グレッグ・チャールズ・ポポヴィッチ (Gregg Charles Popovich , 1949年 1月28日 - )は、アメリカ合衆国 の北米プロバスケットボール リーグNBA の指導者。インディアナ州 イーストシカゴ出身。1996年 からヘッドコーチ としてサンアントニオ・スパーズ を率い、5度の優勝に導き、NBA歴代最多勝利数を記録している名将として知られる。愛称は"Pop" 。
経歴
空軍
父がセルビア の降下兵だったポポヴィッチは、アメリカ空軍士官学校 に入隊し、ソビエト 研究を専攻、1970年に卒業した。士官候補生時代には士官学校のバスケットボールチームで4シーズンプレイし、最終学年の時にはキャプテンとしてチームを率いた。
卒業後5年間の兵役に就いたポポヴィッチはヨーロッパに赴き、空軍のチーム(the U.S. Armed Forces Team)と共に東ヨーロッパやソビエトのチームと試合を行っている。チームのキャプテンとなったポポヴィッチは、1972年、チームをアマチュア・アスレチック・ユニオン のチャンピオンシップに導き、この時のプレイが評価され、ポポヴィッチは士官学校チームのアシスタントコーチに就き、コーチとしてのキャリアを歩み始めた。当時の士官学校チームのヘッドコーチだったハンク・イーガン は、後にサンアントニオ・スパーズ のヘッドコーチに就いたポポヴィッチのもとでアシスタントコーチ を務めることになる。アシスタントコーチを務める傍ら、ポポヴィッチはデンバー大学 に通い、体育とスポーツ科学の修士号を取得している。
ラリー・ブラウンとの出会い
1979年にはクレアモント大学 男子バスケットボールチームのヘッドコーチに就任。この頃にカンザス大学 のヘッドコーチだったラリー・ブラウン と親交を深め、1985-86シーズンには一時クレアモント大学を離れ、ラリー・ブラウンのアシスタントコーチを務めながら彼のコーチ術を学んだ。
NBAへ
1988年、ポポヴィッチはサンアントニオ・スパーズのヘッドコーチ に就任したラリー・ブラウンにアシスタントコーチ として招かれ、NBAでのキャリアをスタートさせた。この時、同じくアシスタントコーチとして、現GMのR・C・ビュフォード がスパーズに加入している。当時低迷していたスパーズはブラウン体制の2年目の1989-90シーズンには大きく躍進し、ブラウンとポポヴィッチは見事にチームの再建を果たした。1991-92シーズン中にブラウンがチームを離れたため、ポポヴィッチも翌1992-93シーズンからはゴールデンステート・ウォリアーズ に移り、こちらも名将の誉れ高いドン・ネルソン のもとでアシスタントコーチを務めた。
スパーズGM
1994年、ポポヴィッチはスパーズのジェネラル・マネージャー に就任する。ポポヴィッチに求められたものはラリー・ブラウン の退任後、成長が横ばい状態にあるスパーズを優勝できるチームにすることだった。スパーズは新たにボブ・ヒル をヘッドコーチに迎え、さらにポポヴィッチがウォリアーズのアシスタントコーチをしていた頃から目を付けていたポイントガード のエイブリー・ジョンソン と契約。この年、現在のGMであるR・C・ビュフォード をスカウトとして、後にアシスタントコーチとして長年ポポビッチを支え、2013年にアトランタ・ホークス のヘッドコーチになったマイク・ビューデンホルツァー をビデオコーディネーターとして雇い入れている。
ポポヴィッチがGMに就いて1年目の1994-95シーズンにスパーズは62勝20敗と大きく成績を伸ばし、翌1995-96シーズンはチームに不和をもたらしていたデニス・ロッドマン を殆ど無償でシカゴ・ブルズ にトレードし放出し (見返りでウィル・パデュー を獲得) 、大ベテランの域に達していたドミニク・ウィルキンス を獲得するなどのチーム改革を行い、59勝23敗の好成績を収めた。しかし優勝どころかファイナルにも出場することができず、さらに1996-97シーズンには大黒柱のデビッド・ロビンソン がシーズンの大半を欠場したため、チームはシーズン序盤から大きく負け越した。業を煮やしたポポヴィッチはボブ・ヒル をヘッドコーチから解任し、自らヘッドコーチに就任した。
スパーズHC
ヘッドコーチに就任したものの、デビッド・ロビンソンの不在は如何ともし難く、スパーズはこのシーズン20勝62敗という散々な内容だったが、この結果がスパーズとポポヴィッチに大きな幸運をもたらした。それは1997年のNBAドラフト 1位指名権の獲得だった。ポポヴィッチは迷うことなくこの1位指名権をウェイク・フォレスト大学 のビッグマン、ティム・ダンカン に行使した。
