Bell Labs Holmdel Complex
ベル研究所 (ベルけんきゅうじょ、Bell Laboratories)は、アメリカ合衆国 の通信研究所 である。もともとベルシステム の研究開発 部門として設立された研究所であり、現在はノキア の子会社である。「ベル電話研究所 」、略して「ベル研 (Bell Labs)」とも。
概説
ベル研究所とは、ベル・システム社が1920年代に設立した研究所であり、その起源はグラハム・ベル が1880年にボルタ賞 の賞金で設立したボルタ研究所 に遡る。現在はノキア の子会社である。「Bell Laboratories」の名前は、電話の発明者Bell(グラハム・ベル )に由来するといわれている。
ニュージャージー州 マレーヒル を本拠地とし、その研究施設は世界中に点在する。
ベル研究所は、電話交換機 から電話線のカバー、トランジスタ まであらゆるものの開発を行ってきた。おおまかにいうと、研究 、システム工学 、開発 の3つに分けることができた。
研究としては主に電気通信 の基礎技術に関するものであったが、数学 、物理学 、人間行動科学 、材料科学 、コンピュータープログラミング 理論などについて行っていた。この基礎研究に優れていることが、ベル研究所のひとつの大きな特徴であったが、2002年にヘンドリック・シェーン による科学における不正行為 事件が発覚。2008年に親会社によって「基礎研究から撤退する」という発表がなされる、という結果となった。
システム工学に関しては電気通信 の分野で非常に複雑なシステムを作り上げている。開発としては通信網の構築に必要としたものよりも遥かに多くのものをハードウェア 、ソフトウェア どちらの分野でも開発した。
起源と所在地の変遷
1925年 に当時のAT&T 社長ウォルター・グリフォードが独立事業としてベル研究所を設立した。もともとはウェスタン・エレクトリック 社の研究部門とAT&Tの技術部門を引き継いだもので、AT&Tとウェスタン・エレクトリック社がそれぞれ50%ずつ出資 した。最初の研究所長は Frank B. Jewett で、1940年まで所長を務めた。電話交換機 など、AT&T向けにウェスタン・エレクトリックが製造する装置の設計 とサポートを主な業務としていた。電話会社向けのサポート業務としては、包括的な技術マニュアル (手引書)のシリーズ en:Bell System Practices (BSP) の執筆と保守がある。親会社に対するコンサルタント業務 も行った。また、プロジェクト・ナイキ やアポロ計画 などアメリカ政府の仕事も請け負った。基礎研究に携わる人員はごく一部だが、ノーベル賞 受賞者を何人か輩出したこともあって、特に注目を浴びた。1940年代 までベル研究所の本拠地はニューヨーク 市内 のビル を中心として点在していたが、そのほとんどはニューヨーク郊外 のニュージャージー州 に移転された。
ニュージャージー州内のベル研究所の所在地としては、マレーヒル (英語版 ) 、ホルムデル (英語版 ) (en:Bell Labs Holmdel Complex )、クロフォードヒル (英語版 ) 、Deal Test Site、フリーホールド、リンクロフト、ロングブランチ 、ミドルタウン 、プリンストン 、ピスカタウェイ 、レッドバンク、ホイッパニーがある。このうち、クロフォードヒルとホイッパニーの研究所は現存している。エーロ・サーリネン が設計したニュージャージー州 ホルムデル の建物(en )は、現在は売却されて無人のまま放置されているが、複合商業施設に改装される予定。従業員が多いのはイリノイ州 シカゴ 近郊の Naperville や Lisle のあたりで、2001年までは最も集中していた(約1万1000人)。他に従業員が集中していた地域として、オハイオ州 コロンバス 、マサチューセッツ州 ノースアンドーバー、ペンシルベニア州 アレンタウン 、ペンシルベニア州レディング 、ペンシルベニア州ブレイングスビル、コロラド州 ウェストミンスター などがある。これらは2001年以降には規模が縮小されるか、完全に閉鎖された。
発明と発見の歴史
ベル研究所の絶頂期には、その施設は当時としては最先端であり、様々な革新的技術(電波望遠鏡 、トランジスタ 、レーザー 、情報理論 、UNIX オペレーティングシステム 、C言語 など)を開発していた。ベル研究所での研究により、これまでに7つのノーベル賞 を獲得している[ 1] 。
1920年代
1924年、ウォルター・A・シューハート が製造工程の統計的管理手法として管理図 を提案。シューハートは翌年設立されるベル研究所で引退するまで研究に従事した。シューハートの手法は統計的プロセス制御 の基盤となった。これはシックス・シグマ などの現代的品質管理の先駆けである。
