教職をしばらく試した後、ニューヨーク・ハンティントンに戻り、自身の新聞『ロングアイランダー』 (Long-Islander) を創刊する。ホイットマンは出版者、編集者、印刷工、販売、配達までをすべて自ら担った。10ヶ月後、出版所を E. O. Crowell へ売り渡し、Crowell による最初の号は1839年7月12日に出版された[28]。ホイットマンが出版した『ロングアイランダー』は一部も残っていない[29]。1839年夏、ホイットマンはジャマイカ地区の『ロングアイランド・デモクラット』 (Long Island Democrat、編集長 James J. Brenton) の植字工となるが[28]、すぐにこの職を去り、1840年冬から41年春にかけて再び教壇に立ち、その後5月にはニューヨークへ移った[30]。ニューヨークでは主に『ニューワールド』紙にて、詩人でジャーナリストのパーク・ベンジャミン・シニアや批評家ルーファス・ウィルモット・グリスウォルドのもとで下働きをした[31]。その後1940年代は、ブルックリン・イーグル紙で2年間編集に携わるなどさまざまな新聞社を転々としつつ、散文や詩をフリーランスで発表しつづけた[32]。
ホイットマン自身の言によれば、何年ものあいだ「普通の報酬」 ("the usual rewards") のために働いた後、彼はついに詩人になることを決意した[33]。当初は、当時の文学趣味に合わせたさまざまな大衆的文学のジャンルを試していた[34]。詩集『草の葉』の原型となる作品は、すでに1850年に着手しており[35]、生涯、手を加えつづけることとなる[36]。ホイットマンが書こうとしたのは、真にアメリカ的な叙事詩であり[37]、聖書の韻律を利用した自由詩の形式を用いた[38]。1855年6月末、ホイットマンは『草の葉』の初版を見せて兄弟を驚かせた。弟ジョージは「読むに値しないと考えた」[39]。
南北戦争開戦の頃、ホイットマンは北軍を鼓舞する愛国的な詩「叩け!叩け!太鼓を!」("Beat! Beat! Drums!") を発表した[58]。ホイットマンの弟ジョージはユニオン(北部諸州)軍に入り、ウォルトに最前線の生々しい様子を詳しく記した手紙を送ってきていた[59]。1862年12月16日、『ニューヨーク・トリビューン』紙に掲載された戦死者・戦傷者名簿中に「 G・W・ホイットモア中尉」 ("First Lieutenant G. W. Whitmore") の名を見たホイットマンは、それが弟ジョージではないかと思い[60]、即座に南部へ向かった[61]。途中で財布を盗まれ、「馬車に乗ることができず、昼も夜も歩き続け、情報を得ようと、高い地位にある人に会おうと」したと、後にホイットマンは記している[62]。やがて頬に軽い傷を負っただけで無事であったジョージに会うことができた[60]が、傷ついた兵士たちの姿や、積み上げられた兵士たちの切断された手足の光景に強く衝撃を受けたホイットマンは、 二度とニューヨークには戻らない覚悟で1862年12月28日、ワシントンD.C.へ向けて出発した[61]。
ワシントンD.C.では、友人のチャーリー・エルドリッジのつてで陸軍主計官の事務局で時間給の仕事を得、空いた時間は陸軍病院で志願看護師として働いた[63]。ここでの経験は、1863年、ニューヨークのとある新聞に発表した「偉大なる病人軍」 ("The Great Army of the Sick")[64] および、12年後に発表した書籍『戦争の思いで』 (Memoranda During the War)[65] にまとめられている。当時、彼はエマーソンを頼って、政府での職を得ようとしている[61]。エマーソンは、友人ジョン・トローブリッジを介して、財務省長官サーモン・チェイスへ推薦状を送り財務省での職の斡旋を依頼したが、チェイスの返答は『草の葉』のようないかがわしい本の著者は雇いたくないというものであった[66]。
ところが、ホイットマンは1865年6月30日付けの解雇を通告されてしまう[72]。新しく内務長官に就任した、前アイオワ州代表上院議員のジェームス・ハーランによる解雇であった[71]。ハーランの解雇は「ほとんど自分の机に座っていない」何人かの職員に対してのものであったが、ホイットマンに関しては、『草の葉』1860年版を目にしたハーランが道徳的観点から解雇に及んだ可能性もある[73]。オコーナーの抗議により、ホイットマンはJ・ハブリー・アシュトンによって7月1日付けで法務長官事務局への異動となった[74]。オコーナーの怒りはそれでも収まらず、ホイットマンの正当性を証明すべく、1866年1月、かなりの偏りと誇張を含む伝記 The Good Gray Poet を出版する。この50セントの冊子の中でホイットマンは根っからの愛国者として擁護されており、ホイットマンのあだ名の由来となるとともに、彼の人気を高めることとなった[75]。ホイットマンの人気を高めたもう一つのきっかけが、詩「ああ船長!我が船長!」 ("en:O Captain! My Captain!") の発表である。エイブラハム・リンカーンに捧げられ、ホイットマンとしては伝統的な形式で書かれたこの詩は、ホイットマンの生前にアンソロジーに収められた唯一の作品である[76]。
法務長官事務局でのホイットマンの仕事の一つは、大統領特赦を求める元連合国兵士の面接にあたることであった。後にホイットマンは、「中にはほんとうに面白い人々がいる」「ぼくが変わったものが大好きなのは知っているだろう」と記している[77]。1866年8月、『草の葉』の新しい版の準備のため1か月の休暇をとったが、出版元探しが難航し、出版は1867年にずれこんだ[78]。彼はその当時はこれを決定版とするつもりであったようだ[79]。1868年2月、ウィリアム・マイケル・ロセッティの力により、イギリスで『ウォルト・ホイットマン詩集』 (Poems of Walt Whitman) が刊行された[80]。刊行に際してはいくつかの改変がなされ、ホイットマンもしぶしぶながら了承している[81]。この詩集は、当地で人気の高いアン・ギルクリストの推薦を受けたこともあり、イギリスで人気となった[82]。1871年には、『草の葉』の新しい版が再び刊行された。同じ年に、ホイットマンが鉄道事故で死亡という誤報が流れたこともあった[83]。ホイットマンの国際的名声は高まっていたが、本人は1872年1月まで法務長官事務局に勤務した[84]。1872年の大半は、関節炎に苦しむ80歳を迎えようとする母の面倒を見るのに費やした[85]。この年は旅行もし、6月26日にはダートマス大学に招待され、学位授与式で講演を行った[86]。
ホイットマンは禁酒運動の賛同者で、ほとんどアルコールを口にしなかった。ある時には、30歳になるまで「強い酒」は飲んだことがなかったと述べており[99]、禁酒令の施行を主張する時もあった[100]。初期の長編作品の一つは、1842年11月23日に出版した小説『フランクリン・エヴァンズ、または飲んだくれ』 (Franklin Evans; or, The Inebriate) であり、禁酒運動小説であった[101]。ホイットマンがこの小説を書いたのはワシントニアン運動(禁酒を助け合う互助運動)の最盛期であったが、この運動と同様、『フランクリン・エヴァンズ』にも批判が多かった[102]。後年、ホイットマンはこの本について恥ずかしく思っていると述べ[103]、「いまいましいたわごと」 ("damned rot") と呼んでいる[104]。そして、酒に酔っぱらった状態で、金のために3日間で書き上げたものだといって片付けている[105]。しかしながら、他にも『狂人』 (The Madman) や短編の『ルーベンの最後の願い』 ("Reuben's Last Wish") など禁酒を勧める作品を著わしている[106]。