デビッド・ロビンソンとティム・ダンカンのインサイドコンビはツインタワーと呼ばれ、他チームの脅威となった。またロビンソンは自らダンカンのサポートに回り、以後ポポヴィッチはダンカンを中心としたチーム造りを進めていく。そしてポポヴィッチはダンカンと共に、スパーズの栄光の時代を築き上げていくことになる。
1998-99シーズン は、ダンカンにロビンソン、エイブリー・ジョンソン、ショーン・エリオット 、更に優勝経験者のマリオ・エリー とスティーブ・カー を獲得するなど、充実したメンバーが揃ったスパーズは、ダンカン獲得から2年目にして、早くも大きな成果をあげた。スパーズはプレーオフを勝ち抜き、ついにチーム史上初となるファイナル に進出。そしてニューヨーク・ニックス を4勝1敗で破り、念願の優勝を果たした。しかしこのシーズンはロックアウト の影響でレギュラーシーズンは50試合しか行われず、スパーズの優勝は「本当の優勝ではない」という声もあがった。周囲の雑音を打ち消すためにもスパーズとポポヴィッチには連覇の期待が掛かったが、リーグはシャキール・オニール とコービー・ブライアント を擁したロサンゼルス・レイカーズ による支配が始まり、スパーズは雌伏の時を迎えた。
1999-2000シーズン 、 2000-01シーズン は、レイカーズが1999-2000シーズンから2001-02シーズンにかけて3連覇を達成するが、スパーズはこの間プレーオフで2度レイカーズの前に苦杯を舐めさせられた。スパーズの主要バックコートメンバーが高齢化し、ポポヴィッチはチームの再編を迫られた。そこでポポヴィッチが目を向けたのが海外だった。リーグは1990年代からすでにグローバリゼーション が進んでいたが、ポポヴィッチもアメリカ国外の選手の受け入れに積極的だった。それはポポヴィッチが空軍時代のヨーロッパでのプレイ経験が影響していた。またドン・ネルソン のもとでアシスタントコーチをしていた時にはスカウトのため、わざわざドイツ で開催された欧州選手権 に視察にいっている。
2000-01シーズン 、フランス 出身のトニー・パーカー を獲得し、さらに守備職人のブルース・ボウエン やスコアラーのスティーブン・ジャクソン を迎え入れ、ポポヴィッチはチームの再編を開始した。
2000年3月に地域の学校で講演をするポポビッチ
2002-03シーズン 、更に待ち望んでいたアルゼンチン 出身のマヌ・ジノビリ が入団しチーム層はより深くなっていった。スパーズは60勝22敗の成績を収め、勝率でリーグ1位となった。ポポヴィッチは最優秀コーチ賞 に選ばれた。プレーオフではカンファレンス準決勝で仇敵レイカーズを破ると、カンファレンス決勝 では元上司であるドン・ネルソン率いるダラス・マーベリックス を退け、4シーズンぶりにファイナルに進出。ニュージャージー・ネッツ を4勝2敗で降し、スパーズとポポヴィッチは2度目の優勝を遂げた。長らくスパーズを支えてきたロビンソンはこの優勝をもって引退し、以後スパーズはダンカン、ジノビリ、パーカーを中心としたビッグスリー と呼ばれるチームとなる。オフにはラリー・ブラウンの招きに応じ、アメリカ代表 のアシスタントコーチとしてアテネ五輪 に参加。しかし決勝ではスパーズ所属のジノビリ率いるアルゼンチン代表 に破れ、アメリカ代表はドリームチーム 結成以来初めて金メダルを逃した。
2003-04シーズン のプレーオフは、大幅な補強を行ったレイカーズの前に敗退。
2004-05シーズン シーズンはプレーオフを勝ち進み、ファイナルに進出。対戦相手はポポヴィッチの恩師であるラリー・ブラウン 率いるデトロイト・ピストンズ だった。お互いディフェンスを重視したチームのためシリーズは激しい肉弾戦となった。第7戦までもつれた末、スパーズはピストンズを降し、ポポヴィッチは師弟対決を制した。
2005-06シーズン にスパーズはチーム史上最高勝率となる63勝19敗の成績を収め、スパーズには初の連覇の期待が掛かった。カンファレンス準決勝ではダラス・マーベリックスと対決。マーベリックスのヘッドコーチはかつてポポヴィッチが引き抜いたエイブリー・ジョンソンだった。シリーズは第7戦までもつれた末に、スパーズはマーベリックスの軍門に降った。
2006-07シーズン にはファイナルまで勝ち進み、クリーブランド・キャバリアーズ と対戦。キャバリアーズを率いるのはポポヴィッチのもとでアシスタントコーチをしていたマイク・ブラウン ヘッドコーチ。スパーズは4戦全勝でキャバリアーズを降し、4度目の優勝を飾った。