運営開始の初年には、よそで発明されたファクシミリ の世界初の公開デモンストレーションを行った。1926年、世界初のトーキー (音声と映像の同期)システムを発明した[ 2] 。
1927年、テレビ の長距離送受信実験として、アメリカ合衆国商務長官 ハーバート・フーヴァー の動画をワシントンからニューヨークに転送する実験を成功させた。1928年、ジョン・B・ジョンソンとハリー・ナイキスト が初めて熱雑音 を発見し、理論的分析を行った(このため「ジョンソン・ノイズ」とも呼ぶ)。
1920年代には、Gilbert Vernam と Joseph Mauborgne がベル研究所でワンタイムパッド 式暗号 を発明している。ベル研究所のクロード・シャノン が後にこの暗号が破れないことを証明した。
1930年代
カール・ジャンスキーが研究に使ったアンテナのレプリカ
1931年、カール・ジャンスキー はベル研究所で長距離通信時における定常雑音を調査し、ノイズの原因となる電波 が銀河系 の中心から出ていることを突き止めた。これは電波望遠鏡 に通じる発見で、のちに電波天文学 の始まりとなったが、通信に関する問題ではないのであまり集中して行うことはなかった。1933年、ステレオ 音声信号をフィラデルフィア からワシントンD.C. に生中継した。1937年、ホーマー・ダッドリー (英語版 ) が世界初の電子音声合成 器ヴォーダー (英語版 ) を発明し、デモンストレーションを行った。ベル研究所の研究員クリントン・デイヴィソン は、ジョージ・パジェット・トムソン と共に電子回折 現象を発見し、ノーベル物理学賞を受賞した。これは、後のソリッドステート 電子工学の基盤となった発見である。
1940年代
1947年、ベル研究所で発明された点接触型ゲルマニウム トランジスタ 。この画像はレプリカ
1940年代初め、Russell Ohl が光電セル を開発した。1943年、世界初のデジタル式音声暗号化システム SIGSALY を開発。これが第二次世界大戦中に味方同士の通信に利用された。また、真空管の6AK5 はレーダーシステムに広く利用された。1947年、ジョン・バーディーン 、 ウィリアム・ショックレー 、ウォルター・ブラッテン がトランジスタ を発明した(1956年、ノーベル物理学賞を受賞)。ベル研究所の最重要発明品と言われている。同年、リチャード・ハミング が誤り検出訂正 のためのハミング符号 を発明。特許が確定する1950年までその成果は公表されなかった。1948年、クロード・シャノン が情報理論 の基礎を築いた "A Mathematical Theory of Communication" (通信の数学的理論 )を Bell System Technical Journal に発表。ベル研究所の先達であるハリー・ナイキスト やラルフ・ハートレー の業績を踏まえつつ、それらを大幅に発展させた。シャノンは1949年の論文 Communication Theory of Secrecy Systems で現代暗号論の基礎を築いた。
ベル研究所では、ジョージ・スティビッツ らが1940年代にリレー を使った計算機をいくつも開発した。
モデルI - Complex Number Calculator。1940年1月完成。複素数 の計算ができる。
モデルII - Relay Calculator または Relay Interpolator。1943年9月。高射砲の照準計算用。
モデルIII - Ballistic Computer。1944年6月。弾道計算用。
モデルIV - Bell Laboratories Relay Calculator。1945年3月。Ballistic Computer の後継機。
モデルV - Bell Laboratories General Purpose Relay Calculator。1946年7月と1947年2月に2台制作。リレー式の汎用プログラマブル計算機。
モデルVI - 1950年11月。モデルVの拡張版。
1950年代
