1965年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第17回大会である。3月にデイトナ・インターナショナル・スピードウェイで開催されたアメリカGPで開幕し、鈴鹿で開催された最終戦日本GPまで、全13戦で争われた。
チェコスロバキアの国内レースとして開催されていたチェコスロバキアGPが世界選手権に昇格し、この年のロードレース世界選手権は全13戦となった。250ccクラスは全てのグランプリでレースが行われている。またこの年のドイツGPは、初めてニュルブルクリンクの1周7.747kmの南コース(ショートコース)で行われた。
1957年から基本的に進化していない2バルブ4気筒のマシンで350ccクラスと500ccクラスを戦ってきたMVアグスタは、戦う相手が単気筒マシンしかいない500ccクラスでは相変わらず他を圧倒する速さを発揮し続けていたが、ホンダのパワフルなマシンに大きく遅れをとっていた350ccクラスには、この年ついに新型の4バルブ3気筒マシンを送り込んだ[1]。しかし、この軽量で扱いやすい新型3気筒マシンはイタリアの新人ジャコモ・アゴスチーニに優先的に与えられ、長くMVアグスタの500ccタイトルを守り続けてきたマイク・ヘイルウッドは当初は旧くて重い4気筒に乗らなければならなかった。このイタリア人を優先して勝たせようとするMVアグスタのアグスタ伯爵の独裁ぶりに、これまでも決して円満とは言えなかったヘイルウッドとMVアグスタとの間の亀裂は決定的なものとなった[2]。最終戦となった日本GPの350ccクラスでホンダのジム・レッドマンを破って優勝したヘイルウッドは350ccのレース後にMVアグスタを離れ、同じ日に続いて行われた250ccクラスのレースからはホンダ陣営に加わったのである[3]。
一方、小排気量クラスにおける4ストロークのホンダと、2ストロークのヤマハ、スズキとの技術競争にはますます拍車がかかっていた。ヤマハは125ccの2気筒を水冷化し[4]、シーズン終盤には125ccの2気筒を2段重ねにした250ccV型4気筒のマシンを投入[5]。スズキも250cc水冷スクエア4に続いて125ccのマシンを水冷化、50ccクラスには水冷2気筒のマシンを走らせた[6]。対するホンダは前年の250cc6気筒に加えて、この年の2月には125cc5気筒マシンの開発をスタートさせ、最終戦で実戦に投入している[7]。また、以前から最高峰クラスへの参戦を噂されていたホンダは、やはりこの年の2月から350ccモデルをベースにした500ccマシンの開発を始めていた[8]。
MVアグスタの4気筒は、この年もこれまで同様にマチレスやノートンの単気筒に比べて充分に速く、マイク・ヘイルウッドは10戦中8勝を挙げて易々と500ccクラス4連覇を達成した[9]。雨となった第3戦マン島では転倒したにもかかわらず、再スタートから優勝している[10]。ただ一人ヘイルウッドと同じマシンに乗る新人のジャコモ・アゴスチーニは順当にランキング2位を獲得したものの、ほとんどのレースではヘイルウッドに大差をつけられての2位だった。それでも初めて500ccのマシンでレースをしたシーズン序盤に比べて終盤にはその差はかなり縮まっており、ヘイルウッドがフィニッシュできなかった第9戦のフィンランドGPではこのクラスでの初勝利を記録している[11]。
MVアグスタが投入した350cc専用設計の3気筒マシンは、気筒あたり4バルブで13000回転まで回すことができるエンジンに7速ギアボックスが組み合わされ、更に旧来の4気筒より格段に軽量コンパクト化されたことで従来のウィークポイントであったコーナーリング性能が大幅に改善されていた[1]。そしてイタリア人にタイトルを獲らせたいと考えていたアグスタ伯爵は、緒戦のドイツGPで、この新型マシンを実績のあるマイク・ヘイルウッドではなくチームに抜擢したばかりの新人ジャコモ・アゴスチーニに与えた[12]。それに対して、前シーズンは全戦全勝という完全勝利でタイトルを得たホンダとジム・レッドマンは、前年型を更に改良した4気筒の2RC172で臨んだ。
開幕戦のドイツではレッドマンがクラッシュし、新型を与えられたアゴスチーニが期待に応えてグランプリ初優勝を飾った。続くマン島TTではレッドマンの相手はヘイルウッドになったが、ヘイルウッドがエンジントラブルでリタイヤしてレッドマンがシーズン初優勝を挙げた[13]。レッドマンはそのままの勢いで第5戦チェコスロバキアGPまで4連勝してシーズンをリードしたがアルスターGPで再びクラッシュ、その後の2戦を欠場することになってしまった。そしてレッドマンがいない間にアゴスチーニがフィンランド、イタリアと連勝し、タイトル決定は最終戦の日本GPに持ち越された。なんとしてもアゴスチーニにタイトルを獲らせたいMVアグスタは日本GPではチームオーダーによってアゴスチーニを先行させ、ヘイルウッドには後方でレッドマンを抑え込む役目を命じた。しかしアゴスチーニはマシントラブルによって後退し、レースはヘイルウッドが優勝。2位に入賞したレッドマンとホンダが4年連続となるタイトルを獲得した[14][15]。
