大韓民国の国旗 (だいかんみんこくのこっき)は太極旗 (たいきょくき・テグッキ)と呼ばれ、白地の中央に置かれた赤と青の2色からなる「陰陽 」で「太極 」を表し、その周囲四隅に「卦 」を配置するなど、中国の伝統的な図案を取り入れたデザインとなっている。太極旗の名称・デザイン・用法は大韓民国の法令 によって定められている。
太極旗は、李氏朝鮮 (高宗 )時代の1883年 旧暦 1月27日 に朝鮮国の国旗として初めて公布され、朝鮮独立運動 を通じて朝鮮民族 を象徴 する旗として認知された。その後、1948年 8月15日 に大韓民国 が独立を果たすと、1949年 10月15日 に大韓民国の国旗として法令 でデザインが確定した。この頁では、大韓民国の国旗として制定されるまでの太極旗の歴史についても記述する。
太極旗の歴史
縦掲揚バージョン大韓民国政府の規定で、余白が必要であるため、太極と八卦が中央にない
誕生から国旗制定へ至る経緯
黄遵憲 が朝鮮国旗として使うことを主張した1880年 当時の清国 ・黄龍旗(国旗)。後に李鴻章 は爪の数を四つに減らした龍 を国旗とするよう指示した。
参考用:八卦 に太極図 を組み合わせた図。馬建忠 が提唱した国旗図案は太極が三太極 では無く陰陽魚 であり、卦 の配置も異なっている[ 注釈 3] 。馬建忠の国旗図案は「韓洪九 2003 , p. 57」、及び「ハンギョレ21 (朝鮮語版 ) が2002年に配信したオリジナル記事[ 1] にて閲覧できる。
『Flags of the Maritime Nations , 5th.ed., Bureau of Navigation, Secretary of the Navy, Washington.D.C., july 1882』に収録された「Corea」の「ensign」。49ヶ国150旗の1つとして掲載されている。2003年にソウルの古書店ARTBANKが入手した。その刊行年が正しければ、現存する資料の中で最も早く太極旗を伝えたものとなる。
太極旗を初めて国旗 として使用したのは朝鮮国(李氏朝鮮 )である。だが、李氏朝鮮が太極旗を自国の国旗とするまでの経緯については史料毎に差異があり、不明確な点が多い。
1875年 に江華島事件 が勃発した時点で、李氏朝鮮にはまだ国旗が無かった[ 2] 。その後、李氏朝鮮の国旗制定が具体的な問題として浮上したのは、1880年 に日本 から帰国した修信使・金弘集 らが、清国 の駐日公使館参事官・黄遵憲 によって書かれた『朝鮮策略 』を持ち帰ってからである。『朝鮮策略』はロシア の南下政策 に対して朝鮮がアメリカ と連合すべきとする書物であるが、ここで初めて朝鮮の国旗の図案についての言及があり、朝鮮が清の属国 であることを強調するため、清国国旗 (黄龍旗)をそのまま朝鮮国旗として使用することを主張した。そこで、李氏朝鮮は国旗制定にあたり、どの色の龍旗が良いか清国の助言を求めたところ、北洋大臣 の李鴻章 から「朝鮮国王の御旗である『龍を描いた四角い旗』[ 注釈 4] (畫龍方旗[ 3] )が清の黄龍旗と似ているのでこれを国旗として使用すればよい」という詔書を下賜された[ 4] 。その際、五爪龍 (爪が五つの龍)は天子 (中国皇帝 )の象徴であるため、冊封国 である朝鮮は旗に描く龍の爪を四つにするよう具体的に指示されていたが、李氏朝鮮は最終的に龍旗を国旗として用いなかった[ 4] 。
具体的な国旗の図案について最初の議論が行われたのは、1882年 に清国から米朝修好通商条約 締結を斡旋するため訪朝した馬建忠 が、条約の締結式で使う李氏朝鮮の国旗を巡って李朝官吏と会談した時である。その筆談の内容を記録した『清国問答』によると、5月22日 (旧暦 4月6日 )に行なわれる米朝修好通商条約の締結式にあわせ、李朝官吏の李應浚 (朝鮮語版 ) が金弘集の指示を受け前日に国旗の図案を作成していた。だが、締結式当日に馬建忠は申櫶 (朝鮮語版 ) と会談し、李應浚の国旗案と黄龍旗をそのまま朝鮮国旗とする案を否定した上で、朝鮮人の服 色である民の白、臣の青、王の赤にちなんだ「白底青雲紅龍」の図案を提案した[ 5] 。実際に朝鮮国旗として馬建忠の提案した旗が締結式で使われたかは不明だが[ 6] 、締結式後の5月27日 (旧暦 4月11日 )に李朝側は青雲と紅龍は作るのに手間がかかるため、赤地に青と白が交わった円の図案はどうかと馬建忠へ提議し、これに対して馬建忠から個人的意見として地は白地の中央に半紅半黒の太極の印を置き、その周囲に朝鮮八道 を象徴する八卦 を配した古太極図 の図案を提唱されている[ 7] 。この馬建忠による太極八卦の国旗デザインは李朝側に受け入れられ、後の大韓民国国旗の雛形となっていった事から、韓国の歴史研究家である韓洪九 は「太極旗のデザイナーは馬建忠」としている[ 4] 。