1950年代は、本来の電話事業の技術的サポートにおける改良が主で、マイクロ波 中継、オペレーターを介さない自動即時通話、中継局 、電話通信用継電器 (wire spring relay)、新型交換機(5XB)などが登場した。1953年、モーリス・カルノーがカルノー図 を開発。ブール代数 式を扱いやすくするツールとして重宝された。1954年、世界初の実用的な太陽電池 を開発した[ 3] 。1956年に敷設された初の大西洋横断海底ケーブル TAT-1(スコットランド-ニューファンドランド島間)は、AT&T、ベル研究所、イギリスとカナダの電話会社が関与した。1957年、マックス・マシューズ が電子音楽演算用コンピュータプログラムMUSIC を開発した。MUSICシリーズは現在の多くのコンピュータミュージック プログラムの基礎となった。ロバート・C・プリム とジョゼフ・クラスカル (英語版 ) が新たな貪欲法 アルゴリズムを開発し、コンピュータネットワーク 設計を進化させた。1958年、アーサー・ショーロー とチャールズ・タウンズ の学術論文で初めて「レーザー 」なるものが紹介された。
1960年代
1960年代には、ダウォン・カーン とMartin Atallaが金属酸化膜半導体電界効果トランジスタ(MOSFET )を発明。MOSFETは、今日の情報社会を支える大規模集積回路 (LSI) の基盤となっている。1960年12月、A.Javanらは初めての気体レーザー であるヘリウムネオンレーザー の発振に成功。1962年、Gerhard M. Sessler と James E.M. West がエレクトレットマイク を発明。1964年、Kumar Patel が炭酸ガスレーザー の発生装置を発明。1965年には、アーノ・ペンジアス とロバート・W・ウィルソン が、宇宙マイクロ波背景放射 を発見し、1978年にノーベル物理学賞を受賞。1966年、R.W. Chang が無線通信サービスの重要な技術である直交周波数分割多重方式 (OFDM) を開発し、特許を取得した。1968年、J.R. Arthur と A.Y. Cho が分子線エピタキシー法 を開発。1969年には、デニス・リッチー とケン・トンプソン がUNIX の開発を開始した。ウィラード・ボイル とジョージ・E・スミス が電荷結合素子 (CCD) を発明したのも1969年である。
1970年代
1970年代以降、ベル研究所でも世の流れに乗って、コンピュータ関連の発明が多くなってくる。
1971年、コンピュータを使った電話交換機 用のタスク優先度制御システムを Erna Schneider Hoover が開発し、世界初のソフトウェア特許 を取得した。
1972年、デニス・リッチー がインタプリタ型言語B の代わりにコンパイル型言語C を開発し、UNIX のより良い書き直し[ 4] のために採用された。
1976年、ジョージア州 で世界初の光ファイバー 通信システムの試験を行った。
1978年、デニス・リッチーとブライアン・カーニハン がC言語の事実上の規格書『プログラミング言語C』を出版。
1980年、世界初のワンチップ32ビット マイクロプロセッサ BELLMAC-32A がデモンストレーションで動作した(製品化は1982年)。
1970年代には、それまでリレーやトランジスタで構成されていた交換機から、ベル研究所が開発したTTL集積回路を使ったプログラム内蔵式の交換機へとテクノロジーが進化した。新型交換機はイリノイ州の Naperville にあるベル研究所の施設と Lisle にあるウェスタン・エレクトリック の施設で製造された。これにより交換機設置に要する床面積が劇的に減少した。また、新型交換機には自動診断ソフトウェアが搭載され、保守要員を減らすことに寄与した。これらの技術については、Bell Labs Technical Journals などでよく紹介されていた[要出典 ] 。
1980年代
1980年代には、TDMA およびCDMA という携帯電話で使われる技術の特許を取得。1982年、ホルスト・シュテルマー と、ベル研究所研究員だったロバート・ラフリン とダニエル・ツイ が、分数量子ホール効果 を発見(1998年にノーベル賞を受賞)。1983年、ビャーネ・ストロヴストルップ がC言語を拡張したC++ を開発。これもベル研究所で生まれた。
1984年、Auston らがピコ秒電磁放射の光伝導アンテナ を世界で初めてデモンストレーションした。これは今では、テラヘルツ時間領域分光 の重要な部分を担っている。1984年、数学者ナレンドラ・カーマーカー がカーマーカー線形計画法 を開発した。同じく1984年、アメリカ連邦政府がAT&Tの分割を決定した。分割された地域ベル電話会社 のために、ベル研究所から Bellcore(現 Telcordia Technologies)が分離。AT&T本体は、ベル研究所に関する部分でのみ伝統的なベルのマークを使えるという制限を受けた。これまで正式名称は Bell Telephone Laboratories, Inc. だったが、AT&T Bell Laboratories, Inc. に改称され、ウェスタン・エレクトリック が改称してできたAT&Tテクノロジーズの100%子会社となった。このころ新世代の交換機(5ESS Switch)を開発している。1985年、スティーブン・チュー のチームがレーザー冷却 により原子を捕獲する技術を開発した。同じく1985年、UNIX の後継として Plan 9 オペレーティングシステムの開発を開始。1988年、大西洋横断海底ケーブルとして初めて光ファイバーを使った TAT-8 が敷設された。
