アメリカ文学(、英: American literature)とは、アメリカ合衆国の文学、及びそれらの作品や作家を研究する学問のこと。米国文学(べいこくぶんがく)、米文学()とも言う。また、イギリス文学と合わせて英米文学と呼ぶこともある。『English literature』の場合、英国や合衆国に限らず英語による各地域の文学を含むことがある。しかし現代ではアメリカ人の特異な性格と作品の幅広さによって、イギリス文学とは別の系統と伝統が出来てきたと考えられることが多い。
この時代には詩人も幾人かいた。エドワード・テイラー(1642年頃 - 1729年)[4]も著名になった。マイケル・ウィグルスワース(1631年 - 1705年)は最後の審判の日のことを書いた詩『運命の日』(en:The Day of Doom)がベストセラーになった。ニコラス・ノイズは韻律がそろっていない詩を書いたことで知られている。特筆すべきなのは、17世紀の女性詩人、アン・ブラッドストリート(1612年 - 1672年)であり、宗教色の強いその作品はフェミニズム批評の発展もあいまって、現在注目を浴びている。
米英戦争と共にアメリカ固有の文学や文化を生み出したいという願望が増し、多くの新しい文学界の重要な人物が現れた。その中でもワシントン・アーヴィング(1783年 - 1859年)、ウィリアム・カレン・ブライアント(1794年 - 1878年)、ジェイムズ・フェニモア・クーパー(1789年 - 1851年)およびエドガー・アラン・ポー(1809年 - 1849年)が特筆される。アーヴィングはアメリカ固有のスタイルを開発した最初の作家と考えられることが多く(ただし異論が出ている)、『サルマガンディー』(Salmagundi)や良く知られた風刺『ディートリヒ・ニッカーボッカーによるニューヨークの歴史』(A History of New York, by Diedrich Knickerbocker、1809年)でユーモアある作品を著した。ブライアントはロマンチックで自然に触発された初期の詩人であり、ヨーロッパの影響から離れた。1832年、ポーは短編小説を書き始めた。その中には『赤死病の仮面』(The Masque of the Red Death[11]、1841年)、『落とし穴と振り子』(The Pit and the Pendulum[12]、1842年)、『アッシャー家の崩壊』(The Fall of the House of Usher[13]、1839年)および『モルグ街の殺人』(The Murders in the Rue Morgue、1841年)があり、人間心理の以前は隠されていた面を探求し、小説の範囲を推理小説やファンタジーにまで拡げた。クーパーのナッティ・バンポーに関する『レザーストッキング・テイルズ』(Leatherstocking Tales、『モヒカン族の最後』(The Last of the Mohicans[14])はその第2作)は国内でも海外でも好評を博した。
19世紀アメリカの二人の偉大な詩人は気質もスタイルもほとんど異なったものと言うことができる。ウォルト・ホイットマン(1819年 - 1892年)は、労働者、漂泊者、南北戦争では志願看護士であり、詩の革新者だった。その代表作『草の葉』(Leaves of Grass[23])は、不規則な長さをもつ自由に流れる行でできており、アメリカ的民主主義の全的包括性を表している。この主題を一歩進め、自分勝手にならずに幅広いアメリカ人の体験を自身のものと同一視している。例えば、『草の葉』の中心で長い詩、『ぼく自身の歌』(Song of Myself[24])では、「あらゆる年齢とあらゆる土地の全ての人は私にとって新しいものではないという思想が実際にある」と書いている。
ディキンソンの詩の多くは意地の悪いひねりを伴う死について論じている。例えば、『私は死について考えるのを止められないから』(Because I could not stop for Death[25])は、「彼が親切にも私を止めさせた」で始まっている。ディキンソンの別の詩の冒頭は男性が支配する社会に生きる女性、かつ認められていない詩人としてのその立場を、「私は誰でもない!貴方は誰?貴方も誰でもないの?」と弄んでいる。
マーク・トウェイン(1835年 - 1910年、本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンズ)はアメリカ東海岸とは離れて(ミズーリ州の州境)生まれたアメリカ人作家としては初めての重要人物だった。その土地を舞台にする傑作は自伝『ミシシッピの生活』(Life on the Mississippi[26])と小説『ハックルベリー・フィンの冒険』(Adventures of Huckleberry Finn[27])である。トウェインのスタイルはジャーナリズムの影響を受け、方言を取り入れ、直接的で飾り気が無いが高度に感情に訴えるものがあって不敬にもユーモラスである。これがアメリカ人の言語を書く方法を変えた。その登場人物は方言と新しく発明した言葉や地域のアクセントまで使って実在の人物のように話し、明らかにアメリカ人のように聞こえる。その他地域的な違いや方言で興味ある作家としては、ジョージ・W・ケーブル(1844年 - 1925年)、トマス・ネルソン・ペイジ(1853年 - 1922年)、ジョーエル・チャンドラー・ハリス(1848年 - 1908年)、メアリー・ノアイユ・マーフリー(1850年 - 1922年、筆名チャールズ・エグバート・クラドック)、サラ・オーン・ジューエット(1849年 - 1909年)、メアリー・E・ウィルキンス・フリーマン(1852年 - 1930年)、ヘンリー・カイラー・バナー(1855年 - 1896年)およびウィリアム・シドニー・ポーター(1862年 - 1910年、筆名オー・ヘンリー)がいる。
ウィリアム・ディーン・ハウェルズも、『サイラス・ラパムの出世』(The Rise of Silas Lapham)のような小説や「アトランティック・マンスリー」の編集者としての仕事を通じてリアリストの伝統を代表する者である。