朝鮮の国旗として用いられた旗を最初に確認することができるのは、1882年9月に朴泳孝 が訪日した時である。同年7月の壬午事変 を機に、李氏朝鮮は日本 との間で済物浦条約 を締結し、その規定に従い謝罪の使節(特命全権大使兼朝鮮修信使 )として朴泳孝 らを日本へ派遣した。その際、朴泳孝は約4ヶ月間に渡る訪日中の出来事を日記 (『使和記略』)として記しており、その中に太極旗の図案変更の経緯に関する記述がある。『使和記略』によると、9月20日 (旧暦 8月9日 )に仁川 から日本船籍の明治丸に乗り日本へと向かった朴泳孝らは、当初馬建忠が提唱した太極 文様の周りに八卦 を描いた太極図 の旗を持っていた。しかし、朴泳孝が船内でイギリス 領事 のW. G. アストン とイギリス人 船長ジェームスに対し、八卦と太極文様を描いた太極図を見せ国旗としての出来について相談した所、船長から「八卦が複雑で区別しにくく他国がこれを見て作るのに不便である」と助言を受けた。そのため、朴泳孝は八卦から四卦を削り、残りの四卦を45°傾けて四隅に配した図案を提案し、船中で大・中・小3本の太極旗を作ったという。9月25日 (8月14日 )に神戸 へ到着した一行は宿泊先の西村旅館で初めて完成した太極旗を掲げ、10月3日 (8月22日 )には太極旗小本と共に国旗制定を本国に報告したとされる[ 8] 。
ただし、日本の日刊新聞 「時事新報 」は1882年 10月2日 付の紙面でこの太極旗を紹介しているが、太極旗を国旗とした経緯について『清国問答』とは異なる内容を掲載している。
「...馬建忠が朝鮮の國旗は支那に從ひ三角形の靑地に龍を書くべし本國支那は黃色を用るども朝鮮は支那の東方に當る邦たるを以て東は靑色を貴ぶの意により靑地を用ふべしと指示したるに國王は大に之を憤み決して支那の國旗に倣ふべからぬとして四角形の玉色地に太極の圖(二つ巴繪)を靑赤にて書き旗の四隅に東西南北の易卦を附けたるを自今朝鮮の國旗と定むる旨沙汰せられたりとあり...」
大意
「...(清国 の)馬建忠 が「朝鮮の国旗は清国の国旗 に倣って三角形の青字に龍 を描いたものにすべきである。清の国旗は黄色であり、朝鮮は清の東方に位置する国であるため、東を表す青色を旗の地色にすべきである[ 注釈 5] 。」と指示した。これに対し国王(高宗 )は大いに憤慨し、絶対に清国の国旗を真似ないと言って、「玉 色地に二つ巴 の太極図 を青色 ・赤色 で描き、四隅に東西南北を表す易卦 を配置した旗を今後は朝鮮の国旗と定める」と決められた。...」
また、2004年 に発見された1882年 7月 発行の冊子『海上国家の旗』(Flags of Maritime Nations ) 第5版[ 9] にはCorea(朝鮮)の「ensign」(エンサイン )として太極の印と四つの卦から成る旗が収録されており、『使和記略』に描かれた太極旗制定の経緯(1882年9月)と時期が合わない。韓国 では、「『海上国家の旗』の「ensign」は李應浚が創案して米朝修好通商条約の締結式で使われた朝鮮初の国旗である。」と民間の研究者が主張しており[ 10] 、韓国を代表する百科事典 である斗山世界大百科事典 は「江華島条約 締結後、李朝は1881年 に忠清道 の観察使 だった李淙遠(이종원)が提出した太極八卦の図式を最初の国旗に定めた。だが、実際に初めて使用された太極旗は、米朝修好通商条約 (1882年 )の際に通訳 の李應浚が金弘集の命を受け作成したものである。」としている[ 11] 。韓国政府(行政自治部 )も「ensign」を太極旗の原型であると推定している[ 6] が、『海上国家の旗』には旗の図柄しか掲載されていない上、朝鮮側でも関連史料が見つかっていない為、「ensign」の制定時期や制定の由来・使用方法については一切が推測の域を出ていない。
いずれにせよ、朴泳孝の訪日後は「太極の文様と四つの卦 」という基本的な旗の図柄に変更が為されず、翌1883年 旧暦 1月27日 (3月6日 )、高宗は王命で太極図と四掛の絵柄からなる太極旗を国旗として制定し[ 6] [ 12] 、統理交涉通商事務衙門 の指示によって八道四都(朝鮮全土) へ国旗に関する通知がなされた。これにより、太極旗が正式に朝鮮の国旗として使われるようになった。
「太極旗」という名称の発生と浸透
韓国政府(行政自治部 [ 6] や国家記録院 [ 13] )は太極旗の国旗制定について「(李氏朝鮮 は)王命で「太極・四掛の絵柄」の「태극기」(太極旗)を国旗に制定・公布した」と説明しているが、朝鮮王朝実録 (高宗実録 )を始めとする当時の李氏朝鮮・大韓帝国 の史料は太極旗を「国旗」(국기)と記すのみで、少なくとも公的には「太極旗」という表現は用いられていなかった。
「太極旗」という名称が用いられるのは、三・一運動 の時が最初と韓国ではみられている。1919年 1月21日 の高宗 の急死後、国葬 が行われる同年3月3日 に向けた独立運動が計画されるようになり、同年3月1日に「独立宣言」書の読み上げと旧大韓帝国国旗の掲揚を行うことになった。だが、当時旧国旗は「朝鮮国旗」(조선국기)と呼ばれていたが、旗を準備するにあたって「朝鮮国旗」という呼称を用いると日本人 に独立運動の動きが発覚する恐れがあった。その為、日本人に分かられないようにする目的で旧国旗の名称を「朝鮮国旗」から「太極旗」へと変えたとされる[ 14] 。
