ニューヨーク州ナイアック(Nyack)に生まれる。商業美術の学校に進んだのち、ニューヨーク美術学校(New York School of Art)で絵画を学ぶ。アシュカン派(ごみ箱派、アッシュカン・スクール)の指導的画家であるロバート・ヘンライは同校の教師であり、アメリカン・ライフの写実的描写はその影響とされる。
1925年に制作された[House by the Rail Road]はホッパーの最初期の連作の一つで、その後の彼のスタイルを決定づけた作品である。都会の街路、オフィス、劇場、ガソリンスタンド、灯台、田舎家などアメリカ人には見慣れた都市や郊外の風景を、単純化された構図と色彩、大胆な明度対比、強調された輪郭線で描く孤独な雰囲気漂う作品は今日のアメリカでも高い人気をもっている[1]。
ホッパーは子供時代から優秀で、5歳のときには既に絵の才能を示していた。父親の知的傾向とフランスやロシア文化への情熱をすぐに吸収し、また母親から芸術的な才能も引き継いでいた[9]。両親は芸術を奨励し、教育雑誌や図鑑などの資料を与えた。10歳のときに初めて自分の絵にサインし、日付を記入し始めた。これらの最初期の作品には、花瓶、ボウル、カップ、箱など、幾何学的な形の木炭のスケッチが見られる[10]。ホッパーがキャリアを通じて描いた光と影の細かい描写は、これらの初期の作品にすでに見られる。十代にはペンとインク、木炭、水彩、油彩等で自然モチーフを描いていたほか、政治的なカートゥーンも描いていた[11]。1895年、最初のサイン入りの油絵[Rowboat in Rocky Cove]を制作。これは、初期にはホッパーが船舶の主題へ興味があったことを示している[12]。
ホッパーの教師の1人、ロバート・ヘンライは写生を指導した。ヘンライは生徒たちにアートで「世界をかき混ぜる」よう奨励。「重要なのはテーマではなく、何を感じるかである」「芸術を忘れて、興味のあるものを描きなさい」と説き、その後画家となるジョージ・ベローズやロックウェル・ケントなどにも影響を与えた。[13]。ヘンライは作品に現代の精神を吹き込むことを奨励し、ジョン・スローンを含むヘンライの周囲にいたアーティストの一部は、アッシュカン・アメリカン・アートスクールとしても知られる「ザ・エイト」のメンバーとなった[17]。インテリアを主題としたホッパーの現存する最初の油絵は、[Solitary Figure in a Theater (1904)]である[18]。学生時代、ホッパーは自分の自画像を含む数十のヌード、静物、風景、肖像画を制作した[16]。
苦難の数年間を経て、ホッパーはいくらか認められ始めた。1918年に戦争ポスター[Smash the Hun]で米国海運委員会賞を受賞。さらに3つの展覧会(1917年独立アーティスト協会、1920年/1922年ホイットニー美術館の前身・ホイットニースタジオクラブ)に参加した。1923年にはエッチング作品を評価され、エッチャーズシカゴ協会からローガン賞とW. A.ブライアン賞をダブル受賞した[31]。
Girl at Sewing Machine(1921)
1920年代はじめから、大衆も徐々にホッパーのエッチング作品を受け入れ始める。この時期、沈黙している夫婦を描いた[Night on the El Train]、孤独な女性が佇む[Evening Wind]、シンプルな航海シーンの[The Catboat]などのエッチング作品には、すでにホッパーの後期テーマが使われている[32]。この時期の注目すべき2つの油絵は、[New York Interior (1921)]と[New York Restaurant (1922)]である。またこの時期に、その後多く描くこととなる「窓」をテーマとして[Girl at Sewing Machine]と[Moonlight Interior]の2点を制作した。どちらもアパートの窓の近くの人物(着衣または裸体)を室内もしくは窓の外から描いたものである[31]。
1927年制作の[Two on the Aisle]は自己最高額の1,500ドルで購入された。このおかげでホッパーは自動車を購入し、ニューイングランドへの絵画旅行に使用することができた[35]。1929年には[Chop Suey] と [Railroad Sunset]を制作。翌年、パトロンであるスティーブン・クラークは、[House by the Rail Road(1925)]をニューヨーク近代美術館初の油絵コレクションとして同館に寄贈した[36]。
1929年からの大恐慌の間、ホッパーは他の多くの芸術家よりもましな境遇だった。1931年にホイットニー美術館やメトロポリタン美術館などの主要な美術館がホッパーの作品を数千ドルで購入し、その名声は急上昇した。その年、水彩画13点を含む30点の絵画を販売。翌年には最初のホイットニー・ビエンナーレに参加し、その後生涯を通じて毎年同展に参加し続けた[35]。1933年、ニューヨーク近代美術館は初めてホッパーの大規模な回顧展を開催した[38]。同展の図録に「NOTES ON PAINTING(絵画をめぐる覚書)」[39]という文章を寄せている。
1930年、ホッパー夫妻はケープコッドのサウストルロにコテージを借りた。毎年夏を同地で過ごし、1934年には家を建てた[40]。絵の題材を探す必要があるときは、そこから他の地域へ車で旅行することもあった。1937年と1938年の夏、夫妻はホッパーがホワイトリバーの連作の水彩画を描いたバーモント州サウスロイヤルトンのワゴンホイール・ファームに長期滞在した。これらはホッパーの壮年期の作品の中では典型的なもので、ほとんどが「純粋な」風景画であり、建築物や人物が見当たらない。[Branch of the White River (1938)]は現在ボストン美術館にあり、ホッパーのバーモントの風景画の中で最もよく知られる