詩論
ホイットマンは『草の葉』1855年版の序に、「詩人の証とは、詩人が国に自らを捧げるのと同じくらい深い愛情をもって国が彼を取り込んでくれるかだ」と述べている[107]。ホイットマンは詩人と社会の間には、欠くことのできない、共生関係があると信じていた[108]。このようなありようは、「ぼく自身の歌」 ("Song of Myself") において全能的な一人称の語りを用いることで特に強調されている[109]。アメリカの叙事詩として、抜きんでた英雄を登場させる伝統的手法から逸れて、普通の人のアイデンティティを帯びさせている[110]。『草の葉』はまた、当時のアメリカ合衆国において進行していた都市化が大衆に与える影響も反映している[111]。
ホイットマンに女性との性的関係があったという証拠もいくつかある。1862年の春には、エレン・グレイというニューヨークの女優とロマンティックな友情を交わしているが、性的な関係もあったのかは定かでない。何十年も後にカムデンへ引っ越した際に、彼女の写真をまだ持っており、彼女のことを「私のなつかしい恋人」 ("an old sweetheart of mine") と呼んでいる[123]。1890年8月21日付けの手紙では、「6人のこどもがいる。2人は死んだ」と述べているが[124]、この記述を裏付けるものは一つも発見されていない[125]。最晩年には、昔の恋人の話をたびたびし、『ニューヨーク・ヘラルド』紙に掲載された「一度も恋愛をしたことがない」という疑いを否定した[126]。
^Reynolds, 586. 原文:"L. of G. at last complete—after 33 y'rs of hackling at it, all times & moods of my life, fair weather & foul, all parts of the land, and peace & war, young & old".
^Kaplan, 311–312. 原文:"We were familiar at once — I put my hand on his knee — we understood. He did not get out at the end of the trip — in fact went all the way back with me."
^McKenna, Neil. The Secret Life of Oscar Wilde. Century, 2003: 33. ISBN 0-465-04438-7. 原文:"I have the kiss of Walt Whitman still on my lips".
^Kantrowitz, Arnie. "Edward Carpenter". Walt Whitman: An Encyclopedia, J.R. LeMaster and Donald D. Kummings, eds. New York: Garland Publishing, 1998.
^Nelson, Paul A. "Walt Whitman on Shakespeare". Reprinted from The Shakespeare Oxford Society Newsletter, Fall 1992: Volume 28, 4A. 原文:"Conceiv'd out of the fullest heat and pulse of European feudalism -personifying ill unparalleled ways the medieval aristocracy, its towering spirit of ruthless and gigantic caste, with its own peculiar air and arrogance (no mere imitation) -only one of the "wolfish earls" so plenteous in the plays themselves, or some born descendant and knower, might seem to be the true author of those amazing works -works in some respects greater than anything else in recorded literature."
^Reynolds, 4. 原文:"You cannot really understand America without Walt Whitman, without Leaves of Grass... He has expressed that civilization, 'up to date,' as he would say, and no student of the philosophy of history can do without him."
^Pound, Ezra. "Walt Whitman", Whitman, Roy Harvey Pearce, ed. Englewood Cliffs, NJ: Prentice-Hall, Inc., 1962: 8. 原文:"America's poet... He is America."
^Kaplan, 22. 原文:"the great poet of America so far"
^Walter Wells Silent Theater: The Art of Edward Hopper, Phaidon, London/New York, 2007
^Bloom, Harold. Introduction to Leaves of Grass. Penguin Classics, 2005. 原文:"If you are American, then Walt Whitman is your imaginative father and mother, even if, like myself, you have never composed a line of verse. You can nominate a fair number of literary works as candidates for the secular Scripture of the United States. They might include Melville's Moby-Dick, Twain's Adventures of Huckleberry Finn, and Emerson's two series of Essays and The Conduct of Life. None of those, not even Emerson's, are as central as the first edition of Leaves of Grass."