その後、「太極旗」という名称は朝鮮独立運動 と共に関係者の間で浸透し、1942年 [ 注釈 6] に大韓民国臨時政府 が初めて朝鮮の国旗を「太極旗」と表現した[ 14] 。そして、1948年 7月12日 に韓国の独立準備をしていた大韓民国制憲議会 が韓国の国旗を「太極旗」とすることを決定し[ 15] 、李氏朝鮮の旧国旗に由来する旗の名称は正式に「太極旗」となった。以降、韓国の国旗は「太極旗」であると、「国旗製作法」(1949年- 2007年)及び「大韓民国国旗法」(2007年 -)で明記されている。
デザインの変遷
左:日本・1882年 10月2日 付「時事新報 」掲載。朴泳孝 ら訪日使節団 が日本で使ったもの。 中央: 清・李鴻章 編『通商章程成案彙編』(1886年 )収録。「大淸國 屬 高麗國 旗」の文字が見える。 右: ソウル大学校 奎章閣 韓国学研究院の所蔵史料にある御旗「太極八卦図」[ 16] 。太極旗以前に太極図を旗として使用したもの。
1945年 8月16日 に京城府 のYMCA で演説する建準 委員長の呂運亨 。画面右側に建準の旗、左端に太極旗が見える。太極旗は半分しか映っていないが、太極図の青色部分と四掛の配置状況から臨時政府 や現行の太極旗と異なるデザインである事が分かる。
1945年8月25日 に京城府南山 の国旗掲揚台に掲げられた太極旗。現行の太極旗と似たデザインだが、四掛の配置状況が異なっている。
1948年 8月15日 の大韓民国政府樹立式典の場で掲げられた太極旗。画像中央にある大きな太極旗は、臨時政府が使用していたデザインとなっている。また、右隣の小さな太極旗は太極文様の状態が不明だが、四掛の配置状況が異なっている。
1949年 に大韓民国の法令で制作方法が制定されるまで、太極旗の詳細なデザインは統一されていなかった。そのため、同じ時代でもさまざまなバリエーションの太極旗が存在している[ 17] 。
太極旗が制定される前から、李氏朝鮮 では太極 と八卦 を文様とする旗が用いられていた。ソウル大学校 の奎章閣 に保管されている資料によると、儀仗 の際に国王 の象徴として使われた「御旗」(어기; オギ)では、太極 の周りに八卦 を配置した「太極八卦図」が用いられており、太極図 は『太極図説 』に描かれていた周氏太極図 の陰陽 部分が用いられていた。李氏朝鮮の国軍で使われた軍旗の一つ「坐纛旗」(좌독기; チャドギ)も、太極 の周りに八卦と洛書 を描いた構図となっていた[ 18] 。ただしこれらの旗は用途が限定されたもので、王宮や軍以外で用いられることはなかった。
従来の史料では、1882年 5月 に清国 の馬建忠 が太極の周りに八卦を配置した太極旗の原案を考案し、同年9月 に朝鮮修信使 兼特命全権大使 である朴泳孝 が日本 へ向かう船の中で八卦を四卦に減らした上で左に45°傾けたデザインに変更し、同年10月2日 付の「時事新報 」に掲載された太極旗が視認できる最古のものとされてきた。だが、1882年 7月に発行された古書 『海上国家の旗』(Flags of Maritime Nations )[ 9] が公式に太極旗を視認できる最古の資料であると2003年 に確認されたため、朴泳孝の訪日以前の段階で既に四卦を使った太極旗のデザインが考案され、実際に使用されていた可能性が出てきている。
1883年 3月 の国旗制定時点における太極旗の実物は朝鮮本国に残っておらず、アメリカ のスミソニアン博物館 が所蔵する1884年 製の太極旗(通称:デューイの太極旗)が実物サイズでもっとも古いものである[ 19] 。韓国に現存する実物は、1890年 に高宗 からアメリカ人 顧問 へ下賜された太極旗(通称:デニーの太極旗)が最古のものとなっている[ 20] [ 21] 他、 清国 の『通商章程成案彙編』(李鴻章 編、1886年 刊行)等、他国の史料の中に絵で伝えた太極旗が残されている。だが、1883年に制定された太極旗の規定は、デザインについて「太極図と四掛の絵柄」と曖昧な表示しかしていなかったため[ 6] 、四隅に置かれる卦 の配置方法や色、中央にある太極図 (陰陽魚)の構図や配色(色の濃淡)でいくつものバリエーションが生じてしまっている。なお太極旗が考案された1883年時点で、李氏朝鮮は清王朝の冊封体制 に服属していた。この為、1886年 に清の李鴻章 によって編纂された『通商章程成案彙編』に収録された太極旗は、清国の国旗、軍旗 、商船旗 の後に位置づけられており、同時に「大淸國 屬 高麗國 旗」と明記して掲載されている[ 22] 。このことから、当時の朝鮮は清から従属国 として扱われていたことが分かる[ 注釈 7] 。
