彼の一族は長年弁論術の教育に関わってきた。祖父アレクサンダー・ベルはロンドンで、叔父はダブリンで、父はエディンバラで弁論術の専門家として活躍している。父は The Standard Elocutionist (1860)[17] などの著作で知られている。The Standard Elocutionist はイギリスで168刷まで版を重ね、アメリカ合衆国でも25万部以上を売り上げた。その中で父は、聾唖者(当時の呼称)に単語の発音を教える技法や、読唇術で他者が何をしゃべっているかを推測する技法を説明している。父はアレックや兄弟に視話法の書き方だけでなく、さまざまなシンボルとそれに付随する発音の識別法を教えた[20]。ベルはそれに熟達したため、父の公開デモンストレーションでも実演し、聴衆を驚かせた。彼は視話法で書かれていればどんな言語でも事前知識なしに正確に発音でき、ラテン語、スコットランド・ゲール語、さらにはサンスクリットなどを発音して人々を驚かせた[20]。
教育
幼少期のアレックは兄弟たちと同様、自宅で父から教育を受けた。それ以外に早くからエディンバラの Royal High School に入学したが、最初の4学年まで修了した15歳のときに退学している[21]。学校での記録によれば、欠席常習者で成績も平凡だった。彼が興味を持っていたのは科学、特に生物学だったが、ほかの教科にはまったく無関心だった[22]。退学後、アレックはロンドンへ行き祖父のもとに身を寄せた。祖父と過ごす間に向学心が湧き上がり、真剣な議論や学習に時間を費やすようになる。祖父はベルを教師にするために必要な信念と明瞭な話法を教え込んだ[23]。16歳のとき、スコットランドマレーのエルギンにあるウェストンハウス学院で弁論術と音楽の教師の職を得た。同時に学生としてラテン語とギリシャ語を学びつつ教師も務め、1回の授業あたり10ポンドの給料を得ていた[24]。翌年、兄メルヴィルが前年に入学したエディンバラ大学に入学。カナダに移住する直前の1868年、ロンドン大学の入学試験に合格している[25]。
その結果に好奇心をそそられたアレックは、一家の飼っていたスカイ・テリア "Trouve" を使った動物実験を行った[28]。彼はその犬に継続的に吠え方、唇の使い方などを教えこみ、犬は "Ow ah oo ga ma ma" としゃべる(うなる)ようになった。訪問者は犬が "How are you grandma?"(おばあさん、ごきげんいかが?)としゃべったことを信じられなかった。多くはアレックのいたずら好きの性質を知っていたが、ベルは彼らが「しゃべる犬」を目にしていることを納得させた[29]。この音声に関する最初の実験から、アレックは音叉を使っての共鳴など音響伝達について真剣に研究するようになる。
19歳のとき、それまでの研究成果を論文にまとめ、父の同僚だった言語学者アレクサンダー・ジョン・エリスに送った(エリスは、のちに『ピグマリオン』のヒギンズ博士のモデルとなった)[29]。エリスはすぐに、同様の実験はすでにドイツで行われているという返事を出し、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの著作 The Sensations of Tone as a Physiological Basis for the Theory of Music をアレックに貸している[30]。
6か月後にブラントフォードに戻ると、"harmonic telegraph" と名付けたものの実験を続けた[49][注釈 10]。彼の意匠の根底にある概念は、1つの導線で複数のメッセージをそれぞれ異なるピッチで送るというものだが、そのための送信機と受信機が新たに必要だった[50]。将来に確信がないまま彼はロンドンに戻って研究を完成させることも考えたが、結局ボストンに戻って教師をすることにした[51]。父の紹介で Clarke School for the Deaf の校長ガーディナー・グリーン・ハバードが彼の開業を支援することになった。1872年10月、ボストンで視話法を教える学校 "School of Vocal Physiology and Mechanics of Speech" を開校。多くの若い聾者の注目を集め、開校当初に30人が入学した[52][53]。のちに、当時まだ幼かったヘレン・ケラーと知り合っている。1887年、ベルはケラーに家庭教師アン・サリヴァンを紹介している。後年ケラーはベルについて、「隔離され隔絶された非人間的な静けさ」に風穴を開けてくれた人と評した[54]。