2007-08シーズン は、例年通りシーズンでは安定した戦いを見せ56勝をあげ、プレーオフに進み、フェニックス・サンズ 、ニューオリンズ・ホーネッツ を破り、カンファレンスファイナルへと駒を進めたが、このシーズン、シックスマン賞受賞のジノビリ[1] がプレーオフ一回戦のサンズ戦で左足首を負傷しており、カンファレンス決勝のロサンゼルス・レイカーズ 戦ではその怪我の影響で力が出し切れず意外なほどあっさりと敗れ、またしても連覇を逃した。この年のプレーオフ時点でのロースターの平均年齢は32歳を超えており、チームの若返りがオフの課題となったが、主要な補強は、ロジャー・メイソン との契約、ジョージ・ヒル のドラフトでの加入程度にとどまった。
2008-09シーズン は、ジノビリの故障欠場を新加入のロジャー・メイソン らで凌いだものの、チームの勝利数は昨年を下回った。しかしながら、このシーズンで、50勝以上 を10年間 続けたことになる。プレーオフでもジノビリ不在が響き、ダラス・マーベリックス に破れ、2000年以来の1回戦敗退となった。この年あたりから、衰えが見え始めたダンカン一人に頼るスタイルは、終わりを告げざるを得ず、パーカー、ジノビリとのビッグ3に、プラスアルファーを求めて、オフには、主力選手の負担軽減を目指し、久々の主力級トレードでリチャード・ジェファーソン を獲得した。
2009-10シーズン は、ディフェンスの要であるブルース・ボウエン の引退と、リチャード・ジェファーソン が、期待した活躍ができず、またパーカーが怪我のため出場試合数が56に止まり、平均得点も前年より大きく下げた。パーカーの怪我により大幅に出場時間を増やしたジョージ・ヒル が期待を上回る活躍を見せ、なんとか50勝は確保し、50勝以上 のシーズンの継続記録を11年 に伸ばした。プレーオフには第7シードで進出し、ダラス・マーベリックス を破り2回戦へと進めたものの、フェニックス・サンズ にあっさりとスィープされシーズンを終えた。オフシーズンにはポポビッチは、ジェファーソンに対し、オフの夏を優雅に過ごしこのまま冴えない状態で終わるのか、夏に鍛え次のステップに進むのか迫り、ジェファーソンはハードワークを選び、スパーズに残留した。
2010-11シーズン は、ジノビリを中心に、パーカー、ダンカンとまさにビッグスリー 体制で臨み、夏の練習成果でジェファーソンも3ポインターとして復活を見せた。ダンカンの負担軽減策でプレー時間を減らしたにもかかわらず、ポポビッチのチームプレーを重視した采配は安定しており、結果的に61勝21敗と強さを見せつけウェスタンカンファレンス第1シードでプレイオフに突入した。アップテンポで攻撃的な試合展開も取り入れ、得点力は確実に上がった反面、スパーズの最大の強みである強固なディフェンスに隙が見えることも屡々あり、チーム状況は万全とは言い切れないものであった。ジノビリが、右肘を負傷しプレイオフ初戦を欠場し、次戦からも万全な状態でプレーすることができず、またリチャード・ジェファーソン の不振も響き、1戦目で、メンフィス・グリズリーズ にグリズリーズ史上初めてのプレイオフでの勝利を許し、そのままグリズリーズの勢いを止められずに2勝4敗で一回戦敗退した。プレイオフで第1シードチームが8位チームに敗退することは、ファーストラウンドが7試合制になって以降としては史上2度目となる失態であった。中心メンバーがベテラン揃いになり、シーズンでは力を発揮するものの長いシーズン後のプレイオフでは疲労が取れずに力を発揮できないシーズンが多くなってきた事と本来のディフェンス力を取り戻すことが課題として残った。しかし、一方で、ポポビッチは、ジョージ・ヒル 、デュワン・ブレア 、ゲイリー・ニール 、ダニー・グリーン など他チームからさほど注目されなかった好選手を見い出し育てる目利きぶりを発揮しつつ、若返りを進めた。
デビッド・オルドリッジ にインタビューを受けるポポビッチ
2011-12シーズン は、順調に成長を遂げてきたジョージ・ヒル の故郷インディアナ での更なる飛躍と、近年不安材料となっていたディフェンス 力の立て直しを図るためインディアナ・ペイサーズ の2012年ドラフト 一巡目指名のカワイ・レナード とジョージ・ヒル とのトレードを敢行した[2] 。更に、カナダ 人ポイントガード のコーリー・ジョセフ を1巡目指名獲得した。補強ではパーカーの控えとなるポイントガード のT・J・フォード と契約した。1998年以来のロックアウト[3] でレギュラーシーズンは全66試合と短縮された。開幕後ジノビリの利き手左手の骨折と、ニューヨーク・ニックス 戦でバロン・デイビス と衝突した際に古傷を悪化させたことからT・J・フォード の突然の引退などアクシデントはあったものの、ベテラン陣の安定した働きと、ティアゴ・スプリッター を筆頭に若手も順調に実力を伸ばし、ルーキーカワイ・レナード も経験不足ながら期待通りのディフェンス力を発揮し、序盤、中盤を勝率約7割で安定して乗り切った。