国旗制定後、李朝は太極旗を主に外交 の舞台で使っていたため、一般大衆の間で太極旗の存在感は微々たるものだった。だが1905年 以降の日韓併合 に至る過程で太極旗は「朝鮮国権 の象徴」として抗日 活動家に注目され、3・1運動 の際にデモ行進 の参加者が太極旗を持って行動したことが契機となり、太極旗は一般朝鮮人の間でも「朝鮮民族の主体性を表す旗」として認知されるようになった[ 23] 。そのため朝鮮独立運動 の活動家は「独立運動 の象徴」として太極旗を用いるようになるが、もともとのデザイン規定が曖昧な上に独立運動家達も別個独自に活動をしていたので、具体的なデザイン方法が制定・統一されることはなかった。このような状況を受け、「朝鮮の亡命政府 」を自称する大韓民国臨時政府 (1919年 樹立)は、1942年 6月29日 に「国旗統一様式」を制定・公布して太極旗の作り方を統一させようとした[ 6] 。しかし、臨時政府の影響力自体が限定的だったため一般の朝鮮人 に広く知られることはなく、臨時政府の軍事組織である光復軍 ですら「国旗統一様式」と異なる太極旗を使用するありさまだった[ 17] ため、1945年 9月に臨時政府が事実上崩壊してからは一切使われなくなった。一方、第二次大戦の日本降伏宣言 (玉音放送 )直後、朝鮮では朝鮮建国準備委員会 (建準、後の朝鮮人民共和国 )が組織の旗として太極文様を用いた旗を使っていたが、短期間で崩壊したため太極旗のデザインに関する取り決めは特に残されていない。1945年9月9日 の朝鮮総督府 降伏後、朝鮮は38度線 を境として在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁 (南側)とソビエト民政庁 ・北朝鮮人民委員会 (北側)の分割統治状態となった が、いずれの統治機構も太極旗のデザイン統一について何ら言及しなかった。
1948年 7月12日 、米軍軍政庁 の統治下で大韓民国 の独立準備をしていた大韓民国制憲議会 は、太極旗を大韓民国の国旗とすることを正式に決定した[ 15] 。だがその場でも太極旗の詳細なデザインは決められなかったため、韓国政府 は実務上の必要性から1949年 1月に「国旗是正委員会」を設置し、同年10月15日に「国旗製作法」を公布して史上初めて詳細な太極旗の作製方法を確定させた[ 6] 。これ以降、太極旗のデザインに基本的な変更はなされておらず、2007年 1月26日 以降は同日公布の「大韓民国国旗法」によって太極旗の図柄配置や標準色等の詳細な規格が定められている[ 24] 。
北朝鮮の太極旗
「朝鮮独立の象徴」であった太極旗は、ソ連軍の監督下 に置かれた北朝鮮(38度線 以北の朝鮮地域)でも朝鮮民主主義人民共和国 の建国直前まで使われた[ 25] 。
日本の降伏 宣言(玉音放送 )直後、北朝鮮各地では朝鮮建国準備委員会 (後の朝鮮人民共和国 )の地方組織(人民委員会 )が設立され、光復 実現の象徴として太極旗を使用していた。その後、北朝鮮は全域がソ連軍 の占領 下に置かれたが、占領行政 組織として1945年 10月に設置されたソビエト民政庁 は北朝鮮各地の人民委員会を後援する形で占領行政を進めたため、太極旗は朝鮮人 の行政旗として使われ続けた。モスクワ三国外相会議 (同年12月)の取り決めで、朝鮮は米 ・英 ・ソ ・中 による最長5年の信託統治 を経た上で最終的に南北を統一する単独政府を樹立して独立 する予定とされた。そのため、1946年 2月8日 に社会主義者 達による自治組織・北朝鮮臨時人民委員会 が樹立されても、太極旗は「朝鮮の旗」として人民委員会 で使用され続けた。ただし、人民委員会や北朝鮮人民委員会も太極旗のデザインについて規範を定めなかったらしく、残されている写真資料には様々なバリエーションの太極旗が写っている。
一方、信託統治の実施方法を決めるために1946年 1月から開かれた第一次米ソ共同委員会は、信託統治受け入れに反対(反託)する李承晩 、金九 ら大韓民国臨時政府 系の民族主義者 達の扱い等を巡って紛糾し、同年5月に無期限休会となった。これを受け、ソ連当局は信託統治を経て統一政府を樹立する従来の国際合意を無視して北朝鮮人民委員会による北朝鮮単独の政府樹立を目指すようになり、国旗についても1947年 夏に新国家樹立と共に新しい旗を創るよう駐北朝鮮ソ連軍から北朝鮮労働党 へ指示が与えられた[ 26] 。ソ連軍から呼び出しを受けた党指導部の金枓奉 は、ソ連軍将校ニコラィ・ゲォルギェビーチ・レベデフ (英語版 ) に対し既存の太極旗を国旗として支持する旨を述べ、旗が持つ意味について細かい説明を行った。だが、ソ連軍人にとって金枓奉が説明した旗のデザインの基である中国哲学 は「中世の迷信のようなもの」に過ぎなかったため、ソ連軍は数か月後に新国旗のデザインに関する指示を北朝鮮労働党へ出し、新しい朝鮮の国旗 (藍紅色旗)が完成した。翌1948年 に金枓奉は『新しい国旗の考案と太極旗の廃止について』という書籍を刊行し、藍紅色旗を「優れた発展を成し遂げていく幸せな国」の象徴であるとする一方、太極旗を「非科学的で迷信 がかっており、不必要なまでの難解さと多様な要素が国の発展を妨げる可能性がある、国旗にふさわしくない旗」として、新しい国旗を制定する理由づけを行なった[ 27] 。北朝鮮における国旗制定に関しては具体的な情報がほとんど入らず[ 28] 、一連の出来事が起きた日付については不明である。だが、北朝鮮人民会議 が1948年 4月に藍紅色旗を新国家の国旗として制定し[ 23] 、同年7月8日に使用する旗を太極旗から藍紅色旗へ切り替えた[ 29] ことは韓国の報道機関 の調査で分かっている。そして朝鮮民主主義人民共和国 建国(1948年 9月9日 )以降、北朝鮮で太極旗は一切使用されていない。
