韓国映画
韓国映画 (かんこくえいが)は、韓国 国籍を持つ者または韓国の法人によって製作された映画で、ほとんどの場合、韓国人の映画スタッフと俳優で構成され、主に韓国国内の映画館などで公開される映画を指す。
歴史
日本統治時代 の映画については日本映画#朝鮮 を参照のこと。
1940年代
解放を迎えると、拠り所を失った映画人たちは、日本から切り離された後の自分たちの手には、フィルムや現像薬品の揃った写真化学工場1つないことに気づき、一寸先も見えない袋小路に入り込んだような気分を味わった。
— 安哲永[注釈 1] 、『京郷新聞』1946年12月15日 崔寅奎(チェ・インギュ) 解放直後の朝鮮映画界は内容・技術面共に発声映画の初期に劣る水準にまで後退することとなり、劇映画の製作自体が難しい状態であり、この時期に活躍していたのは植民地時代から活動していた監督ばかりであった。しかし植民地統治からの解放の喜びから、新しい祖国建設への期待や安重根 等の民族の英雄が主題となる「光復 映画」と呼ばれる作品が数多く生み出された。その端緒となったのは、戦時中に今井正 監督の内鮮一体 のプロパガンダ映画『望楼の決死隊 』等の撮影に協力していた崔寅奎 (チェ・インギュ )監督の『自由万歳 』(1946年)であった。『自由万歳 』はアメリカ軍政の広報部からカメラを借りて撮影された。また、1948年に北朝鮮との対立が深まると反共 映画も作られるようになった。
1950年代
1950年から1953年までの朝鮮戦争 期は韓国映画史上でも最も劣悪な製作環境であった。映画製作や映画興行の中心地は戦場となったソウル から避難地となった釜山 ・馬山 ・鎮海 ・大邱 などの地方へ移行した。避難地の映画館ではスクリーンの99%を外国映画が占めており、戦時下の国産映画の撮影は米軍主導の記録映画 とニュース映画 が中心であったが、それ以外にも17本の劇映画が製作され韓国映画は何とか命脈を保ち、朝鮮戦争期を通じて育成された人材は戦後の韓国映画の成長の礎となった。
1954年に朝鮮戦争 が休戦すると、ソウル市 の忠武路 周辺に多くの映画会社や映画館が集まるようになり「忠武路 」は韓国映画界の代名詞となった。朝鮮戦争 が休戦を迎えた1954年の韓国映画の年間製作本数は18本にすぎなかったが、1959年には111本にまで増加するほど韓国の映画産業は着実に成長していった。1955年に韓国映画界復興の起爆剤となったのが、戦前既に3度映画化され韓国人ならば知らない人のいない李朝時代の古典小説を原作とする『春香伝 』である。それまで韓国映画は製作費の回収ですら難しい状態であったが、『春香伝 』のヒットにより大きな収益を上げられることが証明された。『春香伝 』のヒットは時代劇 ・史劇映画 の全盛期をもたらし、1956年に製作された韓国映画30本のうち、16本が時代劇 ・史劇映画 であったが、すぐに現代劇のメロドラマ 、喜劇 、スリラー 、戦争映画 など作品のジャンルは多様化していった。
当時の韓国映画はまだハリウッド のスタジオ製作システム のように企業化されておらず、74本の映画が製作された1958年には72の映画会社が存在し「1社1作」と呼ばれるほど群小製作会社が乱立する手工業的製作システムが主流であった。映画を1本作っただけで倒産する映画会社もあり、映画製作の基盤は依然不安定なままであった。
1960年代
申相玉(シン・サンオク)
1960年代は韓国映画の黄金時代と称される時期であった。1960年に四月革命 が起きると、韓国史上初の民間審議機関である映画倫理委員会が結成された。民間の映倫による規制は李承晩 政権による検閲 に比べると大幅に映画の内容の自由度を許すものであり、韓国社会の負の側面を描くことも可能となった。しかし1961年の軍事クーデター 以降は民間の映倫が廃止され、当局による映画への目も厳しくなり、作風の自由度は狭まり韓国映画は芸術的には停滞していくこととなる。韓国映画史上に残る傑作として今なお評価される作品も四月革命直後の1960~1961年の2年の間に生まれている。現代においてもカルト的人気を誇り、韓国映画界の怪物の二つ名を持つ金綺泳 (キム・ギヨン )監督のスリラー映画 『下女 』(1960年)、朝鮮戦争後の荒廃した韓国社会を容赦ないリアリズムで描いた作品として評価が高い兪賢穆 (ユ・ヒョンモク )監督の『誤発弾 』(1961年)(軍事クーデター後は上映が禁止された)、のちに北朝鮮に拉致され『プルガサリ 伝説の大怪獣 』を監督することになる申相玉 (シン・サンオク )の代表作『離れの客とお母さん 』(1961年)の三本が有名である。