更にシーズン途中のトレード・デッドライン直前には、総合的な貢献に限界が感じられたリチャード・ジェファーソン のトレードで、2002-2003シーズン チャンピオンメンバーのスティーブン・ジャクソン を獲得し[4] 、その後も、リーグ屈指のユーティリティープレーヤーのボリス・ディアウ 、パーカーの控えとなるポイントガード にパティ・ミルズ と契約を結び[5] 、スパーズ史上最も層の厚いロースターを作り上げた。終盤、補強選手がチームにかみ合うと、シーズン途中42勝16敗となった時点で2年連続18度目のサウスウエスト地区優勝を飾り、残り2試合となった時点で48勝16敗でウエスタンカンファレンスのプレーオフ第1シード権を得た。最終的にレギュラーシーズンを50勝16敗で乗り切り、ロックアウトで短縮されたシーズンであったにもかかわらず50勝以上 のシーズン継続記録を13年 に伸ばした。また、前回のロックアウトシーズンも含め勝率61%以上(50勝以上相当)のシーズンと、プレーオフ進出は、15年連続 となった。このシーズンでは、2度にわたり11連勝後に、ビッグスリーを一度に休ませる策に出て、連勝は伸ばせなくとも、選手全員が、良い体調を維持しプレーオフへ突入する体勢を作り、自身2度目の最優秀監督賞に輝いた。1回戦は、第8シードのユタ・ジャズ との対戦となったが、レギュラーシーズンを10連勝で終えた勢いのままに、4戦連勝し、難なくスイープし、続く2ndラウンドでは、クリス・ポール の加入と、ブレイク・グリフィン の成長により、2006年以来のカンファレンス・セミファイナルへ進出したロサンゼルス・クリッパーズ にも4連勝した。カンファレンス・ファイナルでは、ケビン・デュラント 、ラッセル・ウェストブルック 率いるオクラホマシティ・サンダー との対戦となり、ホームコートで、幸先良く連勝し、連勝を20に延ばした。しかしながらアウェイでの3戦目を、サンダーのフィジカルなディフェンスにオフェンスリズムを狂わせ大差で落とすと、波に乗ったサンダーの勢いを止める事が出来ず、そのまま4連敗し、2007年以来のカンファレンス優勝を果たすことは出来なかった。
2012-13シーズン は、アシスタントコーチのジャック・ヴォーン が、オーランド・マジック のヘッドコーチとして転出するなど、コーチ陣に移籍があったが、新ロースターは、フランスナショナルチーム代表のナンド・デ・コロ を加えた程度で、昨シーズンと殆ど変わりのない陣容で開幕を迎えた。11月下旬の長期ロードで、スパーズは、TNT による全米テレビ放送のあった29日のマイアミ・ヒート 戦で、ダンカン、パーカー、ジノビリ、グリーンの主力4選手を遠征から一足先にホームに帰らせ休養を与えた件で、リーグから25万ドルの制裁金処分を受けた。ポポビッチは、予てから主力に休養を与える戦術を用いており、デビッド・スターン の決定については「残念」であるとしたが、テレビ放映権に関わる過密日程が問題視される中では、今後も選手を休養させる可能性のある事を示唆している。総力戦で例年通りの安定した戦いを続け、50勝以上のシーズンを14年連続 とした。58勝24敗と60勝には届かなかったが、ウェスタンカンファレンス第2シードで、16シーズン連続 でプレーオフ進出を決めた。1st ラウンドは、コービー・ブライアント (アキレス腱断裂)を筆頭に、主力の故障による離脱が続いた第7シードのレイカーズとの対戦となり、労することなく4戦全勝でスイープした。第2ラウンドは、ゴールデンステート・ウォリアーズ との対戦となった。4勝2敗でカンファレンスファイナルへ進み、メンフィス・グリズリーズ をスイープする結果となり、2007年以来久々のカンファレンス優勝を飾った。ファイナルを前に、ポポヴィッチの下で16年間アシスタントコーチを務め、内6年間を第1アシスタントコーチを務めてきたマイク・ビューデンホルツァー が、来期のアトランタ・ホークス のヘッドコーチに就任することが発表された。ファイナルは、前年王座のヒートと対戦が最終戦までもつれる展開となり、近年希に見る接戦となったが、レブロン・ジェームズ が本来の爆発力を取り戻し、また第6戦の勝利目前でのレイ・アレン のミラクルショットで形勢を逆転され、これまで4度のファイナル進出ではすべて優勝していたが、初めてファイナル敗退を喫した。