なお、北朝鮮政府は「国粋主義 化」(満洲派 の権力独占に伴う「唯一思想体系 」の確立)とその過程における金枓奉の粛清を経て、北朝鮮の国旗が制定された歴史的経緯の説明文から「ソ連の影響」を消し去っている[ 30] 。北朝鮮の国営ポータルサイト 『ネナラ 』は「国旗にまつわる話」として、「北朝鮮人民委員会が1948年2月 初旬に新国旗の原案を完成させたが、金日成 の指導によって赤い星 の追加やデザイン修正がなされ、今の形が誕生した」というエピソードを紹介し、「金日成の細やかな指導」を強調している。一方で、国旗が制定された経緯や日付、独立前に金日成が太極旗を使っていた事実については言及していない[ 31] 。
大韓民国の太極旗
大韓民国の国旗に関する事項は、別途特別な法規定が無い限り大韓民国国旗法(2007年 1月26日 公布、2014年 1月28日 最終改正)に従って運用される(同法第3条)こととなっており、同法第4条で太極旗が大韓民国の国旗であると明示されている[ 24] 。同法では太極旗の制作・管理に関する基本事項の諸規定が定められているが、これは国旗に対する認識の向上と尊厳の守護を通じて国民の愛国心 を高めることを目的としている(同法第1条)。その為に大韓民国の太極旗は、制作方法や後述の取り扱い方法 が、同法と大統領令 第23091号(大韓民国国旗法施行令)[ 32] の条文によって厳格に決められている。
制作方法
太極旗の制作方法は、大韓民国国旗法第7条に従い、大韓民国国旗法施行令第6条 - 第8条[ 32] によって規定されている。
描画方法は同施行令第6条によって、旗の大きさと用途別の推奨規格は同施行令第7条と付属別表[ 33] によって、下記の通りに定められている。ただし、縦横の比率2:3を維持していれば、規格と異なる大きさの旗を製作することができる。
(規格名) 特号:(縦) 360cm 以上×(横) 540cm以上 - (用途) 建物の国旗掲揚台用
1号:300cm×450cm - 建物の国旗掲揚台用
2号:204cm×306cm - 建物の国旗掲揚台用
3号:180cm×270cm - 建物の国旗掲揚台用
4号:150cm×225cm - 建物の国旗掲揚台用
5号:120cm×180cm - 建物の国旗掲揚台用
6号:102cm×153cm - 建物の国旗掲揚台用
7号:90cm×135cm - ①建物の国旗掲揚台用、②家庭用
8号:60cm×90cm - 家庭用
9号:30cm×45cm - 車両用
10号:18cm×27cm - 車両用
また、旗に使う標準色は同施行令第8条によって下記の通りに定められている。
図柄の起源・解釈を巡る主張
八卦の生成
太極旗の図柄の起源や意味合いに関して、太極旗を初めて作成した李氏朝鮮 の関係者は記録を残していない。そのため韓国では、太極旗の図案を「朝鮮固有の文化や伝統ではなく、中国の『周易 』からの借りもの」[ 37] とする意見がある一方で、「中国の『太極図説 』とは関係の無い朝鮮固有の模様」[ 38] とする意見があり、見解が分かれている。
韓国が独立するまで、太極旗は「中国(易)の思想・哲学に由来する」との考えが一般的だった。1947年 夏[ 26] に北朝鮮労働党 指導部の一員である社会主義者 の金枓奉 は、駐朝鮮ソ連軍 の将校 ニコラィ・ゲォルギェビーチ・レベデフ (英語版 ) に対し太極旗の意味について「中国哲学 」を基にした説明を行っている[ 27] 。ただし、『易経 』を構成する『繋辞伝』には「太極 が両儀 (陰陽 )をもたらし、両儀から四象 が生じ、四象が八卦 をもたらす」[ 37] という易の思想が書かれている。一方で、太極旗は現存の史料による と、「親日派 」の朴泳孝 がイギリス人 船長の助言に従って外国人にも分かり易いデザインとする為に、中国人 の馬建忠 が提案した太極図 の八卦を四卦に減らし、そして四卦の位置を四隅に配列した経緯がある。その為、周易 の専門家からすれば太極旗の図案は誤ったものと言わざるを得ず、韓国政府が「国旗製作法」(1949年 10月15日 公布)で太極旗の図案を確定させた後も、太極旗の陰陽の角度と卦の配列を巡る論争はやむことが無く[ 39] 、韓洪九 は、韓国で刊行されている太極旗に関する書籍(2003年時点)の多数が現在の太極旗は誤りであると主張していることを指摘している[ 40] 。