軍事クーデターで朴正煕 政権が成立した1961年に群小の映画会社72社は16社に統合された。1962年には最初の映画法が制定・公布され、国策による映画産業の企業化政策が始まった。1969年に18社となるまで絶え間なく映画会社の登録と取消が繰り返された。しかし映画法によって登録された映画会社の監督・俳優・技術者の名前はほとんど虚偽で、実際に映画を作成していたのは登録された製作会社の名義だけを借りた中小の独立プロダクションであった。軍事クーデター後の社会派作品を淘汰する検閲の強化は、その一方で数多くの娯楽作品を生み出すことにも繋がり、観客数は1961年には5800万人だったのが1969年には1億7300万人と約3倍にも増加した。映画製作本数も10年間で1500本を超えるほど作品が大量生産され、その内容は文芸映画 にメロドラマ やスリラー ・アクション 、コメディ や時代劇 、SF や怪奇もの など実に多様なジャンルを網羅していた。しかしその作品内容を見ると、日本の映画雑誌に掲載された脚本からの剽窃やお涙頂戴のメロドラマが目立つ等、軍事クーデター後は質の面では必ずしも黄金時代とは言えなかった。60年代の時点でも観客は韓国映画より外国映画の方を多く見ており、このことは70年代の韓国映画の不振にも繋がっていく。
1970年代
1970年代の韓国映画は政治的・経済的両側面から苦境に陥った。1972年に朴正煕 は維新体制 と呼ばれる独裁体制を築き上げた。「政策映画」と呼ばれる政府の理念を宣伝する映画の製作を推奨する一方、映画検閲を強化し、現実のリアルな側面を描いたり、政府に対する批判的な内容の作品は許可されなかった。そこへテレビの普及が伴い、韓国映画界は不況に陥り産業としても沈滞・衰退期に突入していった。1974年には観客数は再び1億人を割り、製作本数は1971年は202本だったのが1972年は122本と半減近くとなった。政府は韓国映画を3本作れば外国映画1本の輸入を許可するという施策で対処しようとしたが、これが外国映画を輸入するために稚拙で安っぽい映画が量産されるという本末転倒な現象を産んだ。低俗映画が量産されて観客も遠ざかり、韓国映画と外国映画の1979年の一本当たり平均観客数を比較してみると、韓国映画は約6万人に対し外国映画は13万人超えと倍以上の差があった[1] 。1970年代には香港映画の亜流である「拳撃(カンフー)」映画が香港や東南アジアへの輸出もでき(日本へは全く輸出されなかった[2] )、外国映画輸入のための製作本数稼ぎとして製作者に好まれた。また、当時の韓国は日本のように映画のスタッフが撮影所でテレビ映画 を撮ることはなく、テレビドラマ は全てテレビ局のスタッフが局のスタジオ等で撮影していた[2] 。
1980年代
林權澤(イム・グォンテク)
1979年に朴正煕 大統領が暗殺され紆余曲折を経て1980年に全斗煥 政権が誕生すると、政府は国民の目を政治から逸らすためにセックス・スクリーン・スポーツを利用する3S政策 を遂行し、70年代とは異なる社会・経済・文化における開放的な政策が取られた。映画検閲は大幅に緩和され、1970年代に作られた政策映画はほとんど鳴りをひそめ、性的描写の多いエロティシズム映画が氾濫するようになった。植民地時代の名残から韓国では自国の映画を長らく日本と同じように「邦画」と呼称していたが、1980年代のそれは外国映画と比べた際の質の低さに対する自嘲的な意味合いがこもっていた。しかしその一方で1980年代は韓国映画が外部へ目を開き始めた時期であり、第44回ヴェネツィア国際映画祭 で『シバジ 』のカン・スヨン が女優賞を受賞する等、海外映画祭での成功例も生まれた。1960年代にデビューしたベテラン監督イム・グォンテク はそれまで商業路線のジャンル映画を製作していたが、この時期から作家性を意識した作品を作り始めた。1980年代後半には中国の第五世代映画 や台湾ニューシネマ のような若い映画作家を中心として作家性の強い芸術映画が作られる潮流が生まれ、コリアン・ニューウェーブ と称された。1984年には映画振興公社傘下の映画専門教育機関として韓国映画アカデミー が設立。韓国映画アカデミーは既存の徒弟システムから現代的な製作環境に変貌させる上で重要な役割を果たし、卒業生は90年代以降の韓国映画の中核をなす存在となっていく。
1990年代
1990年代はサムスン をはじめとする大企業資本が映画産業へ参入を始めたことにより韓国映画に大きな変化が訪れた。伝統的な韓国の映画産業では監督の企画を製作者が許諾する構造で映画が生産されたのに対し、1990年代以降は製作者の企画に投資者を引き入れた後に監督を決める方式で作品が生産されるようになり、こうした製作者主導の映画は「企画映画」と呼ばれている。さらに大企業の映画購買担当者が若い観客の好みを理解できる若い映画企画者を好んだことで韓国映画は世代交代が急速に進んだ。映画会社は江南 地域へ移動し、忠武路 を中心とする伝統的な映画産業は縮小してゆき、ベテラン監督で中堅監督の立ち位置を維持できたのはほとんど唯一人、イム・グォンテク のみであった。
