和田 昌裕(わだ まさひろ、1965年1月21日 - )は、兵庫県神戸市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー、ディフェンダー。次男の和田篤紀[2] および三男の和田倫季[3] もサッカー選手である。
来歴
選手時代
神戸FCでプレーしていた兄の影響で小学2年生のときにサッカーを始める[4]。1982年8月に開催されたAFCユース選手権1982 (予選)の日本代表に選出された[5]。1983年の兵庫県立御影高校3年次に同校にとって初の全国高校サッカー選手権大会出場(1回戦で準優勝した山梨県立韮崎高校に敗退)[4]。近くの御影工業高校には永島昭浩がおり、同学年の和田と永島はライバルと周りから目されていた[6]。順天堂大学蹴球部では1年次に総理大臣杯に優勝[7]。筑波大学との決勝戦では和田のゴールにより1-0で勝利した[7]。
1987年に日本サッカーリーグ2部の松下電器産業サッカー部(1992年からガンバ大阪)に入部。三菱重工からも誘われたが関西のチームであることと永島がいることから松下に決めたという[6]。JSL1部に復帰した1988-89シーズンにはアシスト王(9アシスト)にも輝いた[8]。1990年7月のダイナスティカップ1990の日本代表に選出された(出場は無し)[9]。
1993年5月16日のJリーグ開幕戦の浦和レッズ戦では前半29分にG大阪のリーグ戦チーム初得点を記録した[7]。
1995年7月[7][10]、G大阪から生まれ故郷であるヴィッセル神戸(当時ジャパンフットボールリーグ (JFL) 所属)に移籍した。1996年のJリーグ昇格に貢献し、1998年に現役を引退した。
現役時代は主に左サイドバックでプレー。
引退後
引退後は神戸のスタッフを歴任。2005年はヘッドコーチ、2006年からは強化部長、2007年からはチーム統括本部長を務め、2009年6月、カイオ・ジュニオールの辞任表明を受け、トップチームの監督に就任
[11]。わずか5試合を指揮したところで三浦俊也に交代したが、フロントには戻らず、ヘッドコーチとして引き続き現場での指導者職に就いた。
2010年9月12日に三浦の監督解任を受け、再び神戸の監督に就任。「用意周到」「一致団結」「プライド」「信頼」のキーワードで自らの考えを選手に示し、スタメンから遠ざかっていたMF吉田孝行、2種登録のFW小川慶治朗を抜擢するなど、前監督とは異なるスタイルでチームを指揮。シーズン終盤7試合では戦術が浸透し、上位チームにも屈さず見事大逆転でのJ1残留を成し遂げた。2011年も引き続き監督を続投。和田自身は初の1シーズン通しての監督業だったがクラブ史上最高順位となる9位でシーズンを終えた[12]。
翌2012年は目標を「AFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得する4位以内」としたが[13][14]、リーグ戦・ナビスコ杯で通算6連敗するなどし、リーグ戦では第8節時点で3勝5敗の13位に低迷。成績不振を理由に同年4月30日付で監督を解任された。同年7月1日付で神戸のシニアディレクターに就任[15]。
2013年2月1日より神戸の運営会社のクリムゾンフットボールクラブの取締役副社長に就任したが[16]、松下電器~ガンバ大阪時代のコーチであったヴィタヤ・ラオハクルに誘われ、同年11月末でクリムゾンフットボールクラブ副社長を辞任し、ヴィッセル神戸の提携クラブでもあったタイ・プレミアリーグのチョンブリーFCの監督に就任[17][18]。タイ・リーグの日本人監督には滝雅美がいたが、1部で指揮する日本人監督は和田が初となった。チョンブリーではリーグ戦でブリーラム・ユナイテッドと最後まで優勝争いを演じ、2014年シーズンのタイ・プレミアリーグ年間最優秀監督賞を受賞した[20]。
2014年12月、J2・京都サンガF.C.から2015年シーズンの監督就任が発表された[1] が、2015年7月10日に成績不振により解任された。解任時点でチームは18位と低迷していた[21]。
2015年10月22日、タイ・プレミアリーグのポートFCの監督に就任したが[22]、ディビジョン1降格を回避することができず、翌2016年も続投したが、7月11日に成績不振により解任された。
2016年9月1日、タイ・プレミアリーグのシーサケートFCの監督に就任。1部残留を果たし、シーズン終了後に退任。
2016年12月、ツエーゲン金沢代表取締役ゼネラルマネージャーの西川圭史からオファーを受け、同クラブの強化・アカデミー本部長に就任。トップチームおよびアカデミーの現場とフロントを一つにまとめる役割を担った[23][24]。
2020年1月31日、家庭の事情により金沢の強化・アカデミー本部長を退任[25]。同年2月4日にG大阪の強化アカデミー担当参与に就任した[26]。同年4月14日にG大阪の取締役GMに就任[27]。2023年シーズンをもってG大阪のGMに退任した[28]。