このような易学的観点に基づいた太極旗への批判に対し、韓国政府と韓国の民族主義 団体は太極旗を「(朝鮮)民族の象徴」として躊躇なく掲げられるよう、太極旗の起源が朝鮮文化 の中にあるとする理論(韓国起源論 )を構築・展開して太極旗の「韓国化」ないしは「脱中国化」を推進している[ 41] 。例えば、1957年 に「わが国旗を大切にする会」が発行した『国旗解説』[ 42] では、太極八卦は檀君 の教えに基づいており古朝鮮 から使用されてきたと主張している[ 41] 。また、文化教育部 元長官 (1954年-1956年)の李瑄根 (朝鮮語版 ) は、エジプト ・ローマ [ 43] ・アテネ ・ビザンチン ・アメリカ先住民 が使った土器等の古代の遺物や新羅 の曲玉 など太極と類似した文様を探し出して、太極は「古代の人類共通の宇宙観」を表出しているのであって中国固有のものではないとの「強弁」を展開[ 39] している。彼は成均館大学校 の総長だった1959年 に『私たちの国旗制定の由来とその意義』という論文を発表し[ 44] 、その中で「太極旗のデザインは『周易』から作案されたものではない」から、「中国易学者の思考様式」で「これ以上無駄な解釈論議をし続けることは皆が慎むべき」で、「今後誰しも文化教育部が既に決定したところ」に従い「国旗図案の易学的解釈に固執したり、みだりに主張したりしないように求める」と主張している[ 45] 。その後も「太極旗の韓国化」を目指す試みは続き、1995年 には「太極旗が檀君の『弘益人間 』[ 注釈 8] という理念を反映している」と主張する「大韓民国国旗宣揚会」が、太極旗変遷史展示会を開催したときに刊行した図録で、現行の太極旗に似た四卦の太極旗が鮮明に描かれている「1392年 製作の梵鐘 」を掲載したが、韓洪九 は「もし事実であれば驚くべきこと」と評しており、さらに梵鐘の実物は今まで公開されていない[ 41] 。韓国陸軍 の機関紙『陸軍』第230号掲載の記事「태극기 유래를 통해서 본 민족정신」は、件の梵鐘は1954年 に神奈川県 小田原市 で発見され、韓国国立中央図書館 の「太極旗図説」に鑑定書が収録されていたが、後に行方不明になったと主張している[ 46] 。また、「太極は三国時代 から朝鮮民族 が愛用してきた伝統的な固有の紋様」である証拠として、太極図説 の撰述(1070年 )以前に建立(682年 )された新羅 ・感恩寺の礎石に刻まれた「中国の太極図とは形が異なる太極模様」を2008年 に朝鮮日報 が[ 38] 、次いで百済 時代(538年 -660年 )の遺構から見つかった木製品に書かれた太極文様を2009年 に中央日報 が[ 47] 、それぞれ提示している。これら「太極旗の韓国化」に関する探究は韓国の百科事典 に反映されており、韓国民族文化大百科事典 に掲載された『太極旗』の項目では「太極図形の文様と理念は、古代(三国時代 )から陰陽 思想を理解した朝鮮民族によって、「太極図説」が(中国で)書かれる前から伝統的に使われてきた」との主旨を述べている[ 48] 。
一方、韓洪九 は、太極旗の原理の太極と四卦は『周易 』が起源であり、「われわれ固有の文化や伝統ではなく、中国の『周易』からの借りものです」と述べている[ 49] 。
公的な図柄の解釈
太極旗は、白地の旗、旗の中央にある赤と青からなる太極円 (太極文様)、及び旗の四隅にある乾 ( 、けん)・坤 ( 、こん)・坎 ( 、かん)・離 ( 、り)の四種類の卦 (四掛)によって構成されている(大韓民国国旗法第7条第1項、及び第2項)。
韓国政府(行政自治部 )は、太極旗の各部に込められた意味合いについて公的な解釈を示しており、自国民に対しては行政自治部 が下記の通りに説明している。また、国外に対しては文化体育観光部 傘下の海外文化弘報院 (朝鮮語版 ) が、日本語 [ 50] 、英語 [ 51] 、中国語 [ 52] を含む9言語で同じ内容を紹介している。
...太極旗の白地は、明るさと純粋さ、そして伝統的に平和 を愛する私々(朝鮮民族 )の民族性を示している。真ん中の太極文様は陰 (青色部分)と陽 (赤色部分)の調和を象徴するもので、宇宙 の万物が陰陽 の相互作用によって生成し発展するという大自然 の真理 を形象化したものである。四隅の四掛は、陰と陽が互いに変化し発展する姿を爻 (陰:⚋(真ん中が途切れた2つの短い横棒)、陽:⚊(長い横棒))の組み合わせを介して、具体的に示したものである。卦 の中で、「乾」は宇宙万物の中で天 を、「坤」は地 を、「坎卦」は水 を、離は火 を(それぞれ)象徴しており、これら四掛が太極を中心として統一された調和を成している。 このように、昔から私々の先祖が生活の中で楽しんで使っていた太極文様を中心に作られた太極旗は、宇宙とともに長久の創造と繁栄を希求する韓民族(朝鮮民族)の理想を含んでいる。...[ 6]
より詳細な解釈は、教育部 傘下の韓国学中央研究院 が編纂した『韓国民族文化大百科事典 』の項目「太極旗」に記されており、要約は下記の通りである。
白地 :下地が白い色彩 になっているのは、純一で無雜な朝鮮民族の同質性と潔白性を象徴したものであり、平和 を愛好する精神が私たちの民族の気質と理想であることを明らかにしている。