ヘンリー・ジェイムズ(1843年 - 1916年)は旧世界と新世界について直接書くことでそのジレンマに直面した。ジェイムズはニューヨーク市で生まれたが成人してからの大半はイングランドで過ごした。その小説の多くはヨーロッパに住んでいるか旅しているアメリカ人を描いている。ジェイムズの小説は、その錯綜し高度に抑えられた文章と感情と心理のあやに対する分析とで、人を怯えさせるものがある。ヨーロッパに来た魅力的なアメリカ人少女を描いた小説『デイジー・ミラー』(Daisy Miller[28])や謎のような怪談『ねじの回転』(The Turn of the Screw[29])がまだとっつきやすい作品である。
世紀の変わり目
20世紀の始めにアメリカの小説家は小説の社会的領域を上流から下流まで広げていき、時にはリアリズムの自然はにも結びついた。エディス・ウォートン(1862年 - 1937年)は短編や小説で、彼女が育ったアメリカ東海岸の社会である上流階級を観察した。その傑作の中でも『無知の時代』(The Age of Innocence[30]、1920年)は、魅力ある部外者よりも伝統的で社会的に受容される女性との結婚を選ぶ一人の男を主題にしている。これと同じ頃、南北戦争の小説『赤い武功章』(The Red Badge of Courage)で知られたスティーヴン・クレイン(1871年 - 1900年)は、『街の女マギー』(Maggie:A Girl of the Streets、1893年)でニューヨークの娼婦の生涯を描いた。またセオドア・ドライサー(1871年 - 1945年)は『シスター・キャリー』(Sister Carrie、1900年)でシカゴに移転し、愛人になる田舎娘を描いた。ハムリン・ガーランド(1861年 - 1940年)とフランク・ノリス(1870年 - 1902年)は自然主義者の観点からアメリカの農夫の抱える問題など社会的問題について書いた。
カナダで生まれシカゴで育ったソール・ベロー(1915年 - 2005年)が第二次世界大戦後の数十年間で最も影響力あるアメリカの小説家になった。『オーギー・マーチの冒険』(The Adventures of Augie March)や『雨の王ヘンダソン』(Henderson the Rain King)といった作品で、ベローはアメリカの都市の生き生きとした肖像とそこに住む典型的な人々を描いた。ベローは1976年にノーベル文学賞を受賞することになった。
J・D・サリンジャー(1919年 - 2010年)の『ナイン・ストーリーズ』(Nine Stories)と『ライ麦畑でつかまえて』 (The Catcher in the Rye)から、シルヴィア・プラス(1932年 - 1963年)の『ベル・ジャー』(The Bell Jar)まで、アメリカの狂気は国民の文学表現の前線にまで置かれた。『ロリータ』(Lolita)を書いたウラジーミル・ナボコフ(1899年 - 1977年)のような移民作家がその主題で台頭し、ほとんど同じ頃にビートニクスはその失われた世代の先達から離れて申し合わせたような一歩を踏み出した。
ビート・ジェネレーションの詩や小説は、大半がニューヨーク市のコロンビア大学周辺に形成された知識人のサークルから生まれ、幾らか後にサンフランシスコで明確に確立され、時代のものとなった。「ビート」という言葉は全く同時にジャズシーンの反体制文化的リズムにも使われ、戦後社会の保守的ストレスに関する反逆の意味で、またドラッグ、アルコール、哲学および宗教、特に「禅」を通じた新しい形の精神的な体験における興味にも使われた。アレン・ギンズバーグ(1926年 - 1997年)はホイットマン流の作品であるその詩『吠える』(Howl)で、「私は狂気によって破壊された私の世代の最良の心を見た」で始め、この動きの調子を定めた。これと同時にその親友であるジャック・ケルアック(1922年 - 1969年)はビートのはしゃぎ回り、おおらかで気まぐれな生活様式を、多くの作品の中でも傑作で最も人気のあった小説『路上』(On the Road)で祝した。
具体的に戦争小説に関して、第二次世界大戦後の時代にアメリカでは文学的な爆発があった。ノーマン・メイラー(1923年 - 2007年)の『裸者と死者』(The Naked and the Dead、1948年)、ジョゼフ・ヘラー(1923年 - 1999年)の『キャッチ=22』(Catch-22、1961年)およびカート・ヴォネガット(1922年 - 2007年)の『スローターハウス5』(Slaughterhouse-Five, or The Children's Crusade、1969年)などの作品が良く知られたものである。バーバラ・ガーソン(1941年 - )が書いた『マクバード』(MacBird)は戦争の愚かさを白日に曝したもう一つの作品として受け入れられた。
フラナリー・オコナー(1925年 - 1964年)もマーク・トウェインやアメリカ文学史の中で他の指導的作家にとって大切だったアメリカ文学における「南部」という主題を開拓し発展させた。その作品は『賢い血』(Wise Blood、1952年)、『烈しく攻むる者はこれを奪う』(The Violent Bear It Away、1960年)や最も良く知られた短編である『すべて上昇するものは一点に集まる』(Everything That Rises Must Converge)、さらに死後の1965年に出版されたオコナー短編集がある。
New Immigrant Literatures in the United States: A Sourcebook to Our Multicultural Literary Heritage by Alpana Sharma Knippling (Westport, Connecticut: Greenwood, 1996)
Asian American Novelists: A Bio-Bibliographical Critical Sourcebook by Emmanuel S. Nelson (Westport, Connecticut: Greenwood Press, 2000)