1992年にサムスン がビデオ版権の購入という形で投資したキム・ウィソク 監督の長編デビュー作『結婚物語 』は新しい韓国映画の潮流を示す作品であった。その内容は80年代の陰鬱で暗いエロティシズム映画とは異なる、久々に登場した洗練されたロマンティックコメディ であり、一時は大衆から離れていた韓国映画が再び大衆性を取り戻す足がかりとなった。1993年10月にはイム・グォンテク 監督『風の丘を越えて/西便制 』が封切られ、ソウル の封切館1館のみで196日間上映され104万人を動員し、韓国映画で初めて100万人を動員した作品となった。1990年代後半から韓国映画の観客動員数は飛躍的に上昇していき、1996年には23.1%だった韓国映画の市場占有率は2001年には50%を超えることとなる。この急激な成長に最も決定的な影響を与えたのは1999年のカン・ジェギュ 監督『シュリ 』の興行的成功である。『シュリ 』は『風の丘を越えて/西便制 』の韓国映画最高興行記録を公開からわずか21日で破り、全国で620万人の観客を動員した。『シュリ 』は日本でも130万人を動員し、韓国映画の海外輸出の口火を切ることになった。韓国映画界では『シュリ 』を皮切りに「韓国型ブロックバスター」と呼ばれるハリウッドのブロックバスター映画 を意識した作品が立て続けに製作されるようになる。
1996年には釜山国際映画祭 が誕生し、韓国における本格的な国際映画祭の幕が開かれた。1999年には官主導の映画振興公社が民間主導の映画振興委員会 に生まれ変わった。1990年代は現代の韓国映画の繁栄の礎となる制度が完成し、新しい作家も多く登場した時期であり、韓国映画のルネサンスと呼ばれる。
2000年代
奉俊昊(ポン・ジュノ)
1999年の『シュリ 』を皮切りに韓国映画は興行新記録ラッシュが続くこととなった。2000年のパク・チャヌク 監督『JSA 』は『シュリ』には及ばなかったものの韓国内で583万人を動員し、2001年の『友へ チング 』は観客動員数818万人を超え再び記録を塗り変えた。2003年にはポン・ジュノ 監督『殺人の追憶 』やパク・チャヌク 監督『オールド・ボーイ 』のような興行と作家主義を両立させた映画が誕生し、韓国映画のブランドイメージを確立させた。そして2003年の『シルミド 』と2004年の『ブラザーフッド 』が観客動員数1000万人を達成し、韓国映画史において不可能とされていた1000万人の観客動員時代が幕を開けた。これにはCJ CGV 、メガボックス 、ロッテシネマ などのシネマコンプレックス の普及が大きく貢献した。1996年には韓国全土で511だったスクリーン数は2006年には1880まで増加した。2006年の観客動員数は1億5341万人となり、1968年と1969年の年間観客数1億7千万人に続く3位を記録した。この時期は韓国映画の海外市場も活性し、1996年の輸出額は約40万ドルに過ぎなかったが、10年後の2005年には実に190倍の約7600万ドルに増加した。2004年に中国や日本で韓流 ブームが盛り上がると、韓国映画の海外輸出額は前年比で88%増となった。
2000年代は海外の主要国際映画祭での成果も目立つようになった。2000年にはイム・グォンテク 監督『春香伝 』が韓国映画史上初めてカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、2002年には同じくイム・グォンテク 監督が『酔画仙 』でカンヌ国際映画祭監督賞を受賞した。また、イ・チャンドン 監督とムン・ソリ がそれぞれ『オアシス 』でヴェネツィア国際映画祭の監督賞と新人俳優賞を、2004年にはパク・チャヌク 監督『オールド・ボーイ 』がカンヌ国際映画祭審査員特別グランプリを受賞した。同年、キム・ギドク 監督は『サマリア 』でベルリン国際映画祭の監督賞、『うつせみ 』でヴェネツィア国際映画祭の監督賞を連続受賞した。
韓国映画産業は2000年代中盤までは前例を見ないほどの好況を記録していたが、2007年から2008年にかけて再び韓国映画の市場占有率は50%以下に低下することになる。2007年には韓国映画のスクリーンクォータが縮小したことも重なり、韓国映画の危機が訴えられた。2000年代終盤の韓国映画は産業としては一時停滞していたが、ナ・ホンジン 監督『チェイサー 』(2008)を端緒とするスリラー映画 ブーム、ヤン・イクチュン 監督『息もできない 』(2008)のような独立プロダクション作品、低予算ドキュメンタリーとしては異例の300万人近い動員を記録した『牛の鈴音 』(2009)等、大作路線以外の韓国映画が注目された時期でもあった。しかしながら、結局は2000年代後半に韓国映画の製作はCJ ENM など大企業が母体となる投資配給会社を中心に再編されていった。企画と製作が投資配給会社主導となったことで、2010年代の韓国映画界は夏休みや冬休み、正月のような書入れ時に高予算かつ大規模公開される大作を興行の中核とする戦略が主流になっていく。