1930年代から1940年代初頭にかけては非常に精力的に活動し、[New York Movie (1939)]、[Girlie Show (1941)]、[Nighthawks(1942)]、[Hotel Lobby(1943)]、[Morning in City (1944)]など、数多くの著名な作品を生み出した。しかし1940年代後半は比較的無活動の期間を過ごし、「もっと描きたい。読書や映画はもう飽き飽きだ」と漏らした[42]。その後の20年間、ホッパーの健康状態は悪化し、前立腺手術やその他いくつかの健康的問題を抱えた[42]が、1950年代から1960年代初頭にかけて[First Row Orchestra (1951)]、[Morning Sun (1952)] 、[Hotel by a Railroad (1952)]、[Intermission (1963)]などのよく知られる作品を制作した[43]。
ホッパーが特に注意を払ったのは、幾何学的なデザインと、周囲の環境とバランスが取れるよう人物を配置することだった。ホッパーは慎重で几帳面な芸術家であり、「アイデアが浮かぶまでに長い時間がかかるし、さらにその後もじっくりと考える必要がある。絵を描き始めるのは、すべてが頭の中で上手く収まってからだ。イーゼルに向かう時には、もう大丈夫だ」と述べている。[56]構図を綿密に計算して練り上げるために、しばしば下絵を描いている。ホッパーとジョセフィンは、「照明の当たっていない悲しい顔の女性」「天井からの電灯」などの項目を記した、作品の詳細な台帳をつけていた。
[New York Movie (1939)]の制作時には、ホッパーは劇場の内装や物思いにふける案内係のスケッチを53枚以上も描き、徹底した準備をしている。[57]
Early Sunday Morning
光と影を効果的に使っていることも、ホッパー作品の主要な技法のひとつである。明るい陽光とそれが落とす影は、[Early Sunday Morning(1930)]、[Summer Time(1930)]、[Seven A.M(1948)]、[Sun in an Empty Room(1963)]といったホッパーの絵画で洞察や啓示の象徴として大きな役割を果たしている。ホッパーの光と影の効果の使い方は、同じくコントラストの強いフィルム・ノワールの撮影技法と比較される。[58]
美術展
1980年に、ホッパーの美術展「The Art and the Artist」がホイットニー美術館で開かれ、ロンドン、デュッセルドルフ、アムステルダム、サンフランシスコ、シカゴを巡回。この美術展では、ホッパーの油絵とその習作が初めてヨーロッパに発表された。これがホッパーのヨーロッパでの人気、および世界的な評判の始まりとなる。
2010年、スイスのローザンヌにあるエルミタージュ財団(Fondation de l'Hermitage)の美術館がホッパーの全キャリアを網羅した美術展を開催し、ニューヨークのホイットニー美術館から多くの作品が貸し出された。これには絵画、水彩画、エッチング、漫画、ポスター、および習作の一部が含まれており、ミラノとローマでも展示された。
2012年には、ホッパー作品の複雑さ、豊かさに焦点を置いた展覧会がパリで開かれた。展示は年代順に2つの主要な部分に分けられ、最初のセクションでは形成期(1900〜1924年)のホッパーの作品と、パリでホッパーが影響を受けた可能性がある同時代人や芸術の作品を比較展示し、 2番目のセクションではホッパーのスタイルを確立した最初の絵画[House by the Railroad(1924)]から晩年の作品までの壮年期の作品を展示した。
2013年、ペンシルベニア美術アカデミーは現代美術獲得の基金を設立するため、2,200万ドルから2,800万ドルの獲得を希望して[East Wind Over Weehawken (1934)]を売りに出した。これはニュージャージー州ウィホーケンの切妻の家を描いた暗い土色の風景画であり、ホッパーの最高傑作の1つと見なされている。[60]もともとホッパーの死の15年前の1952年にディーラーから低価格で直接販売されたこの絵は、ニューヨークのクリスティーズ[61]過去最高額となる3600万ドルで匿名の電話応札者に落札された。
^ abEdward Hopper, "Statement." Published as a part of "Statements by Four Artists" in Reality, vol. 1, no. 1 (spring 1953). Hopper's handwritten draft is reproduced in Levin, Edward Hopper: An Intimate Biography, p. 461.
^Vogel, Carol. (October 6, 2006).Edward Hopper Paintings Change at Whitney Show The New York Times.
^Schwartz, Art (December 29, 2013). "Hopper comes home Woman buys modern version of $40M painting depicting her house on Boulevard East". Hudson Reporter. Archived from the original on April 9, 2016. Retrieved January 7, 2013.
^Carswell, Vonecia (December 6, 2013). "1934 'East Wind Over Weehawken' painting sells for $36M at Christie's auction". The Jersey Journal.
^"Hopper's Chop Suey in record-breaking $92m sale". BBC News. November 14, 2018. Retrieved November 14, 2018.
^Scott Reyburn (November 13, 2018). "Hopper Painting Sells for Record $91.9 Million at Christie's". The New York Times. Retrieved November 13, 2018.