ビアンキ ES250
ビアンキ ( Bianchi ) は、現在は自転車メーカーとして有名なイタリアのビアンキ社 ( F.I.V. Edoardo Bianchi S.p.A ) が1897年から1967年まで製造していたオートバイ のブランド である。1925年から1930年にかけては、ロードレース の世界でも名を知られていた[ 1] 。
歴史
初期
1885年に自転車の生産を始めたビアンキ社の創設者であるエドアルド・ビアンキ ( Edoardo Bianchi ) は、イタリアのオートバイの歴史においても先駆者のひとりだった。ビアンキは1887年に自転車にエンジンを取り付けた後のオートバイの原型を造り、1900年には自動車の製造も始めている。1903年にはエンジンを取り付ける自転車のフレームを強化されたタイプにし、1905年にはリーディングリンク式のフロントフォーク を装着した。そして1910年に発売した498cc単気筒エンジン のモデルが大成功を収め、ビアンキの名はオートバイのブランド名としての名声を確立した[ 1] [ 2] 。
1916年にV型2気筒 650ccのモデルが造られ、このエンジンは1920年には741ccまで拡大された。また1921年には逆に598ccに小型化されたV型2気筒と、全くの新設計となる単気筒498ccのモデルがリリースされた。1923年には348ccのサイドバルブ 単気筒、498ccと598ccのV型2気筒が、そして1924年には178ccのOHV 単気筒エンジンのモデルがラインナップに加わった[ 1] 。
1937年に製造されたES250 は二つの排気ポート を持つSOHC 単気筒のドライサンプ エンジンを搭載したシャフト駆動 のモデルで、その高品質によってビアンキを代表するオートバイとなった[ 3] 。
レース活動
1925年、348ccのOHV単気筒エンジンのモデルが発売されると、ビアンキはこのモデルをベースにしたDOHC のワークスレーサー を造った。チーフ エンジニア のアルビーノ・バルディの設計によるこのマシンはタツィオ・ヌヴォラーリ 、アミルカレ・モレッティ、マリオ・ジェルシ、カール・コドリック、ジーノ・ザンケッタ、ルイジ・アルカンジェリらのライディングによって活躍し、1930年までの5年間で最も成功したイタリア製ロードレーサーとなった[ 1] 。
1930年、バルディは今度は498ccのOHC 単気筒レーサーを設計した。このマシンにはジョルダーノ・アルドリゲッティ、アルド・ピガリーニ、テルッツォ・バンディーニ、ドリノ・セラフィーニ、グイド・セラトー、アルベルト・アスカリ といったライダーが乗って活躍した[ 1] 。
1938年には498ccのスーパーチャージャー 付きDOHC4気筒のレーサーが造られたが、このマシンの開発は第二次世界大戦 の勃発によって止まってしまった[ 1] 。
第二次世界大戦後
1946年、創設者のエドアルド・ビアンキが死去し、会社の実権は息子のジュゼッペの手に移った。第二次大戦後にビアンキは123ccと248ccのOHC単気筒レーサーを造り、1950年代後半には248ccと348ccのDOHC2気筒エンジンのモデルをリリースした。また少数のモデルが498ccに排気量を拡大され、500ccクラスのレースで活躍した[ 1] 。
戦後にビアンキが生産した市販モデルには、49ccのモデル、75ccのガルデナ ( Bianchi Gardena )、122ccと173ccの2ストローク モデル、OHC単気筒173ccでチェーン駆動 のトナーレ ( Bianchi Tonale ) などがある。革新的なデザインのモペッドであるファルコ ( Bianchi Falco ) には、オーストリアのプフ ( en:Puch ) からライセンスを得て生産された49ccの2ストロークエンジンが搭載された。ファルコには一人乗りと二人乗りのモデルが用意されており、プレス成型 のフレームと左手グリップでクラッチ を操作する3速ギヤボックス による軽快な走りが特徴だった[ 1] 。
1961年 にはイギリス人ライダーのボブ・マッキンタイヤ がビアンキのマシンでロードレース世界選手権 350ccクラスを戦い、ランキング4位を獲得している[ 4] 。
1967年、ビアンキはオートバイの生産を終了し、オートバイに関する全ての権利をイノチェンティ ( en:Innocenti ) に譲渡した[ 1] 。
関連項目
脚注