2010年代
2000年代終盤に韓国映画産業は一時不調に陥ったかに見えたが、2011年には再び市場占有率50%以上を取り戻し、2013年に韓国の映画観客数は初めて2億人を突破した。その後、2018年まで2億1000万人台で推移した。観客の増加に伴い、観客動員数1000万人超えの韓国映画も10年間で14本も生まれた[3] 。2014年公開の文禄・慶長の役 を舞台に李舜臣 を主人公とした大作『バトル・オーシャン 海上決戦 』は全人口の1/3以上に当たる観客数を集め、韓国の歴代最高の興行収入となった。軍事政権下の1981年に起こった冤罪事件をモチーフとした『弁護人 』(2013年)、1950年代から1980年代にかけての韓国史を背景とするヒューマンドラマ『国際市場で逢いましょう 』(2014年)、光州事件 を描く『タクシー運転手 約束は海を越えて 』(2017年)、1987年の民主化闘争を描く群像劇『1987、ある闘いの真実 』(2017年)といった韓国の近現代史を描く作品が盛んに製作され、興行面でも成功を収めた。また、ゾンビ映画 『新感染 ファイナル・エクスプレス 』(2016年)や、コミックを原作としCGを活用した場面も多い『神と共に 第一章:罪と罰 』『神と共に 第二章:因と縁 』の二部作(2017・2018年)等、これまで韓国映画では製作されることのなかったジャンルの作品も登場した。
2000年代から活躍する監督の作品も好調であり、2013年にはパク・チャヌク 監督の『イノセント・ガーデン 』、キム・ジウン 監督の『ラストスタンド 』、ポン・ジュノ 監督の『スノーピアサー 』と、韓国人監督のハリウッド 進出も実現した。
そして2019年、ポン・ジュノ 監督の『パラサイト 半地下の家族 』は韓国映画として初めてカンヌ国際映画祭 で権威あるパルムドール を受賞し、 第92回アカデミー賞 では、韓国映画として初めてアカデミー賞 にノミネートされ、作品賞 、監督賞 、国際長編映画賞 、オリジナル脚本賞 を受賞し、アジアだけで製作された映画として初めてアカデミー賞作品賞 にノミネートされ、英語以外の映画として初めてアカデミー賞作品賞 を受賞する歴史的快挙を成し遂げた。
2010年代の韓国映画界は輝かしいニュースが続いたが、一方で韓国映画界の隠れた問題が浮き彫りになる事件も起きた。2014年の釜山国際映画祭 では、セウォル号沈没事故 を描いたドキュメンタリー映画『ダイビング・ベル セウォル号の真実 』に対し、釜山市 が「政治的な中立性を欠く」と中止を求め、上映に踏み切った責任者を事実上更迭した。背後には政権の圧力を指摘する声もあり、映画関係者からは映画祭への抗議の声が相次いだ[4] 。2018年には世界三大映画祭すべてで受賞歴を持つキム・ギドク 監督が性的暴行疑惑で韓国映画界を事実上追放状態となった[5] 。
2020年代
私がデビューしてから20年間に目覚ましい発展があり、同時に若い監督が冒険的な試みをするのは次第に難しくなっている状況だ。80~90年代に大ブームを巻き起こした香港映画産業がどのように衰退したのかという記憶をわれわれは鮮明に持っている。そのような道を歩まないようにするには、韓国の多くの産業が冒険を恐れてはならない。もっと挑戦的な映画を産業が受け入れなければならない。
— ポン・ジュノ 、2020年2月19日、ソウル市内のホテルの記者会見にて[6]
アカデミー賞 受賞後、ポン・ジュノ 監督が語った韓国映画への危惧が早くも現実となったかのように、新型コロナウイルス感染症 の流行により韓国映画界は突如として危機的な状況に陥ることになった。観客動員1000万人時代は裏を返せば映画産業が大作映画に依存する脆さを抱えていることを意味していた。作品の製作費が高騰していく中、肝心の大作映画の公開が延期・中止され、作品と人材がNetflix をはじめとする配信サービスへ流れることも多くなり、観客の足も劇場から遠のいていった[7] 。新型コロナウイルス感染拡大前の映画館での鑑賞回数は1人あたり年平均4.3回だったが、2023年は2.4回にまで落ち込み、45%も減少となり、コロナ禍前は1兆9140億ウォン(約2140億円)だった売り上げも、23年は1兆2614億ウォン(約1410億円)で、好調だったときと比べると65.9%の水準になっている[8] 。コロナ禍前の2019年には、韓国の映画市場は北米、中国、日本に次ぐ世界4位であったが、コロナ禍以降年間興収は世界4位から7位にまで転落した[9] 。映画館のチケット代も値上がりし、映画1本で15000ウォンになった。配信サービスの場合、月額1万ウォン程度であり、懐事情が厳しい20〜30代の若い層は映画館に行く機会が減ってしまった[10] 。2023年は劇場公開された大作映画の多くが損益分岐点を満たさない状態であった[11] 。それでも2023年は『犯罪都市 NO WAY OUT 』『ソウルの春 』といった観客動員数1000万人を超える大ヒットが年に2本出るなど、回復の兆しも見え始めている。