2013-14シーズン は、アシスタントコーチのマイク・ビューデンホルツァー が、アトランタ・ホークス 、ブレット・ブラウン が、フィラデルフィア・セブンティシクサーズ のヘッドコーチとして転出したのに伴い、ヒューストン・ロケッツ 、インディアナ・ペイサーズ などでアシスタントコーチの実績のあるジム・ボイレン を迎えた。ロースターは昨年とほぼ同じ顔ぶれにマルコ・ベリネッリ を加え、ポポビッチの標榜するインターナショナルなバスケットを進化させシーズンをスタートした。このシーズン66試合目となるユタ・ジャズ 戦を10連勝で勝利し、50勝以上のシーズンを15年連続とした。ここから連勝は更に続き、レギュラーシーズンのフランチャイズ新記録の19連勝まで到達した。4月12日、サンズ戦に勝利し、62勝18敗とし、プレイオフ全体の第1シードを確定した。続く2戦は主力を休養させ2敗し、62勝20敗でレギュラーシーズンを終えた。このシーズン、3回めの最優秀コーチ賞を獲得した[6] 。マイアミ・ヒート との再戦となったNBAファイナル は、ポポヴィッチの標榜するシステマチックに組み立てられたチームバスケットを展開し、攻守共にヒートを圧倒し、2007年以来5度目のNBAチャンピオンに輝いた。このシーズンのスパーズのチームとしての完成度は極めて高く、殿堂入りを果たしているジェリー・ウェスト は、メディアに、「ポポヴィッチ以上のヘッドコーチをみたことがない。」と語っている[7] 。
2014-15シーズン のロデオ・ロード・トリップの2戦目のインディアナ・ペイサーズ 戦を4クオーターで14点差から逆転勝利し、ヘッドコーチ 、通算1,000勝利 目を飾った[8] 。
2015-16シーズン 、12月14日のユタ・ジャズ 戦に勝利し、通算勝利数を1,043勝とし、リック・アデルマン の1,042勝を抜き、通算勝利数第8位 となった[9] [10] 。2016年1月27日、ポポヴィッチ自身通算4度目となるNBAオールスターゲーム のヘッドコーチに選ばれた。レギュラーシーズンを67勝15敗のフランチャイズ記録、ホームゲームを40勝1敗のNBA記録で、デビジョン優勝を決めた。プレーオフファーストラウンドでは、メンフィス・グリズリーズ をスイープし、7回戦制のプレーオフでは通算9回目となるシリーズスイープを達成し、フィル・ジャクソン の歴代最多記録を更新した[11] 。カンファレンス準決勝はオクラホマシティ・サンダー との対戦となり、初戦は圧勝したものの、ダンカンの衰えから、サンダーのスティーブン・アダムス 、エネス・カンター のビッグマン2人への対応に苦しみ、ケビン・デュラント 、ラッセル・ウェストブルック のオールスターコンビに押し切られ、結果2勝4敗で敗退となった。
2016-17シーズン 、11月18日のロサンゼルス・レイカーズ 戦に勝利し、レギュラーシーズン通算勝利数を1,099勝(488敗)とし、ラリー・ブラウン の1,098勝を抜き、通算勝利数第7位 となった。更に2017年2月2日のフィラデルフィア・76ers 戦での 勝利で、ジェリー・スローン が持つ "1チームでの最多勝利数" に並ぶ通算1127勝 に到達し[12] [13] 、2月4日、通算1128勝 の新記録を打ち立て[14] 2016-17シーズン終了時で1150勝まで伸ばした。プレーオフ、カンファレンスセミファイナルでヒューストン・ロケッツ を破り、ウェスタン・カンファレンスの14チーム全てからプレーオフでの勝利を得た。
2017-18シーズン 、11月5日、フェニックス・サンズ 戦に勝利し、通算勝利数を1,156とし、フィル・ジャクソン を抜き単独6位となった[15] 。更に14日のアメリカン・エアラインズ・センター でのダラス・マーベリックス 戦で97-91で勝利し、アウェイゲーム通算500勝 を達成した[16] [17] 。
2020-21シーズン 、3月27日、ホームゲームでシカゴ・ブルズ に勝利し、レギュラーシーズン通算1,300勝利 を記録した。1335勝のドン・ネルソン 、1332勝のレニー・ウィルキンス に次ぐ記録である。更にプレーオフ勝利数284勝を合わせるとNBA通算1,584勝で、歴代最高記録である[18] 。
2021-22シーズン
3月7日、ホームゲームでロサンゼルス・レイカーズ に117-110で勝利し、レギュラーシーズン通算1,335勝利 を記録し、ドン・ネルソン に並んだ。更にプレーオフ勝利数284勝を合わせるとNBA通算1,619勝で、歴代最高記録を更新した[19] 。3月11日、ユタ・ジャズ 戦を104-102で勝利し、レギュラーシーズン2025試合で通算1,336勝利 を記録し単独首位となった[20] [21] 。
インターナショナル
2002年のFIBA世界選手権と2004年のオリンピックでアメリカ代表チームのアシスタントコーチをジョージ・カール ヘッドコーチのもとで務めている[22] 。
2015年10月23日、ポポヴィッチは、アメリカ代表チームのヘッドコーチをマイク・シャシェフスキー から引き継ぎ就任することが決まり、2016年オリンピックから指揮を執る事となった[23] 。