1875年、ベルは acoustic telegraph を開発し、その特許申請書を書いた。アメリカでの収益は後援者であるガーディナー・ハバードとトーマス・サンダースと分配することで合意し、Bell Patent Association の協定を成立させる。これが幾多の変遷を経て「ベル・システム」を完成させたAT&T (American Telephone and Telegraph Company) へつながっていく[69]。そこでベルはオンタリオ州の知人 George Brown に頼んでイギリスでも特許を出願し、イギリスで特許が受理されたあとにアメリカで特許申請するよう弁護士に指示した(イギリスは、ほかの国で以前に特許を取得した発明には特許を与えない方針だったため)[70]。
一方、イライシャ・グレイも同様の用途の実験を行っており、水を媒体として音声を電流に変換する方法を考えていた。1876年2月14日、グレイは水を媒体とする設計の電話について特許予告記載をワシントン特許局に申請した。同じ日の朝、ベルの弁護士もワシントン特許局にベルの「電信の改良」(Improvment in Telegraphy) の特許出願書を提出している。どちらが特許局に先に現れたのかについては議論があり、のちにグレイはベルの特許の無効を訴えることになった。2月14日にはベルはボストンにおり、2月26日までワシントンD.C.を訪れていない。
1876年3月10日、特許公告の3日後、電話の実験に成功。グレイの設計と似たような液体送信機を使っていた。音を受けた膜が振動し、その振動で水中の針を振動させ、回路内の電気抵抗を変化させる仕組みである。最初の言葉は「ワトソン君、用事がある、ちょっと来てくれたまえ」 ("Mr. Watson! Come here; I want to see you!") である[72]。ワトソンは隣の部屋の受信機でそれらの言葉をはっきりと聞いた[73]。
1887年の訴訟でなされた証言記録の中に、イタリアの発明家アントニオ・メウッチが1854年に世界初の実動する電話を作ったと主張した証言がある。1886年、ベルの関わった3つの訴訟の1つ目で、メウッチが発明の優先順位を決定づける証人として証言台に立った。メウッチの証言は発明の証拠物件が示されなかったため、異議を唱えられた。うわさによればその証拠物件はニューヨークの American District Telegraph (ADT)の研究所で紛失し、同所は1901年にウエスタンユニオンの一部となった[94][95]。当時の他の発明と同様、メウッチの業績はそれ以前から知られていた音響に関する原理に基づき、初期の実験の証拠もあったのだが、メウッチが亡くなったため、メウッチに関する訴訟は取り下げられた[96]。下院議員 Vito Fossella の努力により2002年6月11日、アメリカ合衆国下院は決議案269でメウッチの「電話の発明における業績は認められるべきである」という声明を採択したが、それで議論が終結するわけではない[97][注釈 16][98]。現代の学者の中には、ベルの電話についての業績がメウッチの発明に影響されたことを認めていない者もいる[注釈 17]。
1910年から1911年にかけて世界旅行に赴き、ベルとボールドウィンはフランスでフォルラニーニと面会し、マッジョーレ湖でフォルラニーニの水中翼船に乗った。ボールドウィンは飛んでいるように滑らかだったと描写している。バデックに戻るといくつかの模型を作って実験を開始。中でも Dhonnas Beag は彼らとしては初の自力推進する模型だった[130]。概念実証を経て、より実用的なHD-4を開発。これは、ルノー製エンジンを搭載した水中翼船である。最高時速87キロを達成し、水中翼の効果で加速が早く、波が高くても安定して操縦可能だった[131]。1913年、ベルはシドニー出身でノバスコシア州ウェストマウントでヨット作りをしていたウォルター・ピノードを雇って、HD-4の改良をさせた。ピノードはベイン・バリーの小型造船所を引き継ぎ、ヨット作りの経験を生かしてHD-4のデザインを改良。第一次世界大戦後、HD-4の改良を再開。ベルはアメリカ海軍に報告書を提出し、1919年7月に350馬力のエンジン2基を提供された。1919年9月9日、当時の水上の世界記録である時速114.0キロを達成し[132]、その記録は10年間破られなかった。