映画祭
アジア でも有数の規模である釜山国際映画祭 は、国内の映画振興にも大きな影響を及ぼしている。そのほか、全州国際映画祭、富川国際ファンタスティック映画祭 など韓国国内各地で中小規模の映画祭が開かれている。
世界三大映画祭 での主な受賞歴は以下。
映画賞
以下4賞が代表的な映画賞 といわれ、授賞式は主催または後援するテレビ局で生中継される。(カッコ内は授賞式の開催月)
政府と映画の関係
韓国の映画政策は大きく分けて、1986年までの統制期、1987〜1997年の間の自由放任期、1998年以降の振興期へと変化している。
映画法から映画振興法へ
朝鮮戦争休戦直後の韓国映画は急激に上映本数が増加した外国映画の勢いに負け、上映はおろか封切り館を見つけることすらできない状態であった[1] 。この状況を改善するために李承晩 政権は1954年に国産映画に対し入場税免税措置を与え、1959年には国産映画製作奨励および映画娯楽純化のための報償措置を制定した。優秀映画を製作したり輸入した者に対して外国映画の輸入権を与えることでその活動を報償するというものである。1961年の軍事クーデター によって成立した朴正煕 政権により1962年に最初の映画法が制定・公布された。映画法公布以降は登録会社のみが映画を製作することが許され、映画の内容に対する当局の検閲・規制も強まった。映画法は1963年に第一次改正、1966年に第二次改正、1970年に第三次改正が成された。1963年の第一次改正は韓国映画の安定した製作基盤を築くことを目的とし、「35mm以上の撮影機・照明機・建坪200坪以上のスタジオ・録音機・専属の映画監督、俳優、および技術者」を具備しなければ映画会社として登録できず、年間15本の製作義務を実施できない場合は登録を取り消すというものであった。また、国産映画市場を保護するために、国産映画の製作業者だけが外国映画を輸入できるよう制限する外国映画輸入クォータ(割当て)制度も制定された。当時は国産映画を支援するだけの財源がなかったため、外国映画で得た利益を国産映画の製作に回すことを意図していた。1965年には「優秀映画補償制度」が設置され、これに選ばれた会社には外国映画の輸入クォータを割り当てるという特典を用意した。しかし外国映画輸入の権利を特権として与える制度は、国産映画保護の目的とは裏腹に外国映画の希少価値を高め映画産業を外国映画中心のものへと変えてしまい、外国映画クォータを闇取引することで利益を得る者すら現れる始末であった。第一次改正における年間15本という製作義務を満たせる企業は少なく、登録取消が相次いだため、1966年の第二次改正では義務製作本数が年間2本に緩和された。その一方で第二次改正からは映画に対する検閲 の項目が設けられ、映画の表現の自由 は大きく制限されるようになった。1970年の第三次改正では、映画振興組合の設立が盛り込まれ、外国映画輸入クォータ制を公営化した。
1972年に朴正煕 が維新体制 を成立させ国民の基本的人権に対する弾圧が強まる中、1973年の映画法の第四次改正において映画会社の「登録制」は「許可制」に変更となり、個人プロダクションによる製作は禁止された。その結果として韓国映画界は少数の映画会社の寡占状態に陥った。1979年に朴正煕 大統領が暗殺され全斗煥 政権に変わると、それまでの国産映画の保護と統制に重点を置かれていた映画法の方針は自由化と開放化へ向かうようになる。1984年の映画法の第五次改正により再び許可制は登録制に戻り、独立プロダクションの活動も書類を提出さえすれば誰でも可能となった。また、国産映画製作の自由化と共に外国映画の輸入も自由化され、1986年の映画法第六次改正により韓国での外国の映画会社の営業を禁止した条項が修正され、外国映画の直接配給が解禁された。映画法は自国の映画を保護するため、厳格なスクリーンクォータ制を規定し、年間上映日数の5分の3は外国映画、5分の2を国産映画に割り当てることとなった。しかし外国映画の直接配給解禁の影響は大きく、1980年代初めに約40%だった韓国映画の市場占有率は1993年には15.9%にまで落ち込んだ。
ハリウッド映画の影響力の拡大に対抗するために1995年12月には映画法に代わり映画振興法が作られたが、1999年2月に第二次映画振興法の改正が行われるまで映画法との明確な違いはなかった。第二次改正により、映画界の自律権を尊重することで振興政策の効率性を高めるという意向が盛り込まれた映画振興委員会 (KOFIC )が発足した。民主化の進展に伴い映画検閲 の撤廃を求める声も大きくなり、1998年に大統領となった金大中 の文化政策は「支援はするが、干渉はしない」を原則とし、選挙公約として検閲撤廃を掲げていたが、軍事独裁時代の政策を維持しようとする保守的な当時の野党の妨害もあり公約実現は難航した。それでも2001年になり憲法裁判所が映画審議制度に対し違憲判決を下すと検閲 が撤廃された。検閲 は廃止されたが、映像物等級委員会により行われるレイティング は日本より厳しく、小学生も鑑賞できると判定される映画はファミリー映画 など一部の作品に限られる。2007年からは映画製作への公的資金援助の財源として「映画発展基金」として映画館入場料の3パーセントが税金として賦課されることとなった。