2019年FIBAバスケットボール・ワールドカップ、米国代表チームは、国際的な大会中で史上最悪の結果となる7位でフィニッシュした[24] 。
ポポビッチは米国男子代表チームのヘッドコーチを務め、2020年東京オリンピックでフランスを87-82(2021年7月25日埼玉)でを破り、チームを金メダルに導いた[25] [26] 。その後、同年12月に退任。後任はスティーブ・カー が務めることになった[27] 。
業績と指導方針
ポポヴィッチのチーム運営の手腕は高く評価されている。ポポヴィッチがジェネラルマネージャーに就任して以来スパーズはデビッド・ロビンソンが故障した1996-97シーズンを除いて勝率6割を下回ったことがなく、ヘッドコーチに就任してからは5度の優勝を飾っている。連覇がなく、ダンカンというNBA史上に残る名選手が存在するため、過小評価されることもあるがポポヴィッチがNBA史上でも有数の名将であることは敢えて述べるまでもない。
ヘッドコーチ就任後も選手の人事権を握っており、毎シーズン的確な補強を行い、2000年代前半には勝率を維持しながらチームの再編に成功している。ベテランを非常に重視しており、2007-08シーズン現在スパーズはリーグでも最も高齢のチームである。またアメリカ国外へのリサーチも積極的で、ポポヴィッチの動きはNBAのグローバル化を加速化させた。かつてスパーズの黄金期を支えた中心選手、ティム・ダンカン 、マヌ・ジノビリ 、トニー・パーカー は皆アメリカ以外の国籍 を持っている(ティム・ダンカンはアメリカ領ヴァージン諸島 とアメリカの二重国籍)。
デプス
コーチとしてのポポヴィッチは非常に厳格として知られ、、戦術の一つ一つを細かに指導し、気の抜けたプレイを見せればたとえそれがスター選手であってもすぐに交代を言い渡す。「チームバスケット」を標榜するラリー・ブラウン にコーチ術を学んだだけあってポポヴィッチもハーフコートバスケットを中心としたシステマチックなバスケスタイルを好む。攻守共にチーム全体で臨むよう指導しており、ディフェンスではカバーディフェンスを、オフェンスではよりオープンな状態でシュートを打てるよう、もう一本のパスを出させることを徹底させている。特にディフェンスには力を入れており、スパーズの平均失点は毎シーズンリーグ上位にランクされている。ポポヴィッチの方針は彼の部下たちにも引き継がれており、エイブリー・ジョンソン やマイク・ブラウン が率いるチームもディフェンシブなチームである。また対戦チームに合わせて戦術を変える柔軟性も持ち合わせている。ポポビッチの下で選手、アシスタントを務め、その後ヘッドコーチとなった指導者は、P・J・カーリシモ 、マイク・ブラウン 、モンティ・ウィリアムズ 、エイブリー・ジョンソン 、ジャック・ヴォーン 、マイク・ビューデンホルツァー 、ブレット・ブラウン 、イーメイ・ユドーカ らがいる[28] 。なお、ウィリアムズとビューデンホルツァーは2021年のNBAファイナル で対戦し、ビューデンホルツァー率いるミルウォーキー・バックス が、50年振り のチャンピオンに就いている。
ヘッドコーチとプレーヤー、アシスタントコーチの系譜
>>マイケル・マローン (サクラメント・キングス 、デンバー・ナゲッツ HC)
厳格なコーチはとかく選手から嫌われやすいが、ポポヴィッチはオフコートでは温和で気さくな人物であり、選手からの信頼も篤く不満が聞かれることは殆どない。
堅実な努力の重要性をメンバーに浸透させるためにポポビッチはジェイコブ・リース の以下の名言を引用している[29] 。
パウンディング・ザ・ロック(Pounding the Rock) :「救いがないと感じたとき、私は石切工が岩石を叩くのを見に行く。おそらく100回叩いても亀裂さえできないだろう。しかしそれでも100と1回目で真っ二つに割れることもある。私は知っている。その最後の一打により岩石は割れたのではなく、それ以前に叩いたすべてによることを。」(“When nothing seems to help, I go look at a stonecutter hammering away at his rock, perhaps a hundred times without as much as a crack showing in it. Yet at the hundred and first blow it will split in two, and I know it was not that blow that did it, but all that had gone before.”)