AEAが最後に設計した飛行機がシルバーダート号(英語版)で、それまでの経験を生かして設計され、1909年2月23日、マカーディが操縦して凍ったブラスダー湖上で初飛行し、カナダで最初に飛行した航空機となった。氷上の飛行ということでベルは事故を心配し、医師を待機させた。この成功をもってAEAは解散となり、シルバーダート号はボールドウィンとマカーディが創業した Canadian Aerodrome Company が引き継いだ。のちに彼らはカナダ陸軍向けにデモンストレーション飛行を行っている[139]。
優生学
ベルはアメリカでの優生学運動とも関わりがある。1883年11月13日、米国科学アカデミーで Memoir upon the formation of a deaf variety of the human race と題した講演を行い、その中で両親が先天的に聾者だった場合に聾者の子が生まれる可能性が高いため、そのような婚姻は避けるべきだと提唱した[140]。それとは別に家畜の繁殖を趣味として行っており、それが昂じて American Breeders Association の保護下にあった生物学者デイビッド・スター・ジョーダンの優生学委員会の委員に任命された。この委員会は明らかに優生学をヒトにも拡張適用した[141]。1912年から1918年まで、ニューヨークのコールド・スプリング・ハーバー研究所の優生記録所の科学諮問委員会委員長を務め、定期会合に出席していた。1921年、アメリカ自然史博物館が後援した第2回国際優生学会議の名誉議長を務めた。これらの組織はベルが「不完全な人種」と呼んだ人々の断種を法律化することを提案した(一部の州では実際に法律になった)。1930年代後半にはアメリカの半分の州が優生学的な法律を持っており、カリフォルニア州のそれはナチス・ドイツが手本にしたほどだった[142]。
ベルに関しては手紙やノートの類がほかの19世紀および20世紀の著名な発明家と比較しても圧倒的に多く、また、彼を顕彰する法人が丁寧に整理している。これはベルが学者で教育者であった点と、もう1つは特許に関して自分の発明が先行した点を証明する必要があった点が挙げられる。ベルの書いた書簡、ノート、論文、その他の文書はアメリカ議会図書館 (Alexander Graham Bell Family Papers)[162] とノバスコシア州のケープ・ブレトン大学にあるアレクサンダー・グラハム・ベル研究所に集められており、大部分はオンラインで閲覧可能となっている。それらの記録を細かく整理したうえで作成された伝記が『孤独の克服 - グラハム・ベルの生涯』(ロバート・V・ブルース著)である。
The Bell Homestead National Historic Site はベル一家が北米に移住してきた際の最初の屋敷である。カナダの最初の電話会社の建物 "Henderson Home" は、1969年に Bell Homestead のそばに移築された。ブラントフォードの Bell Homestead Society が運営している[164]。
ブラントフォードの北にある Alexander Graham Bell Memorial Park には、1917年に立てられた新古典主義の複数の記念碑がある。
^ハバードの支援は十分ではなく、ベルは研究の傍ら教職を続けなければならなかった[67]。金に困ったベルは雇っていたトーマス・ワトソンに金を借りたことさえある。ベル電話会社(およびAT&T)の前身となった Bell Patent Association はハバードとサンダースとベルが結成したものだが、後に収益の約10%をワトソンに与えることにした[68]。これは、最初の電話機を試作したことにベルがワトソンに借金していたことと給料の代替とするという意味があった。
^MacLeod 1999, pp. 12–13 では、この特許の草稿のコピーが示されており、「おそらく史上最も価値のある特許」とされている。
^ブラントフォードの新たなベル・テレフォン・ビルディングの柱廊玄関にベル像が設置され、1949年6月17日に除幕式が行われた。ベルの娘ギルバート・グローヴナー夫人、ベル・カナダ社長フレデリック・ジョンソン、ブラントフォード市長ウォルター・J・ドウデンらが列席している。像に面した柱には "In Gratefull Recognition of the Inventor of the Telephone" と刻まれていた。この式典の模様はカナダ中に生中継された。[154][155]
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