スクリーンクォータ制度
スクリーン・クォータ制は1966年、第二次改正映画法第28条の施行令によって始まったが、外国映画の輸入が規制されていた1960〜1970年代にはほとんど有名無実の制度であった。スクリーン・クォータ制が韓国映画の生命線として重要視されるようになったのは1986年の第六次映画法改正により外国映画の輸入が自由化されてからである。映画人は1993年「スクリーン・クォータ監視団」を設置し、スクリーン・クォータ制違反の事例の申告や興行統計電算化の作業を始めた。アメリカ合衆国からかたびたび廃止、自由化を求められていたこと、韓国政府による韓米FTA締結推進目的から、韓国政府は2006年、年間上映日数の40%を韓国映画とする保護を緩めて、半数に減らすことに決定。この決定を受けてイ・ビョンホン 、チャン・ドンゴン をはじめとした韓国の俳優陣は韓国映画の保護を求めて「映画人リレー一人デモ 」をしたり、座り込みをするなどをして反対運動を行なった[15] [16] 。抗議の声も空しくスクリーン・クォータは年間73日へと縮小されたが、2011年以降は国内での韓国映画のシェアが海外映画を上回り続けており[17] 、今では外国映画から国産映画を保護するというよりは低予算映画、芸術映画 、インディーズ映画 等の多様な作品を守るための制度としての意義を残すに留まっている。
韓国映画興行成績ランキング
韓国
(配給会社、公開年度共に韓国公開時のもの。作品名は邦題。)
以下を参考に編集
2001年まで公開の作品の観客数:スポーツKHAN (スポーツ京郷) 2009-01-09 22:11:29
(http://sports.khan.co.kr/news/sk_index.html?cat=view&art_id=200901092211293&sec_id=540401&pt=nv )
※2001年まで公開の作品は全国動員数の統計がないため推測値や概算となる
順位
作品
配給会社
公開年度
観客動員数
1
バトル・オーシャン 海上決戦
CJエンタテインメント
2014年
17,613,682人
2
エクストリーム・ジョブ
CJエンタテインメント
2019年
16,264,944人
3
神と共に 第一章:罪と罰
ロッテエンタテインメント
2017年
14,410,754人
4
国際市場で逢いましょう
CJエンタテインメント
2014年
14,257,115人
5
ベテラン
CJエンタテインメント
2015年
13,414,009人
6
グエムル-漢江の怪物-
ショーボックス
2006年
13,019,740人
7
10人の泥棒たち
ショーボックス
2012年
12,983,330人
8
7番房の奇跡
ネクスト・エンターテインメント・ワールド
2013年
12,811,206人
9
暗殺
ショーボックス
2015年
12,705,770人
10
王になった男
CJエンタテインメント
2012年
12,319,542人
11
王の男
CJエンタテインメント
2006年
12,302,831人
12
神と共に 第二章:因と縁
ロッテエンタテインメント
2018年
12,274,996人
13
タクシー運転手 約束は海を越えて
ショーボックス
2017年
12,186,684人
14
ブラザーフッド
ショーボックス
2004年
11,746,135人
15
新感染 ファイナル・エクスプレス
ネクスト・エンターテインメント・ワールド
2016年
11,565,479人
16
TSUNAMI -ツナミ-
CJエンタテインメント
2009年
11,453,338人
17
弁護人
ネクスト・エンターテインメント・ワールド
2013年
11,375,944人
18
シルミド
シネマサービス
2003年
11,081,000人
19
パラサイト 半地下の家族
CJエンタテインメント
2019年
10,313,086人
20
華麗なるリベンジ
ショーボックス
2016年
9,707,581人
21
EXIT イグジット
CJエンタテインメント
2019年
9,426,051人
22
スノーピアサー
CJエンタテインメント
2013年
9,349,991人
23
観相師 -かんそうし-
ショーボックス
2013年
9,134,586人
24
パイレーツ
ロッテエンタテインメント
2014年
8,666,046人
25
怪しい彼女
CJエンタテインメント
2014年
8,656,397人
26
国家代表!?
