1896年、リュミエール兄弟の発明したシネマトグラフがヘルシンキで上映された。しかし、1904年までフィンランドで映画が撮影されることはなかった。現在ではフィンランド初の映画作品 "Novelty from Helsinki: School youth at break" を誰が撮影したのか不明だが、この作品は1904年12月に上映された。フィンランド初の映画製作会社Atelier Apolloは、エンジニアのK. E. Ståhlbergにより1906年に設立された。この会社は主に短編のドキュメンタリー作品を製作したが、初の長編作品 "The Moonshiners" (1907)も製作している。フィンランド映画史の初期から、映画製作の中心地はヘルシンキであった。
1907年の "The Moonshiners" の監督テウヴォ・プロ (Teuvo Puro)は1911年にミンナ・カント原作の長編映画 "Sylvi" を製作したが、この作品は1913年になるまで上映されなかった。何故なら、当時一番近かったコペンハーゲンのラボまでフィルムを送る資金がなく、長い間現像せずにおかれたフィルムの三分の二はダメージを受けてしまった。
1920年代になるまでフィンランドで映画が製作されることはあまりなかったが、1919年に設立された製作会社スオミ=フィルミ(英語版)とそのクリエイティブ・リーダーのエルッキ・カル(英語版)によって映画製作が軌道に乗るようになる。カルは当時における重要な作品のほとんどを監督し、1935年に亡くなるまでフィンランド映画界において最も重要な人物であった。1923年の彼の作品 "Village Shoemakers" はアレクシス・キヴィのコメディの映画化で、ドイツ人撮影監督 Kurt Jäger のカメラワークが光るサイレント映画の傑作である。Kurt Jägerのその他の代表作には "The Logroller's Bride" (1923)、フィンランド映画として初めて海外に配給されたシュルレアリスティックなコメディ "When Father Has Toothache" (1923)、軍隊を舞台にしたコメディの先駆けである "Our Boys" (1929)などがある。
スオミ・フィルムにおいて重要なもう一人の監督はプロである。彼はフィンランド初の長編映画 "Olli's Years of Apprenticeship" (1920)の監督であり、初期のホラー映画 "Evil Spells" (1927)も手がけた。別の人物、カール・フォン・ハートマン(Carl von Haartman) はサイレント期のフィンランド映画界において風変わりな人物であった。彼は兵士また冒険家で、ハリウッド映画界で軍事アドバイザーとして働き、後に監督もしている。彼の作品 "The Supreme Victory" (1929) と "Mirage" (1930)は上流階級のスパイを主人公にしており、作品としてはまずまずの出来であったが、それほどヒットはしなかった。
他の製作会社
1920年代、スオミ・フィルムがフィンランドにおける映画製作のほとんどを担っていた。1919年から1930年にかけて製作された長編映画37本のうち、23本がスオミ・フィルム製作であった。他の製作会社は1本か2本を製作した後、消えてしまうことが多かった。ドイツ人撮影監督の Kurt Jäger はスオミ・フィルムを去り、コメディア・フィルム(Komedia-Filmi)を立ち上げた。この会社は、当時フィンランドにおける映画配給のほとんどを手がけていた国際的な映画トラストの Ufanamet と関連があり、スオミ・フィルムの手強いライバルとなるかに思えた。スオミ・フィルムは自身の国家的価値を強調し、コメディア・フィルムと Ufanamet を外国からの侵入者と呼んだ。スオミ・フィルムにとって幸運なことに、コメディア・フィルムも Ufanamet も成功せず、結局コメディア・フィルムは2本の映画しか製作しなかった。2本目はKurt Jäger とRagnar Hartwall監督の "On the Highway of Life" (1927)で、モダンなコメディを製作しようという試みであった。
首都以外でも映画製作の試みはあったが、ヴィープリやオウルで製作された映画はヘルシンキで上映されるには質が低かった。しかし、現在残っていないが、Uuno Eskola監督で、アクイラ・スオミ (Aquila-Suomi) によってタンペレで製作された "No Tears at the Fair" (1927)と "The Man of Snowbound Forests" (1928)はまずまずの出来であった。タンペレにおいて長期的に活動した製作会社はないが、しかしアクイラ・スオミのプロデューサーであった Kalle Kaarna は映画監督としての才能を現した。最初に監督した "With the Blade of a Sword" (1928) は1918年に起きた内戦を中立的な視点から描き、2本目の "A Song about the Heroism of Labour" (1929)はプロレタリア階級の新しいヒーローを登場させている。しかし、この2本の映画も失われてしまった。
1931年から1933年: トーキーの到来
最初の音声つきの作品はトゥルクにあった Lahyn-Filmi によって製作された。前編に音声がつけられた最初の作品はLahynの "Say It in Finnish" (1931)で、ユーリア・ニュベリ(Yrjö Nyberg、後のNorta)の監督であった。この作品は長編映画というよりミュージカル・レヴューを集めたものであった。
スオミ・フィルムも同年、サイレント映画ではなくトーキーを製作するようになる。サウンドトラックのつけられた最初のフィンランド映画は "Dressed Like Adam and a Bit Like Eve Too" (1931)で、Agapetusの戯曲の映画化であった。しかしこの作品には音楽と多少の音響効果が使われているだけであったため、本当の意味でのトーキー作品は エルキ・カルの田園ドラマ "The Lumberjack's Bride" (1931)が最初であるといえる。
1934年から1939年: 黄金時代
スタジオ・システム
1933年、カルは自分が設立した会社のスオミ・フィルムから追い出されてしまう。彼はスオミ・フィルムに対抗するために Suomen Filmiteollisuus という映画制作会社を設立した。カルはこの会社で何本かのコメディをヒットさせ、スオミ・フィルムよりも成功する結果となった。この時点では、フィンランドでカルのみが成功する映画制作会社を作ることが出来るかに見えた。