この年、ヤマハが250ccの2ストローク空冷2気筒を拡大したマシンでこのクラスの数戦に出場し、マン島ではフィル・リードがレッドマンに続く2位でフィニッシュした[14]。
ホンダが例年通り開幕戦のアメリカGP出場を見合わせ、ヤマハのフィル・リードとマイク・ダフが順当に1・2フィニッシュを飾った。ホンダは第2戦のドイツから前年デビューの6気筒RC165を走らせたがジム・レッドマンは350ccのレースで負傷し、続くスペインも欠場する羽目となった。第4戦フランスで復帰したレッドマンだったがトップを走りながらトラブルに見舞われ、リードに開幕からの4連勝を許した。第5戦マン島でもヤマハの速さは変わらず、リードは250ccで初めてオーバー・ザ・トン(ラップ速度100mph以上)を記録したがその直後にエンジントラブルでリタイヤし、このレースから投入された改良型6気筒の2RC165に乗るレッドマンがシーズン初勝利を挙げた。レッドマンはその後のベルギー、東ドイツと勝利して巻き返しを図ったが、第10戦アルスターGPの350ccで再びクラッシュして250ccのレースを欠場、7勝目を挙げたリードが2年連続の250ccタイトルを獲得した[10][16]。
タイトルが決まった後、ヤマハはイタリアGPで空冷V型4気筒のRD05をデビューさせたが、雨となったイタリアではオーバークールに悩まされ、最終戦の日本GPでは水冷型のRD05を投入した。わずか8台のみの出走となった日本GPでは、直前の350ccのレースでホンダのライバルであるMVアグスタでレッドマンと戦ったマイク・ヘイルウッドが一転してレッドマンのチームメイトとしてホンダに乗り、次々と脱落するライバルを尻目に初めて乗る6気筒で勝利を飾った[13]。
前年、タイトルをホンダに奪われたスズキは、前年の最終戦でデビューウィンを飾った水冷マシンを更に熟成させたRT65をヒュー・アンダーソン、フランク・ペリス、エルンスト・デグナーらに託してタイトル奪還を図った。一方のホンダはチャンピオンのルイジ・タベリが前年型のマシンで戦ったが、シーズン初出場となった第2戦のドイツGPから3戦連続でタベリとチームメイトのラルフ・ブライアンズが共にマシントラブルのためにリタイヤとなってしまい、スズキのアンダーソンが開幕から4連勝を挙げた。第5戦マン島でホンダは改良型のマシンを投入したが同時にヤマハも水冷2気筒のRA97をデビューさせ、RA97に乗るフィル・リードがタベリとの接戦の末に優勝した[13]。続くダッチTTもヤマハのマイク・ダフが制したが、このレースの後RA97は日本に送り返され最終戦までレースを走ることはなかった[10]。また、4気筒では2ストローク勢に対抗できないことを知ったホンダも東ドイツGP以降のレースを欠場し、開発中の5気筒マシンが完成するまでの間はライダーたちを他のクラスに専念させた[17]。残りのレースはライバルのいなくなったスズキ勢の独擅場となり、第11戦イタリアで6勝目を挙げたアンダーソンが1963年以来となる125ccクラスのタイトルを取り戻した[18]。
毎年日本のメーカーによる新型マシンのお披露目の場となっていた最終戦日本GPだが、この年はホンダが125cc並列5気筒という前代未聞のメカニズムを持つRC148をデビューさせた。これは本田宗一郎の「50cc2気筒エンジンのシリンダーを5つ並べればよい」というアイディアから生まれたもので、その言葉通りにピストンやバルブなどは同時期に開発されていた50cc2気筒のマシンと同じものが使われていた。完成したばかりのこのマシンを駆ったタベリはポールポジションを獲得し、レース序盤にトップに立つ速さを見せたもののテスト不足によるトラブルで終盤にはペースダウンし、最後はアンダーソンに次ぐ2位でフィニッシュした[7]。
また、この年の日本GP125ccクラスでは、日本のカワサキが2ストローク2気筒のマシンでグランプリデビューしたが、ポイントを獲得することはできなかった[13]。
前年タイトルを獲得したスズキだったが、強力なライバルとなりつつあったホンダの2気筒に対抗するために水冷2気筒のRK65を投入し、ホンダが欠場した開幕戦アメリカGPではエルンスト・デグナーがRK65のデビューレースを勝利で飾った。ホンダは前年型の2気筒をショートストローク化して更に高回転・高出力化したRC115で、前年ランキング2位のラルフ・ブライアンズが第2戦ドイツGPに勝利した。第3戦スペインではスズキのディフェンディング・チャンピオン、ヒュー・アンダーソンが優勝し、第4戦フランスではブライアンズが2勝目、マン島TTではホンダのルイジ・タベリがシーズン初勝利と、その後もホンダとスズキの互角の戦いがシーズンを通して繰り広げられ、タイトル争いは最終戦までもつれ込んだ[19]。最終戦の日本GPではアンダーソンがポールポジションを獲得し、決勝でもタベリ、ブライアンズらとトップ争いを展開するが最終ラップで転倒を喫し、優勝したタベリに続いて2位に入賞したブライアンズが初めてのタイトルを獲得した[20]。50ccクラスで4ストロークのマシンに乗るライダーがライダーズ・タイトルを獲得したのは、この年のブライアンズが唯一である[10]。
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