ショーボックス
2009年
8,487,894人
27
D-WARS ディー・ウォーズ
ショーボックス
2007年
8,426,973人
28
白頭山大噴火
CJエンタテインメント
2019年
8,252,669人
29
過速スキャンダル
ロッテエンタテインメント
2008年
8,245,523人
30
友へ チング
コリアピクチャーズ
2001年
8,181,377人
31
トンマッコルへようこそ
ショーボックス
2005年
8,008,622人
32
コンフィデンシャル/共助
CJエンタテインメント
2016年
7,817,459人
33
ヒマラヤ〜地上8,000メートルの絆〜
CJエンタテインメント
2015年
7,759,431人
34
密偵
ワーナー・ブラザース・コリア
2016年
7,500,420人
35
神弓-KAMIYUMI-
ロッテエンタテインメント
2011年
7,470,633人
36
サニー 永遠の仲間たち
CJエンタテインメント
2011年
7,362,467人
37
光州5・18
CJエンタテインメント
2007年
7,307,993人
38
1987、ある闘いの真実
CJエンタテインメント
2017年
7,231,638人
39
ベルリンファイル
CJエンタテインメント
2013年
7,166,199人
40
MASTER/マスター
CJエンタテインメント
2016年
7,147,879人
41
トンネル 闇に鎖された男
ショーボックス
2016年
7,120,508人
42
インサイダーズ/内部者たち
ショーボックス
2016年
7,072,015人
43
オペレーション・クロマイト
CJエンタテインメント
2016年
7,049,643人
44
LUCK-KEY/ラッキー
ショーボックス
2016年
6,975,290人
45
シークレット・ミッション
ショーボックス
2013年
6,959,083人
46
哭声/コクソン
20世紀フォックス・コリア
2016年
6,879,908人
47
犯罪都市
KIWIエンタテインメントグループ
2017年
6,879,841人
48
タチャ イカサマ師
CJエンタテインメント
2006年
6,847,777人
49
グッド・バッド・ウィアード
CJエンタテインメント
2008年
6,686,912人
50
私のオオカミ少年
CJエンタテインメント
2012年
6,654,837人
51
カンナさん大成功です!
ショーボックス
2006年
6,619,498人
52
軍艦島
CJエンタテインメント
2017年
6,592,151人
53
アジョシ
CJエンタテインメント
2010年
6,282,774人
54
王の運命 -歴史を変えた八日間-
ショーボックス
2015年
6,246,849人
55
シュリ
サムスンピクチャーズ (提供)
1999年
6,209,893人
56
チョン・ウチ 時空道士
CJエンタテインメント
2009年
6,136,928人
57
マイ・ボス マイ・ヒーロー2 リターンズ
CJエンタテインメント
2006年
6,105,431人
58
ノーザン・リミット・ライン 南北海戦
ネクスト・エンターテインメント・ワールド
2015年
6,043,784人
59
JSA
CJエンタテインメント
2000年
5,830,228人
60
ミッドナイト・ランナー
ロッテエンタテインメント
2017年
5,653,270人
61
家門の危機
ショーボックス
2005年
5,635,266人
62
かくれんぼ
ネクスト・エンターテインメント・ワールド
2013年
5,604,104人
63
ラスト・プリンセス 大韓帝国最後の皇女
ロッテエンタテインメント
2016年
5,599,229人
64
テロ、ライブ
ロッテエンタテインメント
2013年
5,583,596人
65
監視者たち
ネクスト・エンターテインメント・ワールド
2013年
5,508,017人
66
義兄弟 SECRET REUNION
ショーボックス
2010年
5,507,106人
67
プリースト 悪魔を葬る者
CJエンタテインメント
2015年
5,442,553人
68
安市城 グレート・バトル
ネクスト・エンターテインメント・ワールド
2018年
5,440,186人
69
ザ・キング
ネクスト・エンターテインメント・ワールド
2016年
5,316,015人
70
ワンドゥギ
CJエンタテインメント
2011年
5,310,510人
71
完璧な他人
ロッテエンタテインメント
2018年
5,293,435人
72
花嫁はギャングスター
コリアピクチャーズ
2001年
5,260,451人
73
殺人の追憶
CJエンタテインメント
2003年
5,255,376人
74
ザ・タワー 超高層ビル大火災
CJ E&M 映画部門
2012年
5,181,014人
75
マラソン
ショーボックス
2005年
5,148,022人
76
大変な結婚
シネマサービス
2002年
5,089,966人
77
チェイサー
ショーボックス
2008年
5,071,619人
78
毒戦 BELIEVER
ネクスト・エンターテインメント・ワールド
2018年
5,063,620人
79
工作 黒金星と呼ばれた男
CJエンタテインメント
2018年
4,974,512人
80
同い年の家庭教師
CJエンタテインメント
2003年
4,937,573人
81
風と共に去りぬ!?
