近藤 喜文(こんどう よしふみ、1950年3月31日 - 1998年1月21日)は、日本のアニメーター、キャラクターデザイナー、アニメ演出家・監督。スタジオジブリ所属。新潟県五泉市出身。妻はアニメーション色彩設計者の近藤浩子(旧名:山浦浩子)。1子あり[1]。
概要
高畑勲、宮崎駿両監督作品を1970年代から晩年までアニメーターとして支え続けた。
1995年の映画『耳をすませば』で初めて劇場用長編アニメーションの監督を務め、次代の日本のアニメーション、またスタジオジブリを担う作家として、演出面でも将来を嘱望されていたが、47歳で急死した[2]。
メリハリのあるアクションから細やかな生活芝居まで手がける高い技術と、仕事に妥協を許さない姿勢、人々を見つめる温かな眼差しは、今なお後進のアニメーターに影響を与え続けている[3][4]。
経歴
宮崎駿・高畑勲との関係
前記のように、近藤は1970年代以降の宮崎駿や高畑勲の作品を作画面で支えた。
近藤は両名から高く評価されており、高畑が『火垂るの墓』、宮崎が『となりのトトロ』をそれぞれ同時に制作した時期に、両者の間で近藤の争奪戦が起こった。高畑は「他は何もいらないから近ちゃんだけ欲しい」、宮崎は「近ちゃんが入ってくれないなら僕も降板する」と言ったという逸話が残っている(結局、仲裁に入った鈴木敏夫の「宮崎は自分で絵が描けるから」という助言で、近藤は『火垂るの墓』の制作に携わった)。高畑は後年の回想の中で、「近ちゃんを獲得することが私の最優先、いや絶対的な課題だった」と述べ、それ以外のスタッフについては積極的勧誘をしなかったと記している[11]。米を茶碗に盛り付ける際、手首に付着した米粒を舐め食べる動作など、高畑アニメが追求するリアルな描写の実現は、近藤の強く鋭い感受性あって初めて可能なものだった。その後、再び高畑の元で『おもひでぽろぽろ』のキャラクターデザインと作画監督を担当する。
それ以前から近藤が演出をするという宮崎との約束があったため、宮崎が企画を持ってきた『耳をすませば』の監督を任される。同作の製作中、近藤と宮崎の間では何度も衝突があり、時には宮崎が演出の変更を求めたり脅すようなこともあったという。近藤の没後、このことについて宮崎は「自分が終わりを渡してしまったようなもの」と語っている[要出典]。
一方、鈴木敏夫は2018年のインタビューで、生前の近藤から「高畑さんは僕を殺そうとした。高畑さんのことを考えると、いまだに体が震える」という言葉を涙とともに聞いたと述べている[12]。また、鈴木によると近藤の葬儀の際、火葬場で関係者が待つ間、あるベテランアニメーターが「近ちゃんを殺したのは、パクさん(高畑の愛称)よね」というつぶやきを漏らすと、間を置いて高畑は無言でうなずいたという[12]。
表現
自分の作ったキャラクターならば、斜め仰向きの顔などどんなにむずかしいアングルでも感じよく描いてみせた。普通の口まわりの表現でもあごや頬の筋肉や骨を上手く使って自由に動かして表現を作った。口の線もただの線でなく線に表情をもたせながら、俯瞰か仰角かで基本の湾曲を定めつねに立体を意識していた。しかしその意識の仕方は、顔を石膏のような固い立体として律儀に捉えるのとは違い、キャラクターを柔軟な肉でできた生身の存在として感じ、線と動きでその「実感を出す」ためだった[13]。
整理された線の達人であり洗練されたデザインセンスの持ち主であった。それは『おもひでぽろぽろ』の回想編のマンガキャラクターのアレンジなどに見られる[13]。
『赤毛のアン』では「キャラクターアニメーション」(人物の性格・ひととなりの活写)を見事に表現した[13]。
人物
愛称は近ちゃん(こんちゃん)。こんどうきぶん[10]とも。宮崎からはガニメデ星人[6]。
「こんな絵を描けたら」として、ノーマン・ロックウェル、林明子、鏑木清方らを挙げている。いずれも、市井を生きる人々の日常の姿が、静かに息づく世界を描いた画家である。好きな漫画家には高野文子を挙げている[14]。また、『Dr.スランプ』を連載していたころの鳥山明の影響も受けていたようで、それをうかがわせるイメージボードも残されている。[15]
参加作品
テレビアニメ
劇場アニメ
書籍
受賞歴
出典・参考文献
脚注
- ^ a b c d 『ふとふり返ると-近藤喜文画文集-』近藤喜文 1998年3月31日 徳間書店 pp.102 - 103
- ^ 『ふとふり返ると-近藤喜文画文集-』近藤喜文 1998年3月31日 徳間書店 p.104
- ^ 『新海誠監督作品 君の名は。 公式ビジュアルガイド』安藤雅司インタビュー 2016年8月27日 角川書店 pp.66 - 69
- ^ 『この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック』松原秀典インタビュー 2016年10月26日 双葉社
- ^ 大塚は記憶にないという。
- ^ a b “WEBアニメスタイル | β運動の岸辺で[片渕須直]第25回 ハリウッド勤務”. www.style.fm. 2024年4月6日閲覧。
- ^ 「近藤喜文さんのこと」2010年7月7日 土筆塾ブログ
- ^ 読売新聞、1998年1月22日、朝刊35面
- ^ 機関紙『国公労新聞』第943号のインタビュー
- ^ a b 近藤喜文展 - スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI
- ^ 「『火垂るの墓』から、はや二十四年」『アニメーション、折にふれて』岩波書店、2013年、pp.122 - 123。初出は『百瀬義行 スタジオジブリワークス』一迅社、2011年)
- ^ a b 鈴木敏夫「高畑さんとの勝負だったこの映画。いまでも緊張の人はほどけない」『ジブリの教科書 かぐや姫の物語』文藝春秋<文春ジブリ文庫>、2018年、pp.39 - 56
- ^ a b c 『アニメーション、折にふれて』高畑勲 2013年12月5日 岩波書店 p.88
- ^ 『ふとふり返ると-近藤喜文画文集-』近藤喜文 1998年3月31日 徳間書店 p.56
- ^ 『近藤喜文の仕事 -動画で表現できること-』安藤雅司・スタジオジブリ責任編集 2000年1月31日 スタジオジブリ p.53
外部リンク