1990年代
1990年、世界初の無線LAN WaveLAN を開発。無線LAN技術は1990年代末ごろまで広まらず、最初にデモンストレーションしたのは1995年だった。1991年、Nuri Dağdeviren と彼のチームが56Kモデム の技術を開発し、特許を取得した。1994年、フェデリコ・カパッソ 、アルフレッド・チョー 、Jerome Faist らが量子カスケードレーザー を発明し、後に Claire Gmachl が更なる技術革新による改良を施した。同じく1994年、Peter Shor が量子因数分解アルゴリズムを考案。1996年、Lloyd Harriott と彼のチームがマイクロチップ上に原子幅の形を印刷するSCALPEL電子リソグラフィ を発明した。デニス・リッチーらはLimbo という新たな言語を使い、Plan 9 を元にして Inferno オペレーティングシステムを制作した。また、高性能データベースエンジン (Dali) を開発し、DataBlitz という名称で製品化した。
AT&Tはベル研究所を含めたAT&Tテクノロジーズを独立させ、ルーセント・テクノロジーズ とした。その際、一部の研究者を引き抜き、新たにAT&T研究所を創設した。1997年、世界最小の実用的トランジスタ(60ナノメートル 、原子182個ぶん)を作り出した。1998年、世界初の光ルーター を完成させ、音声とデータを同時に IPネットワーク 上で転送する技術も開発した。
2000年代
2000年はベル研究所にとって忙しい年になった。まず、DNAマシン (英語版 ) のプロトタイプを開発。3次元CGを使った広範囲な通信を可能にする漸近的ジオメトリ圧縮アルゴリズムを開発。7月には世界初の電気で発生する有機レーザー を発明[ 5] [ 6] (後に捏造と判明)。宇宙の暗黒物質 の分布を表す大規模な地図を作成。プラスチックトランジスタ を可能にする有機素材 F-15 を発明。
2002年、ヘンドリック・シェーン が超伝導 に関する研究において実験データを繰り返し改竄していたこと(科学における不正行為 を行っていたこと)(いわゆる「シェーン・スキャンダル (英語版 ) 」)を理由として、解雇。ベル研究所において初めて発覚した大規模な詐欺行為であり、組織運営や他の研究員らの活動にも大きな影響を及ぼした。
2003年、マレーヒルに New Jersey Nanotechnology Laboratory を創設[ 7] 。
2005年、ルーセントの光ネットワーク部門の担当重役だった Jeong H. Kim が学界から戻り、ベル研究所の所長となった。
2006年4月、親会社のルーセント・テクノロジーズはアルカテル との合併に合意した。2006年12月1日、アルカテル・ルーセント が業務を開始。ベル研究所はアメリカの国防関係の研究開発にも関わっていたため、この合併に対して合衆国政府 は懸念を抱いた。ベル研究所およびルーセントとアメリカ政府との間の国家機密に関わる契約を扱うため、アメリカ人のみで構成される取締役会の別会社 LGS が創設された。
2007年12月、ルーセントのベル研究所とアルカテルの研究開発部門が合併し、新たなベル研究所となることが発表された。それまで長期にわたってベル研究所はスピンオフや解雇で人員を削減され続けていたが、この機会に久しぶりの成長を遂げた。
しかし2008年7月時点で、科学雑誌「ネイチャー 」は、(ベル研で)物理学の基礎研究を行っている科学者は4人しか残っていない、と指摘した [ 8] 。
2008年8月28日、アルカテル・ルーセントは、ベル研究所について、基礎科学、物性物理学、半導体研究といった分野からは手を引き 、ネットワーク、高速電子工学、無線ネットワーク、ナノテクノロジー、ソフトウェアといった収益に結びつきやすい分野に注力すると発表した[ 9] 。
2010年代
2015年4月、ノキア はアルカテル・ルーセントを$166億で買収することに合意した[ 10] [ 11] 。2016年1月14日、アルカテル・ルーセントとベル研究所は正式にノキアの傘下となった。
関連項目
脚注・出典
外部リンク
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