ネクスト・エンターテインメント・ワールド
2012年
4,909,937人
82
猟奇的な彼女
シネマサービス
2001年
4,882,495人
83
あなた、その川を渡らないで
CGVアートハウス,デミョン文化工場
2014年
4,801,527人
84
鳳梧洞戦闘
ショーボックス
2019年
4,787,538人
85
朝鮮名探偵 トリカブトの秘密
ショーボックス
2011年
4,786,259人
86
群盗
ショーボックス
2014年
4,774,895人
87
KCIA 南山の部長たち
ショーボックス
2020年
4,750,104人
88
悪いやつら
ショーボックス
2012年
4,719,872人
89
新しき世界
ネクスト・エンターテインメント・ワールド
2013年
4,682,492人
90
トガニ 幼き瞳の告発
CJエンタテインメント
2011年
4,662,822人
91
僕の妻のすべて
ネクスト・エンターテインメント・ワールド
2012年
4,598,583人
92
パンドラ
ネクスト・エンターテインメント・ワールド
2016年
4,583,648人
93
ザ・バッド・ガイズ
CJエンタテインメント
2019年
4,573,902人
94
ヨンガシ 変種増殖
CJエンタテインメント
2012年
4,515,833人
95
風林高
シネマサービス
2001年
96
鋼鉄の雨
ネクスト・エンターテインメント・ワールド
2017年
4,452,740人
97
ただ悪より救いたまえ
CJエンタテインメント
2020年
4,357,803人
98
カン・チョルジュン 公共の敵1-1
シネマサービス
2008年
4,300,670人
99
お嬢さん
CJエンタテインメント
2016年
4,299,951人
100
おばあちゃんの家
CJエンタテインメント
2002年
4,193,826人
101
サスペクト 哀しき容疑者
ショーボックス
2013年
4,131,248人
102
建築学概論
ロッテエンタテインメント
2012年
4,110,645人
103
タイフーン/TYPHOON
CJエンタテインメント
2005年
4,094,395人
104
7級公務員
ロッテエンタテインメント
2009年
4,088,799人
105
セックス イズ ゼロ
ショーボックス
2002年
4,082,797人
106
ダンシング・クィーン
CJエンタテインメント
2012年
4,057,546人
107
私たちの生涯最高の瞬間
サイダスFNH
2008年
4,044,582人
108
スウィンダラーズ
ショーボックス
2017年
4,018,341人
109
タチャ 神の手
CJエンタテインメント
2014年
4,015,361人
日本
注釈
^ 戦前より活動していた韓国の映画監督。
出典
^ a b 張惠英. “「保護と育成」─韓国軍事独裁政権下での映画政策─ ”. 2024年6月13日 閲覧。
^ a b 「シナリオ作家対談 石森史郎vs金志軒 -日韓ライター顔合わせ- 書くこと・生きること・想うこと」『月刊シナリオ』日本シナリオ作家協会 、1979年8月、87-91頁。
^ “韓国映画ファン必見!2010年代を映画史で振り返る ”. 株式会社hana (2023年10月21日). 2024年6月13日 閲覧。
^ “行政からの圧力受ける釜山国際映画祭、ベルリン国際映画祭で共同声明集会決行! ”. シネマトゥデイ (2016年2月10日). 2024年6月13日 閲覧。
^ “「韓国で最も嫌われた監督」キム・ギドク 母国を追われ、異国でコロナ死した“鬼才の最期” ”. 文春オンライン (2021年5月5日). 2024年6月13日 閲覧。
^ “[韓流]「パラサイト」ポン監督が会見 アカデミー賞キャンペーンは「ゲリラ戦」 ”. 聯合ニュース (2020年2月19日). 2024年6月13日 閲覧。
^ “韓国映画界は「壊滅的」 不作続きで新作投資がストップ 「日本がうらやましい」 ”. ひとシネマ (2023年7月11日). 2024年6月13日 閲覧。
^ “コロナ禍、物価高、チケットの値上げ……不振の韓国映画界は過去の栄光を取り戻せるか? 決め手はラージ・フォーマット? ”. ひとシネマ (2024年5月12日). 2024年6月21日 閲覧。
^ “30年ぶりの不況迎える韓国映画市場 『犯罪都市3』は復興の先駆者となるか ”. Branc (2023年6月24日). 2024年6月21日 閲覧。
^ “Netfixの人気監督もここから!アートもエンタメも強い韓国映画を支える「KAFA」って? ”. Yahoo!ニュース (2023年4月26日). 2024年6月21日 閲覧。
^ “韓国映画「危機の象徴」という不名誉なレッテルが貼られた最新作品 5選 ”. Danmee (2023年10月17日). 2024年6月13日 閲覧。
^ (朝鮮語) 公式サイト 。映画、テレビの2部門がある。テレビはドラマ、教養番組、芸能番組(娯楽番組)が対象。授賞式はSBS系列で中継放送される。第37回(2001年)までは演劇部門もあった。第1回は1965年。第39回(2003年)までは韓国日報社 が主催していた。(朝鮮語) 第39回公式サイト 参照。
^ (朝鮮語) 公式サイト [リンク切れ ] 。第1回は1962年。
^ (朝鮮語) 公式サイト 。第1回(2002年)はMBC映画賞として開催。
^ 2006年7月2日 Innolife.net イ・ビョンホン、「スクリーンクォーター問題は、映画界だけの問題ではありません。」
^ 2006年2月9日JANJAN 映画俳優チャン・ドンゴンが国会で1人デモ
^ “「国産映画」保護政策の縮小も乗り越えた韓国映画の“底力” ”. 日刊ゲンダイDIGITAL (2021年5月8日). 2024年6月13日 閲覧。
^ 中国 ・日本 ・香港 ・韓国 合作映画。
参考文献
関連項目
外部リンク