松山藩(日语:松山藩/まつやまはん Matsuyama han */?)是備中国(冈山县)部分領有的藩。藩厅设置于松山城(高梁市)。明治維新後改名为高梁藩(たかはしはん)。
明治4年(1871年),依照废藩置县成为高梁县。以後历经深津县、小田县最终编入冈山县。
歴代藩主
備中代官 (1600年 - 1616年)
小堀家
外様、1万4460石
- 正次(まさつぐ)
- 政一(まさかず)
池田家
外様 6万5千石 (1617年 - 1641年)
- 長幸(ながよし)〔从五位下・備中守〕
- 長常(ながつね)〔从五位下・出雲守〕
水谷家
外様 5万石 (1642年 - 1693年)
- 勝隆(かつたか)〔从五位下・伊勢守〕
- 勝宗(かつむね)〔从五位下・左京亮〕
- 勝美(かつよし)〔从五位下・出羽守〕
安藤家
譜代 6万5千石 (1695年 - 1711年)
- 重博(しげひろ)〔从五位下・対馬守〕
- 信友(のぶとも)〔从四位下・対馬守〕
石川家
譜代 6万石 (1711年 - 1744年)
- 総慶(ふさよし)〔从五位下・主殿頭〕
板倉家
譜代 5万石→2万石 (1744年 - 1871年)
- 勝澄(かつずみ)〔从五位下・周防守〕
- 勝武(かつたけ)〔从五位下・美濃守〕
- 勝从(かつより)〔从五位下・隠岐守〕
- 勝政(かつまさ)〔从五位下・周防守〕
- 勝晙(かつあき)〔从五位下・周防守〕
- 勝職(かつつね)〔从五位下・周防守〕
- 勝静(かつきよ)〔正四位・伊賀守 老中〕
- 勝弼(かつすけ)〔从五位〕 2万石に減封(明治2年记载)
幕末の領地
- 備中国
- 阿賀郡治下 - 5村(編入倉敷县)
- 浅口郡治下 - 2村(同上)
- 賀陽郡治下 - 11村(其中6村編入倉敷县)
- 下道郡治下 - 4村
- 上房郡治下 - 15村(其中3村編入倉敷县)
- 哲多郡治下 - 17村(編入倉敷县)
- 川上郡治下 - 12村(其中6村編入倉敷县)
参考文献
- 儿玉幸多・北島正元/監修《藩史総覧》新人物往来社、1977年
- 《別冊歴史読本 江户三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史》新人物往来社、1977年
- 中嶋繁雄《大名の日本地図》文春新書、2003年
- 八幡和郎《江户三00藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?》光文社新書、2004年
前任者: (備中国)
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行政区変遷 1600年 - 1871年 (松山藩→高梁藩→高梁县)
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繼任者: 深津县
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