一円相の太極と陰陽 :儒教 哲学 で宇宙 万象の根源である太極 は、人間 の生命 の源泉としての真理である人道 を表現している。金長生 は「人極(=人道)の主体は、人を害せずに自己の完成と他人の(自己の)完成を同時に可能とする共同主体である。これによって各個人の人格 が尊重され、自由 と平等 の道理が成立し、国家社会の安寧と秩序が維持される」とする。朝鮮民族は歴史的に天地人 の三才 の中で天地の要素を人間に集約して人道主義 の精神を鼓吹してきた。また、太極は陰陽 も表しており、紅色 の陽と青色 の陰が上下に相対和合されている図象は、天 (陽)は上に地 (陰)は下にあることを示している。陰と陽は本来なら性質が異なり別に分かれているが、互いに離れられず相互に依存して作成・発展し、陰陽の循環と調和の中で万物が成長し、繁栄する。そして天と地(陰陽)の間に人間があるからこそ、社会と国民国家が形成されるのである。
四卦 :乾 ・坤 ・坎 ・離 の四卦は、中国 の太極図 と違って(卦の)図形が右から左へ回転しており、太極図形の陰陽文様と切り離せない関係で配列され、陰陽が生成、発展する様相を示している。乾は天道 として至善・至公の正義を意味し、坤は地道として厚徳と豊饒の共利を象徴し、坎は水性として知恵 と活力を示し、離は火性として光明 と情熱 を意味する。これは産業 と道義(道徳 的義理 )をバランスよく発展させ、情熱と知性を兼ね備えた正しい人間と社会を成し遂げるという理想を含むものである。つまり産業と道義、情熱と知性が円満に調和することにより、社会の安定と秩序を維持し、一人一人の人権 が尊重され、自由が保障されている福祉 社会を構築する基盤となる事を示している。
文化 の創造と人類の平和を象徴する太極旗は、大韓民国が希求する座標であると同時に弘益人間 の国是 (国の標語 )を表現している。[ 48]
韓国国外における太極旗の紹介
太極旗の図案について、前述の通り韓国では「中国とは関係の無い朝鮮固有の模様」[ 38] とする意見が公的見解となっているが、韓国国外では「中国の『周易 』等の思想に基づいた模様」として紹介されることが多数である。
日本 においては、朝鮮に関連した文物の事典 である『韓国朝鮮を知る事典』が、太極旗は「≪太極図説≫≪周易≫にもとづ」くと記している[ 53] 他、旗章学協会国際連盟 の公認団体である日本旗章学協会 [ 54] の会長が執筆した『世界の国旗図鑑』が太極について「陰陽が合わさって調和を保つという中国古来の思想を示している」[ 55] と紹介している。
また、各国の国旗を紹介・解説する別の書籍でも「(太極は)相対する2つのものが合わさって調和を保つという中国古来の易学 の宇宙観をしめしている」[ 56] 、「太極図の周囲四隅に配された卦 は、古代中国の書物『易経』からとったものである」[ 57] 、といった解説が為されている。
その他、在日韓国人 が運営する東洋経済日報 が自社HP公開している「韓国ガイド」の「国旗」欄においても、「中央の円の太極は、中国易学の宇宙最高の原理を意味する」と解説している[ 58] 。
中国 や台湾 においても同様で、中華百科全書 (中国語版 ) の「韓國國旗」の項目が「(太極旗の)太極思想は中国の太極図説 と周易の解釈に由来する」[ 59] としている他、中国大陸 の書籍で「(旗に使われる)紅藍二色の各半的な図形は古代の陰陽 太極図 から采られ、図形の四周にある黒い棒は《周易 》の卦 図から取っている」[ 60] 、香港城市大学 出版社が刊行した『南韓: 創造奇蹟 』で「(太極旗は)《周易 》の思想を根拠とし、八卦を四卦に減らして製作された」[ 61] とそれぞれ紹介されている。またインターネット 媒体でも、中国電信 傘下のポータルサイト ・21CN (中国語版 ) が「太極旗は《周易》の哲学を基に作成された」とする記事を掲載している[ 62] 。
台湾 の評論家 何則文 (中国語版 ) は、1882年 に李氏朝鮮 の政治家 の朴泳孝 と金玉均 が李氏朝鮮の外交交渉時に、清国の「黄龍旗 」を使用できるよう清国に許可を求めたが、清国が拒否したことから、その代わりに清国の外交官の馬建忠 が太極旗をデザインした、と紹介している[ 63] 。
太極旗と類似する図柄
浜松市市章
伊勢崎市市章
前述の通り韓国の太極文様は「朝鮮人が伝統的に使ってきた(朝鮮起源の)文様」と韓国ではされているが、一方で太極図 自体は中国文化圏 に広く普及する図案 である。その為、韓国との関連性に関係無く、韓国以外の国でも国旗やそれ以外の図案に用いられている。(詳細は、太極図#使用例 を参照のこと。)
また、文化的背景に関係無く太極図と類似した巴 の図案も世界各地で見られ、行政機関 の紋章 (日本 の浜松市 市章 や伊勢崎市 市章 )や企業 のロゴマーク (シマンテック (画像 )、ペプシコーラ (画像 )、ノーザン・パシフィック鉄道 (画像 )等々)等にしばしば用いられる。2005年 頃、Apple Computer がUniversal Binary の商品ロゴ(画像 )に用いた際は、韓国のネット上で話題となった[ 64] 。
韓国における国旗の扱い
掲揚されている大韓民国の国旗
韓国において太極旗は、韓国という国家 を具現化する道具として扱われており、1972年 には韓国への忠誠心の宣誓 として「国旗への宣誓 」が制定されている[ 65] 。また、韓国では全国民が国旗を尊重・愛好しなければならず、国及び地方自治団体 は国旗の尊厳が維持されるように必要な措置を講じなければならない(大韓民国国旗法第5条)。そのため、韓国ではデモ活動 等で国旗を意図的に毀損した場合韓国警察 に逮捕 される可能性がある[ 66] 。