戦術
スリーポイント、ハック 戦術、の何れも嫌いであると述べているが、両戦術を最も有効に活用しているヘッドコーチの一人である[30] [31] 。
実績
NBAヘッドコーチ実績表略号説明
レギュラーシーズン
G
試合数
W
勝利数
L
敗戦数
W–L %
レギュラーシーズン勝率
ポストシーズン
PG
試合数
PW
勝利数
PL
敗戦数
PW–L %
プレイオフ勝率
チーム
シーズン
G
W
L
W–L%
シーズン結果
PG
PW
PL
PW–L%
最終結果
SAS
1996-97
64
17
47
.266
ミッドウェスト 6位
—
—
—
—
プレーオフ不出場
1997-98
82
56
26
.683
ミッドウェスト 2位
9
4
5
.444
カンファレンス・セミファイナル敗退(vs.UTA )
1998-99
50
37
13
.740
ミッドウェスト 1位
17
15
2
.882
優勝 (vs.NYK )
1999-2000
82
53
29
.646
ミッドウェスト 2位
4
1
3
.250
ファーストラウンド敗退(vs.)
2000-01
82
58
24
.707
ミッドウェスト 1位
13
7
6
.538
カンファレンス・ファイナル敗退(vs.LAL )
2001-02
82
58
24
.707
ミッドウェスト 1位
10
4
6
.400
カンファレンス・セミファイナル敗退(vs.LAL )
2002-03
82
60
22
.732
ミッドウェスト 1位
24
16
8
.667
優勝 (vs.BKN )
2003-04
82
57
25
.695
ミッドウェスト 2位
10
6
4
.600
カンファレンス・セミファイナル敗退(vs.LAL )
2004-05
82
59
23
.720
サウスウェスト 1位
23
16
7
.696
優勝 (vs.DET )
2005-06
82
63
19
.768
サウスウェスト 1位
13
7
6
.538
カンファレンス・セミファイナル敗退(vs.DAL )
2006-07
82
58
24
.707
サウスウェスト 2位
20
16
4
.800
優勝 (vs.CLE )
2007-08
82
56
26
.683
サウスウェスト 2位
17
9
8
.529
カンファレンス・ファイナル敗退(vs.LAL )
2008-09
82
54
28
.659
サウスウェスト 1位
5
1
4
.200
ファーストラウンド敗退(vs.DAL )
2009–10
82
50
32
.610
サウスウェスト 2位
10
4
6
.400
カンファレンス・セミファイナル敗退(vs.)