2024年シーズン、ツエーゲン金沢のGMに就任した。
所属クラブ
個人成績
その他の公式戦
指導歴・職歴
- 1998年 - 2013年 ヴィッセル神戸
- ホームタウン事業部普及指導コーチ
- サテライトコーチ
- ジュニアユース監督
- コーチ
- 2005年 ヘッドコーチ
- 2006年 強化部長
- 2007年 - 2009年6月 チーム統括本部長[1]
- 2009年6月 - 同年8月 監督[29]
- 2009年8月 - 2010年9月 ヘッドコーチ[1]
- 2010年9月 - 2012年4月 監督 [1]
- 2012年7月 シニアディレクター[1]
- 2013年 クリムゾンフットボールクラブ取締役副社長[1]
- 2014年 チョンブリーFC 監督 [1]
- 2015年1月 - 同年7月 京都サンガF.C. 監督 [23]
- 2015年10月 - 2016年7月 ポートFC 監督 [23]
- 2016年8月 - 10月 シーサケートFC 監督[23]
- 2017年 - 2020年1月 ツエーゲン金沢 強化・アカデミー本部長[23]
- 2020年2月 - 2020年4月 ガンバ大阪 強化アカデミー担当参与[23]
- 2020年4月 - 2023年 ガンバ大阪 取締役GM[30]
- 2024年 - ツエーゲン金沢 GM
監督成績
年度 |
所属 |
クラブ |
リーグ戦 |
カップ戦 |
備考
|
順位 |
勝点 |
試合 |
勝 |
分 |
敗 |
ナビスコ杯 |
天皇杯
|
2009 |
J1 |
神戸 |
- |
5 |
5 |
1 |
2 |
2 |
- |
- |
第16節から第20節まで指揮
|
2010 |
- |
17 |
12 |
4 |
5 |
3 |
- |
3回戦敗退 |
第23節から指揮
|
2011 |
9位 |
46 |
34 |
13 |
7 |
14 |
1回戦敗退 |
3回戦敗退 |
|
2012 |
- |
9 |
8 |
3 |
0 |
5 |
- |
- |
第8節終了後に解任
|
2015 |
J2 |
京都 |
- |
22 |
22 |
6 |
4 |
12 |
- |
- |
第22節終了後に解任
|
J1通算 |
- |
59 |
21 |
14 |
24 |
|
|
|
J2通算 |
- |
22 |
6 |
4 |
12 |
|
|
|
タイトル
選手時代
- 順天堂大学
- 松下電器産業サッカー部/ガンバ大阪
個人
脚注
関連項目
外部リンク
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1960年代 | |
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1970年代 |
- 70: 宮本輝紀
- 71: 杉山隆一
- 72: 吉村大志郎
- 73: 釜本邦茂, 田辺暁男
- 74: 高田一美, ジョージ小林
- 75: 釜本邦茂, 今村博治, 平沢周策, ジョージ小林
- 76: 永井良和
- 77: セイハン比嘉, 古前田充, 安原真一, 永井良和
- 78: ジャイロ
- 79: ラモス, 釜本邦茂, ジョージ与那城
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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得点王 - アシスト王 |
監督歴 |
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京都紫郊クラブ / 京都紫光クラブ |
- n/a ? - 1966
- 今大路仟 1967 - 1971
- 嶋谷征四郎 1972 - 1974
- 米沢研二 1975 - 1976
- 嶋谷征四郎 1977 - 1979
- 板谷照夫 1980 - 1981
- 江見敏夫 1982
- 木村文治 1983 - 1990
- 来栖孝治 1991 - 1992
- 高間武 1993
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京都パープルサンガ / 京都サンガF.C. |
- 美濃部直彦 2006.10 - 2007.10
- 加藤久 2007.10 - 2010.7
- 秋田豊 2010.7 - 2010.12
- 大木武 2011 - 2013
- バドゥ 2014 - 2014.6
- 森下仁志(代行) 2014.6
- 川勝良一 2014.6 - 2014.12
- 和田昌裕 2015 - 2015.7
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