ただし実際の運用面において、国旗が上下逆さまだったり、色が薄かったり、間違った図案の国旗を使用したケースが、韓国外はおろか国内においても、イベント時の掲揚[ 67] [ 68] やテレビ のニュース 配信[ 69] の際に度々ある。
掲揚する日・場所
太極旗は、下記のいずれかに該当する場合は掲揚されなければならない(大韓民国国旗法第8条第1項)。
韓国の祝日 等、中央政府の法律 で指定された日。
政府が別途指定する日
地方自治体 が条例 または地方議会議決で定める祝日(該当する地方でのみ)
国家と地方自治体、公共団体の庁舎は国旗を年中掲揚なければならず、下記の場所でも可能な限り年中国旗を掲揚することが求められる(大韓民国国旗法第8条第3項)。
空港 、ホテル 等の国際的な場所
大型ビル ・公園 ・競技場 等多くの人が出入りする場所
また、学校 や国軍部隊 の掲揚台 においても、毎日日中のみ国旗を掲揚することになっている(同法第8条第4項)。
掲揚時間
太極旗は毎日24時間掲揚することが出来るが(大韓民国国旗法第8条第2項)、夜間には適当な照明が必要とされる(同法第8条第3項)。また、旗が激しい雨 ・雪 ・風 等で毀損される恐れがある場合は、掲揚しない(同法第8条第5項)。
国旗を日中のみ掲揚する場合は以下のように行う(同法第8条第6項)。
時 期
掲揚時刻
降納時刻
3月 - 10月
07:00
18:00
11月 - 2月
07:00
17:00
太極旗を応用した旗と意匠
韓国に関連した組織では、しばしば太極旗のデザインを応用した旗ないし意匠 を制定・使用している。
韓国政府の初代国章 は、太極旗の意匠をそのまま紋章 化したものだった。国章は1963年 に変更されたが、太極文様は引き続き使用されている。また、韓国政府 の行政機関が掲揚する旗も2016年 から太極文様をアレンジしたものに変更されている。
韓国軍 では、韓国海軍 の艦首旗 (国籍旗)が、青地のカントン 部に太極旗を配置した上で、四掛を海軍 の象徴である軍艦 の錨 に置き換えている。他に、韓国陸軍 の軍旗 が、太極旗の太極文様と韓国国花 の槿 を組み合わせた愛国的なデザインを採用しており、韓国空軍 では国籍マーク に太極文様を用いている。
民間団体としては、かつて国営会社だった大韓航空 がロゴ に太極文様を用いている他、在日本大韓民国民団 (民団)の団体旗も、太極文様と槿を組み合わせる事で民団と韓国本国との関連性を強調している。
脚注
注釈
出典
^ [제415호] 태극기는 정말 민족의 상징인가 (ハンギョレ21 2002年6月26日配信記事)
^ 韓洪九 2003 , p. 54
^ 清季中日韓關係史料-第二卷: - 478 ページ 著者:中央研究院 近代史研究所(Google ブックス にて公開)
^ a b c 韓洪九 2003 , p. 55
^ 《舊韓國外交文書》第10卷(出版:高麗大學校 亞細亞問題研究所,1973年発行),《美案》1,第12—13頁。
^ a b c d e f g h 국가상징>국기(태극기) 行政自治部 公式ホームページより。
^ 《舊韓國外交文書》第10卷(出版:高麗大學校亞細亞問題研究所,1973年発行),《美案》1,第14頁。
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^ 대한민국의 국기 斗山世界大百科事典
^ 高宗実録20巻、高宗20年1月27日(陽暦)1番目の記事 より。高宗実録 は、国史編纂委員会が公式ホームページを設けて公開している [1]
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^ SBS 8時ニュース「おかしな太極旗」連日報道 中央日報 日本語版 2011年06月27日
参考文献
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
大韓民国の国旗 に関連するカテゴリがあります。
外部リンク
大清国属・高麗国旗 - 清の李鴻章が編纂した清の公式文書『通商章程成案彙編』(1886年)に掲載されたもの。「最古の太極旗の絵が発見」という題の朝鮮日報の記事にも写真が載せてあるが、その記事自体、別の旗を主題にした記事であり、英語版・朝鮮語版でのみ写真の下の小さな字の説明文で簡単に触れられている。特に日本語版には「大清国属高麗国旗」の写真を載せて、写真を載せていない「最古の太極旗の絵」(米海軍省 (Navy Department) 航海局 (Bureau of Navigation) 発行『海上国家の旗』(Flags of Maritime Nations; 1882年7月)に収録されたもの)のみの説明が掲載されている、という紛らわしい記事となっている。なお、この「大清国属 高麗国旗」に関する考察については、ノートにおいて詳しく触れられているので、そちらを参照のこと。