2010–11
82
61
21
.744
サウスウェスト 1位
6
2
4
.333
ファーストラウンド敗退(vs.MEM )
2011–12
66
50
16
.758
サウスウェスト 1位
14
10
4
.714
カンファレンス・ファイナル敗退(vs.OKC )
2012–13
82
58
24
.707
サウスウェスト 1位
21
15
6
.857
カンファレンス優勝・NBAファイナル敗退(vs.MIA )
2013–14
82
62
20
.756
サウスウェスト 1位
23
16
7
.700
優勝 (vs.MIA )
2014–15
80
55
27
.659
サウスウェスト 3位
7
3
4
.429
ファーストラウンド敗退(vs.LAC )
2015–16
82
67
15
.817
サウスウェスト 1位
10
6
4
.600
カンファレンス・セミファイナル敗退(vs.OKC )
2016–17
82
61
21
.744
サウスウェスト 1位
16
8
8
.500
カンファレンス・ファイナル敗退(vs.GSW )
2017–18
82
47
35
.573
サウスウェスト3位
5
1
4
.200
ファーストラウンド敗退(vs.GSW )
2018–19
82
48
34
.585
サウスウェスト2位
7
3
4
.429
ファーストラウンド敗退(vs.DEN )
2019–20
71
32
39
.451
サウスウェスト4位
—
—
—
—
プレーオフ不出場
2020–21
72
33
39
.458
サウスウェスト3位
—
—
—
—
プレーオフ不出場
2021–22
82
34
48
.415
サウスウェスト4位
—
—
—
—
プレーオフ不出場
2022–23
82
22
60
.268
サウスウェスト5位
—
—
—
—
プレーオフ不出場
2023–24
82
22
60
.268
サウスウェスト5位
—
—
—
—
プレーオフ不出場
通算
2,209
1,388
821
.628
284
170
114
.599
ナショナルチーム
Source:[32]
脚注
^ Six Man Award-NBA.com
^ Pacers trade for G George Hill - The Washington Times
^ N.B.A. Reaches a Tentative Deal to Save the Season - The New York Times
^ Warriors send Jackson to Spurs for small forward Jefferson - Sports illstrated
^ Spurs Sign Patrick Mills - Spurs.con
^ http://www.nba.com/spurs/news/140422_gregg_popovich_named_2013-14_nba_coach_of_the_year
^ Jerry West on Popovich: ‘I’ve never seen a better coach’
^ “Pop gets No.1,000 ”. NBA.comNBA (2015年2月6日). 2015年2月6日 閲覧。
^ “Gregg Popovich Passes Rick Adelman on NBA's All-Time Wins List ”. Bleacherreport.com (2015年12月15日). 2015年12月17日 閲覧。
^ NBA Game Info UTA vs. SAS(2015/12/14) NBA.com 2015年12月14日
^ “スパーズとキャバリアーズがスイープ、カンファレンス準決勝へ ”. ヤフースポーツ (2015年4月26日). 2016年4月26日 閲覧。
^ Popovich ties NBA mark for wins with one franchise
^ スパーズが76ersに勝利、グレッグ・ポポビッチHCは1球団での通算勝利数でNBA記録に並ぶ NBA JAPAN
^ “Gregg Popovich gets NBA-record 1,128th win as Spurs beat Nuggets ”. nbcsports.com (February 5, 2017). February 5, 2017 閲覧。
^ “San Antonio Spurs coach Gregg Popovich passes Phil Jackson for sixth on NBA's all-time win list ”. nba.com (2017年11月5日). 2017年11月6日 閲覧。
^ Gregg Popovich becomes fastest coach to reach 500 road wins in NBA career
^ ラマーカス・オルドリッジの活躍でスパーズが勝利、ポポビッチHCはアウェイでの500勝目を達成
^ “Gregg Popovich becomes third NBA coach to reach 1,300 wins ”. YahooSports (2021年3月26日). 20121-03-27 閲覧。
^ “Gregg Popovich ties Don Nelson for most wins in NBA history ”. yahoo.com (2022年3月7日). 2022年3月8日 閲覧。
^ “PGregg Popovich sets NBA coaching wins record, cements spot among best ever ”. sports.yahoo.com (2022年3月11日). 2022年3月12日 閲覧。
^ “PGregg Popovich No.1 All-time coaching wins ”. NBA.com (2022年3月11日). 2022年3月12日 閲覧。
^ 2002 USA Basketball
^ “Gregg Popovich Named 2017-20 USA National Team Head Coach ”. USA Basketball (October 23, 2015). October 24, 2015 閲覧。
^ “Team USA Loses to Serbia After Stunning Defeat to France in 2019 FIBA World Cup ”. Bleacher Report (September 12, 2019). February 27, 2020 閲覧。
^ McCallum, Jack (August 7, 2021). “Why More Americans Aren’t Happy for Gregg Popovich ”. The Atlantic . August 13, 2021 閲覧。
^ Helin, Kurt (August 7, 2021). “Watch Gregg Popovich do defensive shuffles after gold medal win ”. NBC Sports . August 13, 2021 閲覧。
^ “Steve Kerr to become the new USA Basketball head coach ”. Sportando (2021年12月10日). 2021年12月11日 閲覧。
^ PHIL JACKSON’S COACHING TREE HAS NOTHING ON POPOVICH’S Posted by Benjamin Bornstein on Jan 13, 2015 14:30
^ Coach Pop on pounding the rock
^ “Gregg Popovich hates foul strategy ”. ESPN.com (2014年1月30日). 2017年11月17日 閲覧。
^ “Gregg Popovich on the 3-point line: 'I still hate it' ”. Yahoo.sports.com (2015年12月10日). 2017年11月17日 閲覧。
^ “Gregg Popovich ”. USA Basketball . 3 July 2021時点のオリジナルよりアーカイブ 。3 July 2021 閲覧。
外部リンク
ダラス(テキサス)・チャパラルズ (1967-1973) サンアントニオ・スパーズ (1973--)
主な業績
1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代